第26話
この季節のリドゥワの朝は、まとわりつくような生温い湿気が漂う。しかし、今朝はなぜか爽やかで、太守の邸宅へ向かう高級住宅地の広い街路には涼やかな風が吹いていた。
緊張した面持ちで、ユハは歩く。
前にはカドラヒと商会の男たちが二人。ダリュワはいない。ハーリオドを人質に取られた商会を抑える役割があるからだ。隣には月瞳の君が歩く。ユハとは対照的な、寛いだ表情で辺りを見回している。
カドラヒたちは、高位の者に会ったり、畏まった場所に赴く際に着るウルス人の礼装姿だ。それとは対照的に、ユハと月瞳の君は簡素な旅装に身を包み、荷を携えている。しかも、ユハは背に剣を負っていた。これは、ウルス人社会において礼を失した態度であり、ユハの太守ラアシュに対する気持ちを表したものだ。そして、何よりこれから起こることに備えた実際的な理由もあった。
シェリウを救い出すために自分ができることは何もない。ただ、囮として太守ラアシュの気を惹きつけて、その間にシェリウを救い出す。そのために別れたラハトを信じ、自分を守ってくれるという月瞳の君を信じるしかない。無力な自分が腹立たしいが、己の役割を果たすことに専念するのが何より大事だ。
豪奢な邸宅が建ち並ぶこの町の、ゆるやかな坂を上っていく。見上げる視線の先に、一際大きな館があった。
ウルス人のゆったりとした礼装に身を包んだ使用人たちが恭しく頭を下げてユハたちを出迎える。
軽く頭を下げながら、門に入った。
そこには、精悍な笑みを浮かべた男が立っていた。
「ようこそ、碧眼の君よ。当家にお迎え出来て、実に喜ばしい」
太守ラアシュは、一礼するとユハに歩み寄った。
「あらあら、太守自らお出迎えとは、光栄なことねぇ」
月瞳の君が、口の端を歪めてラアシュを見やる。
「偉大なる御方をお迎えするのだ。礼を尽くすのは当然だろう、精霊よ」
ラアシュは月瞳の君に顔を向け、にこやかに答えた。
「ラハトという男はどうした」
ラアシュの斜め後ろに立った長身の男、カフラの問いに、月瞳の君は肩をすくめてみせる。
「あいつは薄情な奴なのよ。付き合いきれないって、どこかに行ってしまったわ」
「それを信じているのか?」
「信じるも何も、いなくなったんだから、もうどうでもいいことよ。それまでの男だったってことねぇ。あなた達の方が行き先を知っているんじゃない?」
カフラは、月瞳の君から視線を移すと、ユハを見つめた。ユハはその視線を正面から受け止める。
「ここにいない者の話しをしても仕方がないだろう。偉大なる碧眼の君をこのまま館の前に立たせておくなど、無礼だぞ、カフラ」
ラアシュがカフラを顧みて言った。口を噤んだカフラは一礼する。
「あなたの命ずるように、私はここに来ました。シェリウに会わせてください」
ユハは、ラアシュを見つめて口を開いた。
「勿論だとも。そなたの大事な
ラアシュは、優雅な仕草で館へ招き入れる。
ユハは、太守の館を一瞥した。
『狼煙を上げる。それが合図だ』
ラハトはそう言っていた。
しかし、その狼煙というのが一体何なのか、それは教えてくれなかった。
ラハトの合図を待って、自分たちはここから逃げ出す。そして、シェリウを助け出すラハトの為に、敵を惹きつける囮にならなければならばい。しかし、このまま自分たちが捕まってしまっては意味がない。
ラハトが何をしているのか分からない現状では、ただ焦りと不安が増すばかりだ。
狼煙はまだ上がらないのだろうか。
ユハは焦燥を押し殺しつつ、ラアシュの言葉に応えないままその場に立つ。
「太守様、俺はこれで……」
生じた沈黙を破ったのは、カドラヒの言葉だった。ラアシュは笑みをたたえたまま、カドラヒに頷いて見せる。
