第15話
町は闇に沈もうとしていた。
街角の影を踏みながら、先を急ぐ。
ユハは、向かう道の先が騒がしいことに気付いた。
それも、市場や祭りの喧騒とは違う。聞こえてくる声は怒号や悲鳴のように思えた。
「なんでしょうか、ラハトさん」
「争いの音だ」
ラハトは短く答えると、視線を周囲にはしらせた。
路地を抜け、アドゥニ派の礼拝堂が建っている広場へ出る。
そこに、大勢の人々が集まっていた。
人々は大きく二手に分かれている。
一方はこの町に暮らす人々だ。ユハが見知った顔が幾つも見える。彼らの顔は怒りに歪み、あるいは悲嘆で崩れていた。
向かい合い立つ人々の中心にいるのは、僧衣を着た者たちだった。先頭に立つ背の高い男を忘れるはずもない。先日の祝宴に乱入してシェリウと説法問答をした正教派の司祭だった。
「礼拝堂が壊されてる……」
シェリウの言葉に、ユハもようやく気付いた。人垣の向こうにある為に見えにくいが、アドゥニ派の礼拝堂が崩れ落ちるように建物としての形を失っていた。
「殺気立ってるわねぇ。あいつらに礼拝堂を打ち壊されたんだわ」
月瞳の君が腕組みして言う。その視線の先には正教派の僧たちがいた。確かに、建物の残骸を背にしているのは彼らだ。そして、アドゥニ派の人々は、怒りの表情で対峙している。
「なんてことを……」
ユハは思わず呟いた。
「早くここを離れるぞ」
ラハトの静かな言葉に我に返る。
「あの……、放っておくんですか?」
「俺たちに何ができるというんだ?」
何の揺らぎもないラハトの目を見て、ユハは動揺した。
「皆さんを助けないと……」
「これはあいつらの問題だ。それとも、またシェリウに説教でもしてもらうのか? 俺があいつらを殴り倒して来ればいいのか? そして、自分がここにいると、大声で触れ回るのか?」
「それは……」
ユハはうつむいた。確かに、ここで自分たちが出て行って収まるような状況ではない。そして、何より自分を、そして仲間たちを危険にさらすことになる。しかし、世話になったアドゥニ派の人々の苦境を見過ごしていいのだろうか。そんな思いがユハを責める。
「……こうなった原因はあたしが出しゃばったからです」
強張った表情でシェリウが口を開いた。
「違う。シェリウがいなければ、礼拝堂はあの夜打ち壊されていた。お前は、単にこの結果を遅らせただけだ。何の責任もない」
右手を上げて遮ったラハトを見て、シェリウが表情を歪める。ラハトの言う通りだ。自分を責める必要なんてない。ユハがそう言おうとした瞬間。
「何してるんだ!!」
大きな声が響いた。広場に、大勢の男たちが駆けこんでくる。先頭を走るのは、カドラヒだった。隣にはダリュワの姿がある。
「カドラヒ!!」
「カドラヒの旦那!!」
アドゥニ派の人々が口々に彼の名を呼ぶ。カドラヒはゆったりとした歩みで司祭の前に立った。
「貴様が異端の首領か!!」
司祭が憎々しげな目でカドラヒを睨み付けた。
「俺はそんな大層なもんじゃありませんよ」
この緊迫した状況に似つかわしくないのんびりとした表情でカドラヒは答えた。
「ただ、この町の顔役としてちょいと皆の世話をしているだけです。……それで、俺たちが、礼拝堂を壊されるような悪いことをしましたかね?」
カドラヒは、礼拝堂だった建物の残骸を一瞥して言う。
「お前たちが異端の教えを信じているからだ!」
司祭は甲高い声で叫んだ。
「司祭様、アドゥニ派はカテラト公会議で信仰を認められてるはずなんですがね」
カドラヒは穏やかな表情で肩をすくめた。それは、ウル・ヤークス王国建国のすぐ後、正教派と諸教派が集まって執り行われた話し合いのことだ。その会議において、ウル・ヤークス王国の国教は聖王教と定められ、また、諸教派は建国に協力したことを感謝されて教えを容認された。
カドラヒの反論に、司祭は怒りの表情を浮かべた。
「聖戦の功績によって当時の教会に見逃されただけだ! アドゥニ派の功績などたかが知れている! 偉大なる建国の英雄たちの便乗して、大きな顔をして異端を奉じるなど、恥を知れ!!」
カドラヒの頬が微かに引き攣った。
