第16話
「え?」
ユハが怪訝な表情を浮かべてラハトを見上げた。ラハトはそんなユハを一瞥することもなく、一歩進み出ると彼女の前に立つ。
「あの……、どうかされましたか?」
使用人の娘が小さく首を傾げた。
「芝居は必要ない」
そう言って使用人の娘を指差す。
「お前の顔は三回見た。広場から離れる時。市場を抜ける時。宿屋の横。人と人の間に上手くまぎれていたつもりだろうが、無駄だ」
暴動から逃れる中で感じた監視の網。掻い潜ることができたと思っていたが、敵もそれを許すほど甘くはなかったようだ。この娘以外にも、何人かこちらを追って来る監視の目があった。彼らから何とか逃れようとしていたが、混乱した街を暴徒を避けながら逃れる中で、どうしても敵を振り切ることができなかった。そして、ラハトはこの監視の目がかなり計画的なものだとも感じていた。
もしかすると、この暴動自体がユハを捕らえるためにおこされたのか。ラハトはそう思い至って微かに眉根を寄せた。
あらかじめ暴動が起こることを想定して、狭い網ではなく、勘付かれないように広い網を広げてユハたちを監視していた。そう考えればこの手際の良さが説明できる。
たった一人の娘のために街を騒乱に陥れる。
それは常識では考えられないことだが、なぜかラハトには腑に落ちた。
ラハトの言葉を聞いて、娘の顔から表情が消える。
「成程……、さすがだな」
そう言って、男が進み出た。
「大した奴だ。同業者か?」
「ただの使用人だ」
「使用人……? つまらん冗談を言う男だ」
男はそう言いながら剣を抜く。もう一歩進み出たその動きに何の澱みもなく、かなりの使い手であることが察せられた。ラハトは、その足運びを見て太守とともに食堂を訪れた男を思い出す。あのカザラ人と目の前にいる男は同じ武術を使う。ラハトはそう確信する。そして、自分のことを同業者と言ったことから、密偵や斥候の心得があるのだろう。だとすれば、ただの騎士や剣士が使わないような奇手を隠し持っている可能性は高い。
「ラハトさん……」
「敵だ」
固い表情のユハにラハトは短く告げると、男たちに向かってゆっくりと歩を進めた。腰に手をのばす。上着の裾の下には、この町であつらえた革の腰帯が巻かれている。そこには投擲用の短剣が何本も差してあった。
背後から激しい水音が聞こえた。
振り返る。
ユハたちへ、水面を飛び出した巨体が襲いかかっているのが見えた。
月瞳の君が、ユハとシェリウの襟首を掴んで跳ぶ。
ラハトが視線を戻したときには、すでに切っ先が目の前にあった。
鋭い突きを、上体を逸らし右足だけ退いて最小限の動きで躱す。
鼻先を白刃が掠めた。
退いた右足に力をこめ、戻る上体の勢いを乗せて右腕を繰り出す。手甲が伸びて、そのまま鋭い剣となった。
不意をついたつもりが思わぬ反撃を受けた男は、驚愕の声と共に剣を引き戻す。男は左肩を浅く切られるが、致命的な一撃を何とか阻んだ。
ラハトは男へ追撃しない。男の背後から使用人の娘が飛びだす姿が見えたからだ。
娘は、右手に三日月状の短い刃物を握っていた。それを、ラハト目掛けて投げつける。
片側が球状の握りとなっているその刃物は、凄まじい速さで回転しながら飛んだ。ラハトは身をかがめてそれを躱したが、娘は続けて投擲を行う。
刃がラハトの額をかすめた。
一瞬動きが止まったラハトへ、男が迫る。
振り下ろされた剣を受け流すと、そのまま僅かに姿勢を崩した男へ、肩からぶつかる。
たたらを踏んだ男を見ながら、大きく後ろに飛び退いた。娘は、男の体が邪魔になったのか、追撃をしない。
