第14話
聖典において、『炎瞳の君』の記述は少ない。
世界の秘密と真理について聖女王と問答をかわす説話が何節か記されているのみだ。しかし、教典や外典、歴史書において、炎瞳の君には多くの記述が割かれている。その活躍のほとんどは、聖なる場所とは程遠い血塗られた戦場だった。
獅子の頭を持つ女巨人。それが、聖女王の忠実なる使徒、『偉大な獣』の一柱である炎瞳の君の戦場での姿だ。彼女は
ウル・ヤークス王国が安定した治政を行うようになった頃、炎瞳の君は表舞台から姿を消した。一説には、大聖堂の奥院で高僧とともに瞑想しているといわれている。繁栄するウル・ヤークス王国の中で、恐るべき使徒は伝説上の存在になったと思われていたのだった。
そして今、怯える月瞳の君が姉と呼ぶのは、その炎瞳の君であるという。
人目を避けて、人通りの少ない路地に入った一行は、炎瞳の君がここリドゥワにいるということを聞かされた。語った月瞳の君は暗い顔でうつむいている。
使徒がこの街にいる。それも、数多くの人々を恐れさせた炎瞳の君が……。そのことにユハは、驚き、そして畏れを抱いた。
「……ユハを追ってきているということですよね。月瞳の君のように」
シェリウが厳しい表情で言う。ラハトは頷いた。
「そう考えた方がいいだろう」
「だとすれば、あの時みたいに、使徒だけではないでしょうね……」
「おそらく、教会の者が共にいるはずだ」
答えを聞いて、ユハは思わず呟く。
「スアーハの修行者……」
「ああ」
首肯するラハトを見て、ユハは唇を噛んだ。あの時、月瞳の君とともに自分をさらった恐ろしい者たちがこの街にいるかもしれない。それを考えると不安がいや増す。
ラハトはそんなユハを見た後、シェリウに顔を向けた。
「シェリウ、ユハを探る“目”や“耳”がないか観てくれ」
「はい!」
シェリウは強く頷くと、聖句を唱え始めた。同時に人差し指を四方に向けて何かを描くように振る。そうしてしばらく虚空を見るようにしていたが、やがて口を開いた。
「何も感じません。私より優れた術者が隠蔽しているのかもしれませんけど……」
「いや、信頼している」
自信無げなシェリウにそう言ったラハトは、月瞳の君に顔を向けた。
「あんたはどうする。恐ろしい姉に素直に会いに行くのか?」
月瞳の君は激しく頭を振った。
「とんでもない。私は行かないわ。どうせ、あいつらと一緒にユハを連れ戻して、大聖堂に閉じ込めてしまうつもりだもの」
「月瞳の君は……、それでは聖女王陛下が目を覚まさないと思っているんですか?」
スアーハの修行者たちは、自分を“器”と呼んだ。しかし、月瞳の君はそう考えていないように思える。これまでユハは、そのことについてあえて聞くことはなかった。しかし、今、この時に聞かねばならない。そう決意して、勇気を振り絞ってたずねる。
「そうよ」
月瞳の君は、弱々しい笑みを浮かべてユハを見る。手を伸ばすと、ユハの頭に置いた。そして、ゆっくりと撫でる。
「私はずっと、分かたれし子があいつらに使い潰されるのを見てきたわ。あいつらは、撒かれた種を拾い集めて、それが壺の中で芽を出すと思ってるのよ。そして、いつまでたっても芽を出さないから、殻を剥いたり、茹でたり、刻んだりして、芽を取り出そうとしてるの。そんなことをしても、種は死んでしまうだけなのにねぇ」
「それを教会に言わなかったのか?」
ラハトの問いに、月瞳の君は肩をすくめて溜息をついた。
「言っても聞きはしなかったわ。私はあくまで使徒。ただの精霊よ。魔術の腕は、聖導教団や教会の方が上だもの。自分を賢いと思っている者が、愚かな凡人の言葉を聞くわけないでしょう?」
「凡人って……」
精霊に凡人などと言われてしまっては、人間はどうなるというのか。戸惑うユハの視線を受けた月瞳の君は、小さく頭を振った。