何て狭量な人だろう。ユハは、呆れ、そして怒りから大きな溜息をついた。シェリウのように飛び出して言って説教をしてやりたいが、自分にはそんな知識も弁舌もない。
司祭はカドラヒに指を突き付ける。
「罪深き者よ、お前の陰に隠れ潜んでいる邪悪なる者、あの小賢しい異端の娘を連れてこい!」
司祭の叫びに、傍らのシェリウが身を震わせる。ユハは思わずその手を握った。
その指先を見ながら、カドラヒは大袈裟な仕草で首を傾げる。
「そりゃあ、一体誰の話です?」
「とぼけるな! 聖なる教えを
「存じませんねぇ。あの夜は祭りだったんだ。通りかかった者に酒くらい奢りますからね。それに、あの娘は実に新典に詳しかったじゃないですか。俺たちアドゥニ派の信徒にはあんな知識はありませんよ。あの娘がどれだけ敬虔な正教派信徒なのかは、司祭様がよくご存知なんでは?」
カドラヒは口の端を歪めた。その言葉に、司祭の表情が醜く歪む。
「異端の信徒め! その穢れた口を閉じよ!」
「そりゃあ、喜んで閉じますよ。ただ、その前に、その後ろの礼拝堂を何とかしてもらえませんかね。この町の者の憩いの場所だったんだ。秩序と救済を志す聖王教徒同士、どうか、寛大なる慈悲をお願いしますよ」
カドラヒはそう言って深々と一礼した。
「異端の信仰を正教と同列に語るな!!」
司祭は絶叫すると、カドラヒを打擲した。長身から繰り出された一撃は、カドラヒの体を僅かに揺らす。見守っていたアドゥニ派の人々から、一斉に怒号が発せられた。
「よせ! 落ち着け!!」
慌てた表情のカドラヒが振り返り叫ぶ。
その瞬間、アドゥニ派の人垣の中から石が飛んだ。それは司祭に当たり、よろめく。苦痛に呻き、抑えた手の間から血が流れ出ている。司祭の左右に控えていた僧兵たちが、怒号と共に司祭の前に飛び出た。さらに幾つもの石が彼らめがけて飛ぶ。
「馬鹿野郎!! 止めねえか!!」
カドラヒの声は、僧兵たちの号令にかき消された。
頑丈な棒を構えた僧兵たちが一斉に駆け出したのだ。
僧兵たちは棒を振りおろし、突き、アドゥニ派の人々に襲いかかる。
広場は混乱の渦の中に叩きこまれた。
溢れ出した。
ユハはそう感じた。
大きな力のうねりが、冬の大雨で川が氾濫するように勢いよく溢れ出してくる。それは個人が持つ孤立した力だったが、今や互いの間を遮る境界を乗り越えて集い、渦を巻いて一つの大きな力の流れになろうとしていた。その力は怒りや憎悪に彩られているが、その核にあるのは名前すらない始原的なものだ。
魂が軋む。
押しつぶされそうなその力は、夢の中の聖女王の記憶と共に感じたものに似ている。
ユハは耐えきれずにその場に屈みこんだ。
シェリウの自分の呼ぶ声がとても遠くから聞こえる。
しかし、それに答えることもできない。
視界が歪む。
己の中にある何かが蠢く。
それは、この始原の力を受けて、目覚めようとしていた。
体を熱い力が巡る。
激しい恐怖と、憎悪と、怒りが沸き起こる。
その感情は、自分のものでありながら自分のものではなかった。
欠片が、形あるものとして感じられる。
それは、とても冷たく、しかしなぜか熱い。鋭い刃のようだと感じられた次の瞬間、まるですくい上げた水のように零れ落ちる。矛盾に満ちた異様な感覚が、ユハを混乱させた。
誰かが自分の体を抱き上げた。
そう感じた次の瞬間、ユハは意識を失った。
その夜、下町の一画で起きた騒乱は、大きな暴動へと発展した。
幾つかの正教派の聖堂が焼打ちにあい、商店が略奪をうけ、リドゥワ守備隊と暴徒が市街で衝突した。こうして多くの怪我人と死者を出したこの暴動は、各教派の長老たちの懸命な呼びかけもあり、昼ごろには終息することになる。
その騒乱の只中にいるユハたちは、勿論そんな結果を予測は出来ない。今はただ、暴徒を避けて、夜の街を逃げていた。
暗い泉から浮かび上がるような感覚とともに、ユハはゆっくりと目を開いた。
闇夜の中で、微かに輝く瞳が自分を覗き込んでいる。その隣にも、誰かが自分を見つめていることが分かった。
「ユハ! よかった、目が覚めたのね」
シェリウの喜びの声に、小さく頷く。
地面に寝かされていたことに気付き、ゆっくりと上体を起こす。少し頭が重く感じたが、すぐに意識が覚醒していく。