二歩、三歩と大きく跳んで、ラハトは町から運河へと下る斜面に立った。そこには、跳んで逃れたユハたちもいる。
ラハトは彼女たちと視線を交わし、そして眼下に視線を向けた。
男と使用人の娘は、こちらを見たままその場に留まっている。そして、こちらにゆっくりと近付いて来るのは、水をしたたらせながら運河から上がって来た巨大な何かだ。
それは、人の倍ほどの身の丈をしていた。
上半身は人の形をしている。しかし、下半身に足はなく、一本の巨大な尾のようだった。その身を、甲冑で覆っている。兜、胸甲、手甲、そして剣。それらは月光を浴びて、青銅特有のこがね色に微かに輝いている。
甲冑の下にあるのは、無数の白色の蔦や縄を束ね、ねじったような不気味な体だった。顔をほとんど覆う兜の奥からは、不気味に赤く光る光源がのぞいている。手に持つ剣は少し短めで、
剣を握る指先でうねり、のたくる無数の触手のようなもの。月明かりの下目を凝らすと、それが白い大蛇だと分かった。
この化け物は巨大な蛇が無数に絡み合ってできている。ラハトはそう理解した。
「久しぶりに見たわねぇ……」
月瞳の君が呟いた。シェリウはその言葉に反応する。
「あの化け物を知っているんですか?」
「昔、巨人族の魔術師が使役していた妖魔よ」
「巨人族……。だとすると、あいつらは太守の手の者か?」
ラハトが視線を向けた男たちを一瞥して、月瞳の君が頷く。
「多分ね。私は昔から蛇が嫌いなのよ。だから、蛇の寺院には近付かなかったし、蛇の精霊たちとも関わらないようにしてた。まさか、千年以上たってあいつにお目にかかるとは思わなかったわ……」
「勝てるか?」
月瞳の君は顔をしかめると、ラハトに顔を向けた。
「蛇の寺院は巨人の帝国でも大きな力をもっていたから、眷属の力もとても強かったのよ。まともに戦ったことはないけれど、その戦いぶりは知ってる。正直言って……、手強いわねぇ」
「そうか……」
蛇の妖魔は、長い尾をくねらせながらこちらに向かってくる。そして、男たちも動き始めていた。おそらく、自分たちを妖魔の方へ追い込むつもりだろう。
「あんたはユハとシェリウを連れて遠くへ逃げろ。二人くらいなら抱えて行けるはずだ。俺が奴らを攪乱する」
「ラハト……、あなた、ここで私たちと“お別れ”する気?」
月瞳の君が微かに目を細めた。お別れ、という言葉に込めた重い意味を悟って、ユハとシェリウが息を呑む。
ラハトは右手の手甲に触れると、小さく頭を振った。
「こいつをあんたに返さないといけない。こいつはあんたの紐付きだろう? 奴らを撒いた後、それを辿ってすぐに追いつく」
「ラハトさん! 私も戦います!」
シェリウが拳を固く握って進み出た。ラハトはシェリウを見つめた後、頷く。
「『聖鎚』……、あの魔術で奴等の出端を挫いてくれ。だが、それだけだ。ここから逃れる。そのことだけを考えろ」
「はい!」
ラハトの言葉に、シェリウは頷く。魔術は基本的に深い集中を必要とする。術式を行使する為にはその場に留まらなければならない。それは、逃走とは相反することだ。しかし、聖鎚の術ならば、その集中も少なくて済む。短い聖句と一瞬の集中で行使できる聖鎚の術は、僧侶にとって有効な護身の術だった。
「あの妖魔に聖鎚をぶつけろ。だが、まともに戦おうとするな」
「分かりました」
シェリウは厳しい表情で頷く。ラハトは、こちらに向かって駆け出した男と娘を一瞥した後、月瞳の君を見た。
「俺はあいつらを足止めする。月瞳の君、二人を頼んだ」
「シェリウはむきになるから、ほどほどで連れて行くわ」