「ああ、ご苦労だったな、カドラヒ」
ラアシュはそのままユハに顔を向けた。
「碧眼の君よ。この男は、仕事をこなしただけだ。そなたは、これからカドラヒとも長い付き合いになる。怨まないでやってくれ」
この人はもう私を従えたつもりでいる。
その自信と傲慢さに腹立たしさを覚えながら、ユハは答えた。
「こんな恩知らずな人のことなど知りません」
ラアシュへの感情が顔に出て、険のある答えになる。これをカドラヒへの怒りだと受け取ってもらえればいいが。ユハは願う。カドラヒの立場が悪くならないよう、これから起こることは彼と無関係だと装わなければならない。
ラアシュは苦笑するとカドラヒに言う。
「やれやれ、機嫌を取るのは難しいな……。カドラヒ、お前とは、別の機会にこれからのリドゥワについて話し合いたい。これからも期待しているぞ」
「……ありがとうございます」
抑制された声と共に、カドラヒたちは一礼し、そして皆に背を向けて早足で歩き出した。
ユハは、あえてカドラヒから顔を逸らす。カドラヒも、こちらを一瞥もしなかった。
「さて、碧眼の君。そろそろ日差しが強くなる。
ラアシュがそう言いながら一歩進み出た瞬間。
凄まじい轟音が鳴り響いた。
その音は雷鳴にも似ていたが、生まれて初めて聞くような大きな音だ。耳を直接打つような爆発音。そして、肌を震わせるその力に、ユハは思わず身をすくませる。
視線の先、太守の館から、何筋もの白い煙のようなものが立ち上っていた。館全体も、白く粉塵に包まれているように見える。拳大の何かの欠片が数個、ユハたちの近くに落下した。
これが狼煙だ。
ユハは確信した。
あの爆発は、ラハトが起こしたものに違いない。これを合図に、自分たちは動き出さなければならない。
「派手な狼煙……。本当、あの子は面白いことを考えるわねぇ……」
呆れたような面白がるような表情で、月瞳の君は館を見た。
館からは、悲鳴や絶叫が聞こえてくる。ここにいる使用人の中には、驚きの為か蹲ったり、尻餅をついている者もいる。皆、呆然と館を、立ち上る煙を見ていた。ただ、ラアシュとカフラは、大きな動揺を表情に出すことはなく館を振り返っている。
「お前たちの仕業か?」
カフラが、鋭い視線を向けてユハを睨む。
「あれは狼煙です」
ユハが口を開いた。笑顔で言ってやりたかったが、そこまでの余裕はない。
「狼煙だと?」
険しい表情のカフラの問いに、ユハは力強く頷いた。抗う意志を込めて、ラアシュとカフラの視線を受け止め、言葉を口にする。
「あれは、ラハトさんがシェリウを救い出したという合図。あなた達の元に、もうシェリウはいない。私がここにいる理由はなくなりました」
当然ながら、これは出任せだ。シェリウがラハトに救い出されたのかどうか、ユハにも分からない。しかし、今はラハトを信じ、己に与えられた役割を精一杯果たすだけだ。
ゆっくりと、月瞳の君がユハの前に立つ。微かに首を傾げながら、微笑んだ。
「余興が始まったようですので、私たちはお暇いたしますワ」
芝居がかった大袈裟な口調で月瞳の君が言う。
「後片付けが大変だとは存じますが、皆様はゆっくりと楽しんでくださいマセ。それでは、御機嫌よう」
高笑いを上げた月瞳の君は、素早く身を翻し、ユハを抱き上げて駆け出した。
来る。
ユハは、自分たちの周りに集う、凝縮された力を感じ取った。振り返ると、ラアシュが大きく目を見開き、何かを唱えている。背に負った剣の柄に触れると、叫んだ。
「剣よ! 守り給え!」
剣が唸った。次の瞬間、自分たちを取り囲み、包み込もうとしていた不可視の力が霧散する。その間にも、月瞳の君は疾風のように駆けていた。しかし、その走りが全速ではないことをユハは知っている。