どうやらここは運河にかかった橋の下らしい。横を流れる水の流れに目をやって、シェリウ、月瞳の君、そして傍らに立つラハトを見た。
月瞳の君は、ユハの頭を撫でると優しく言った。
「心の淵源に当てられたのねぇ。あの
「……心の淵源、ですか」
シェリウが呟くように言った。
「そう。人の心の奥底、根源のことね」
「人それぞれの心の奥底にある、意識に昇らない心の事ですね」
「さすがシェリウ。よく勉強しているじゃない」
月瞳の君は、シェリウに微笑んだ。シェリウは硬い表情で頷く。
「子供の頃に読んだ教典に記されていました。分霊を呼び出す時に必要な概念です……」
「そうね。昔、私もそう教わったわ。自分の心や魂を見つめるために、心の淵源を感じ取ることが大きな力になるって。そして、心の淵源はとても深い所で皆、繋がっているの」
「皆? つまり……、たとえば私と、シェリウの心が繋がっているってことですか?」
目を瞬いたユハは、シェリウを見て、月瞳の君に顔を向けた。
「そうね。もっと言うなら、違う種族とも、獣とも繋がっているのよ。もちろん、精霊とも……」
柔らかな表情の月瞳の君は、再びユハの頭を撫でる。その言葉と手の感触が心地よくて、ユハは目を細めた。
「あの
「気を付けないといけませんね……」
今まで考えもしなかったことだったが、また同じように意識を失うようなことは避けたい。月瞳の君は深く頷いた。
「今までみたいに、内観の法を磨くと良いわ。ただ、これまで意識していなかった方向や角度から鍛錬しないといけないけどね」
「私にできるんでしょうか」
「大丈夫。あの
「ありがとうございます」
笑顔で言う月瞳の君に、礼を言う。
「もう大丈夫なのか?」
ラハトの問いに、ユハは頷いて見せた。
「はい。体には何の影響もなさそうです」
「そうか」
「あの後、どうなりました?」
「暴動になっている」
「暴動!?」
ラハトの剣呑な答えに、ユハは思わず大きな声を上げた。
「あの騒ぎが街中に広がって、争ったり、暴れたりしてるのよ。もう、何が何だか分からなくて、滅茶苦茶になってるわ」
シェリウが溜息と共に肩をすくめる。
「そんな……。カドラヒさんたちは……」
「分からない。巻き込まれないように、逃げることで精一杯だったからな」
「……ああ、だから橋の下に隠れているんですね」
ユハは橋梁を見上げた。
「そうよ。まだまだ収まりそうにないわねぇ」
月瞳の君が己の耳に手を当てて、耳を澄ませる仕草と共に言う。ユハも、思わず耳を澄ませた。確かに、街からは騒がしい声や音が聞こえる。その喧騒は、本来こんな深夜には聞こえるはずがないものだ。
そして、ユハの耳はそれ以外の音をとらえた。すぐ近くに、複数の人々の足音が聞こえる。
「こちらは誰もいません!」
足音だけではない。若い女の声が運河の岸辺に響いた。
ユハは、跳ね起きるように立ち上がる。
そして姿を現したのは、使用人の服を着た娘、そして、体格の良い剣を携えた男。彼らに挟まれるようにして、身なりの良い娘二人がいる。
「あ……」
使用人の娘がこちらに気付いたのか、驚きの表情を浮かべた。男が鋭い視線とともに、腰の剣に手をやって進み出る。二人の娘は怯えたように立ち竦んだ。
その様子にユハは思わず声を上げた。
「大丈夫ですよ。私たちもここに隠れていたんです」
両手を広げて、笑みを浮かべる。
「ああ、そうですか」
使用人の娘は、安堵した表情で頷いた。男は警戒した表情のままで、娘二人も硬い表情でこちらを見ている。
「私たちは暴徒たちに襲われそうになってここまで逃げてきたんです。お嬢様方を何とか安全な場所までと思って運河に降りてきたんですが、やっぱり同じことを考える人はいますね」
娘はそう言って微笑んだ。そして、四人はこちらに歩んでくる。
「ユハ、下がるんだ」
ラハトは、ゆっくりと進み出ると、ユハの肩に手を置いた。そして、四人に顔を向ける。
「それ以上近寄るな」
冷たい声で、ラハトが言った。
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