「ああ」
「あなたも無茶しないでねぇ」
「ラハトさん、気を付けて!」
月瞳の君とユハの声に小さく右手を上げたラハトは、向かってくる男たちへ向き直った。ゆっくりと歩を進める。背後では、朗々とした聖句を唱える声が響いた。
剣を構えた男は凄まじい速さで斜面を駆けあがって来る。その背後に続く娘もそれに劣らない。
ラハトは手甲を伸ばした剣を構えながら、左手を腰帯へと伸ばした。
男が眼前に迫った瞬間、ラハトは横へ跳んだ。
同時に、腰帯から短剣を引き抜き、放つ。
その刃は、男の背後から跳び出した娘へ向かった。
三日月状の刃物を構えていた娘は、己に向かって飛来する短剣に気付いて咄嗟に身を投げ出した。しかし、避けることは出来ずに、短剣は右肩に突き刺さる。娘は耐えきれずに転倒し、斜面を転がり落ちた。
その時にはすでに男がラハトに肉薄している。
突き出された剣を、体を振って躱した。男はラハトをその場から逃さない。動きを封じるように、続けざまに剣を繰り出した。
男は剣を大きく振るうことはない。小さく細かい斬りや突きを次々と繰り出してくる。顔を狙ったと思えば腕、つま先、膝、指先、と縦横無尽、目まぐるしく剣尖を躍らせ、反撃を許さない。こんな斜面でありながら、巧みな足運びでラハトの周囲を回り、追い詰めてくる。
白刃の乱舞をかいくぐりながら、ラハトは低く蹴りを繰り出した。それは、男の膝を直撃し、男は姿勢を崩す。ラハトは流れるような動きで腰帯から短剣を抜くと、目の前の男へ投じた。
間に合わないと判断したのだろう。男は左腕で顔を庇う。その前腕に短剣が突き刺さった。
ラハトはその場に留まらない。姿勢を低くしながら飛び退いた。
誰もいなくなった空間を刃が切り裂く。
使用人の娘が左手で曲刀を構えている。しかし、利き腕ではないのだろう。空を切った一撃はそれほどの鋭さを感じなかった。
ラハトは姿勢の泳いだ娘へ手甲の刃を繰り出す。
激しい金属音とともに、横合いから繰り出された刀身によってその突きは阻まれた。ラハトの剣を受け流した刀は、光を描きながら斬りつけられる。ラハトは、崩れた姿勢に逆らうことなく、そのまま後ろに飛び退いた。
優美な装飾を施された曲刀を手にしているのは、先刻まで怯えた表情を浮かべていた身なりの良い娘のうちの一人だ。
表情の消えたその娘は、冷たい視線をラハトに向ける。
「ルミヤ様!」
使用人の娘が、声を上げた。ルミヤと呼ばれた娘は、小さく頷いて見せる。
「お嬢様、申し訳ありません」
男が、そう言いながらルミヤの隣に立った。
「仕方がないわ。さすが、お父様が警戒した男ね。最初から私も加わっているべきだった。帰ったらお父様に叱られてしまうわね」
ルミヤはそう言いながら刀の切っ先をラハトに向ける。
「あんた達は太守に仕えているのか?」
ラハトの問いに、ルミヤは表情を変えることなく頷いた。
彼らが太守の手の者だとすれば、少なくとも教会とは手を組んでいないことになる。もし修行者や使徒がいるのならば、こんな戦いにはなっていないはずだ。太守は教会にその意図を隠したまま、ユハを手に入れようとしている。ラハトは問いを重ねた。
「どうしてユハを狙う? 巨人王の力に何か関係があるのか?」
ルミヤは微かに目を細めると、口を開いた。
「あなた達は思った以上に厄介な存在のようね……」
じりじりと、三人はラハトを囲む輪を広げる。
「ここで死になさい」
ルミヤが静かに言った。
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