自分たちは囮なのだ。ユハという餌をちらつかせて、猟犬たちをこちらに惹きつけなければならない。
「アドギル! 奴らを逃すな!!」
背後で叫ぶ声が聞こえた。
館の廊下は、庶民の暮らす家よりもはるか広い。
とはいえ、大勢の兵が輪になって一人を取り囲めるほどの幅があるわけではない。そのために、部屋を出たシェリウとイェリムを相手に、兵士たちは上手く包囲できないでいる。
特にイェリムの攻勢は兵士たちにとって脅威であり、恐怖だった。血を流し息絶えた、あるいはうめき声をもらす同僚の体を盾にして、若い娘が歩んでくるのだ。それはあまりに奇妙で凄惨な光景だった。
これ以上の被害の拡大を恐れたのか、ルミヤとティアンナは、兵士たちを後ろに下がらせて、自分たちだけでシェリウ達に挑んできた。
自分たち目掛けて床や壁を這い寄って来る力。
シェリウはそれを敏感に感じ取り、すぐさま聖句を唱える。
ティアンナが精気の紋と呼んでいたその力の手を、破魔の術によって打ち消した。その度に、陽炎のように揺らめき、力が消滅する。次々と、力が顕現する前にティアンナの術式を封じていく。魔術はそもそも不確実な力だ。それを、術式によって確固としたものとすることで、
隙を見て切り込んでくるルミヤを、イェリムが黒髪を複数の槍としながら迎え撃った。熟練の戦士ほどではないが、その黒髪の一撃は速い。同時に様々な方向から攻撃を受けて、ルミヤもイェリムの懐へ踏み込むことが出来ない。一筋の傷も負わせることが出来ずに、踏み止まり、後退りながら躱す。
そうして、一歩一歩ではあるが、シェリウとイェリムは、館の廊下を進んでいた。
このままなら、この館から出ることが出来る。シェリウは、そう考えてから、楽観的な己を戒めた。ルミヤとティアンナの後ろには、あのカフラという男がいる。そして、何より太守ラアシュという恐ろしい魔術の使い手がいるのだ。死力を尽くして戦わなければ、ここから逃れることが出来ないだろう。
何としてでもここから逃れ、ユハの元へたどり着く。
その決意と共に聖句を唱えた瞬間だった。
視界が一瞬明るく染まった。
同時に襲いかかって来る凄まじい轟音と衝撃。
ルミヤ達の向こうに立つ何人かの兵士たちが何かに背中を押されたように倒れた。
熱風と共に小さな石のようなものが額に当たり、痛みを感じる。素早く、イェリムがシェリウに覆いかぶさった。
続いて聞こえる壁の崩れる音。漆喰の壁が倒壊したことにより、辺りには白い粉塵が立ち込めた。
白い視界の中で、悲鳴や絶叫、うめき声が聞こえる。焦げ臭い匂いも漂ってきた。
「シェリウ、大丈夫ですか?」
「ありがとうイェリム。あたしは大丈夫。あんたは?」
「勿論、大丈夫ですよ」
イェリムは微笑み、そして立ち上がる。シェリウも立ち上がると、呆然と辺りを見回した。
「何が起こったの……?」
「私にも分かりませんが……、何らかの大きな力がこの館を襲ったようですね」
「うん……。でも、戦咒じゃなさそうね……」
こんな屋敷全体を破壊するような力は、大規模な破壊の術、戦咒でなければ為し得ない。しかし、そんな術式を使おうとするならば、精気の紋を感知していたシェリウに感じ取れないはずがない。
今も、どこかで壁が崩れる音が聞こえる。天井からは細かな破片が落ちてきた。兵士たちは衝撃に打ち倒されたのか、あるいは倒壊した壁に巻き込まれたのか、倒れたままだ。しかし、視界が悪いため正確な状況は分からない。そして、先刻まで戦っていた二人の娘たち。
霞む視界の向こうで、ルミヤとティアンナがやはり驚きの表情で立ち上がった。シェリウを見て、ティアンナが口を開く。
「シェリウ、これは、あなたの魔術……、ではなさそうね」
自分の表情を見たのだろう。さすがにこの状況で平静でいられるほど肝は据わっていない。はったりを言う事もできずに、肩をすくめる。
「残念ながらね。あたしもびっくりしたところ」
答えたシェリウは、ルミヤとティアンナがこちらではなく、己の背後を凝視していることに気付いて振り向いた。
立ち込める粉塵の中でも、妖しく光る金の双眸が見える。
それは、ここまでの旅で見慣れた光。禍々しい力を源としているが、シェリウにとって眩く輝く希望の光だ。
「ラハトさん!!」
白く霞んだ向こうから、ラハトがゆっくりとこちらに歩んできた。
そして、シェリウの傍らに立つ。
ラハトは、見上げるシェリウに言った。
「シェリウ、無事か?」
「はい……。どうしてここに?」
そんなことは聞かなくても分かっている。それでも、シェリウは聞かずにはいられなかった。
「助けに来た。ここを出るぞ」
「はい!!」
シェリウは大きな声で応える。
「やはり来たのね」
ルミヤが、刀の切っ先を向け、怒りを帯びた声を発した。
「この破壊の力は、あなたの仕業なの?」
「そうだ」
「一体どうやって……。何の力も感じさせることなく、こんな破壊の力を顕現させるなんて信じられない」
ティアンナが、未だ驚きが去っていない様子で問う。
「世の中には、お前たちの知らない秘術がたくさんあるということだ」
ラハトは静かに答えると、右腕を上げた。鈍い金属色の剣身が伸びる。
「随分とシェリウが奮闘したようだ。ここからは俺も加勢する。さあ、続けるか?」
その言葉に、ルミヤが悔しげに顔を歪めた。ティアンナがそっとその手に触れる。
「……お姉様、私たちに勝ち目はないわ」
「分かってる……」
唇を噛んでうつむいたルミヤは、すぐに顔を上げるとシェリウを睨んだ。
「さっさと館を出ると良いわ。でも、あなた達は逃げられない! 必ず、私たちの元に来ることになるのよ!」
「あんた達に会うのはこれで最後よ」
シェリウも負けじとルミヤを睨み付け、答える。
ルミヤとティアンナは、シェリウと視線を交わした後、廊下の先へと去って行った。それを見送ったシェリウは、大きく息を吐きだすとラハトに顔を向ける。
「……ありがとうございます、ラハトさん。あの、ユハたちは……」
「別の場所にいる。この後、落ち合うつもりだ」
「よかった……」
少なくとも、最悪の事態は逃れることが出来た。安堵したシェリウは、ラハトの視線に気付き、イェリムを手で示した。
「あ、ラハトさん、この
「初めましてラハトさん」
笑みを浮かべたイェリムは、一礼した。
ラハトはイェリムを見つめた後、シェリウに顔を向ける。
「この娘からシェリウと同じ形質を感じる。前に言っていた分霊か?」
「ああ、一目で私の本質を見抜くなんて、素敵! 前から思っていたんです! ラハトさん、やっぱりあなたは運命の人です!」
イェリムは、感激の表情と共に両手を握った。
「……初対面のはずだ」
「ちょ、ちょ、ちょっと、何を言ってるのよイェリム!」
「大丈夫。私は盗ったりはしませんよ」
詰め寄るシェリウに、イェリムは片目をつむってみせる。
「こんな所でのんびりしている場合じゃない。すぐにここを出るぞ」
「は、はい!」
自分たちはまだ敵地にいる。浮かれてしまって、そのことを失念していた。シェリウは、自分の愚かさを呪う。ラハトの溜息が聞こえたような気がして、シェリウは慌てて姿勢を正した。
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