「あいつらに言わせれば、精霊っていうのは、命と
「……精霊は同じことを繰り返すことしかできないってことですか?」
「まあ、そういうことねぇ」
「そんな……。月瞳の君はこうして、笑って、悲しんで、怖がって……、私たちと同じじゃないですか」
「そういう風に見えるだけかもしれないわ。冬の日差しが暖かいのは、太陽の慈悲? 突然襲ってきた嵐は空の怒り? 魔術師や学者は何の意味もないって否定する。代わりに、そこにまるで歯車のような緻密な
「それは人も同じです。人の意志や魂は、運命と理と精霊が刻んだ劇曲に過ぎないという賢人もいます」
シェリウの言葉に、月瞳の君は肩をすくめた。
「まあ、解釈は人それぞれってことねぇ」
「巨人族も、高貴なる人々も、真理の泉から流れ出す水を汲むことはできました。だけど、その水際に立つことはできなかった。彼らの足跡を辿る無知な私たちは、ただその水脈を探すしかありませんね」
真剣な顔でシェリウが頷く。
「……誰も何が正しいのか分からないなら、私は精霊にも魂があるって、何かを生み出すことができるって信じます。愛っていうのは、生み出すことだと思うから」
ユハはそう言って、月瞳の君の手を握った。月瞳の君は目を見開き、そして微笑む。
「そうねぇ……。私もそう信じたいわ。馬鹿な話をしてあの
悲しみや怒り、愛しさや感動で自分の奥底にある何かが震える。それは、感情が魂に触れたことによる響きだとユハは思っている。月瞳の君の聖女王への想い。これまでの言葉。それらを知った今なら、月瞳の君にも美しい響きを持った魂がある。そう信じることができる。ユハは、握る手に力を込めた。
「……ごめん、話がそれちゃったわねぇ。とにかく、教会や聖導教団と私の解釈は全く違ってるって言いたいのよ」
目を伏せてしばらく沈黙していた月瞳の君は、気を取り直したように顔を上げて言った。ユハは、おずおずとたずねる。
「月瞳の君は、……教会のやり方が間違っていると考えているんですよね?」
「そうね。私は自分の勘を信じてる。もちろん、あいつらが正しくて、私が勘違いしているだけかもしれないけれどね」
月瞳の君は自分の額を指差した後、小さく首を傾げてユハを見つめた。
「種は土の中で、水を得て初めて芽を出すの。私はそれが正しい方法だと信じているのよ」
「それが愛ってことですか?」
ため息交じりのシェリウの問いに、月瞳の君は頷く。
「あんたの勘を信じよう」
ラハトが言った。月瞳の君は、微かに驚きの表情を浮かべてラハトに顔を向ける。
「俺は、あんたを信じる。少なくとも今は、あんたはユハを守るだろう。あんたが一番逃げ足が速い。もしもの時は、ユハを連れて逃げてくれ」
月瞳の君は、破顔するとラハトの頬に手を触れた。
「可愛いこと言ってくれるじゃない。大丈夫。あなたも、シェリウも守ってあげるから」
「俺は自分の面倒は自分で見られる」
ラハトは頬に触れる手をゆっくりと押しのける。そして唇を尖らせた月瞳の君に尋ねた。
「炎瞳の君はあんたに気付いているのか?」
「気付いているわねぇ。多分、リドゥワに来た時から私を感じていると思うわ」
「どこにいるのか、分かるか?」
「それは、近くにまで来ないと分からないわねぇ。姉さんも、それは同じ。この街にいることは感じているだろうけど、まだ私を見付けてはいないと思う」
「そうか……」
ラハトは頷くと、通りに目をやった。行き交う人々を見た後、皆を振り返る。
「荷物を取りに戻ろう。今すぐ家を出るんだ」
その言葉にユハは驚く。しかし、危険が差し迫っている今、すぐに行動を起こさなければならないことも理解できる。
「家にいると、見付けられてしまうと思いますか?」
「ああ。俺たちの事はもう太守に知られている。太守が教会と手を結ぶのか、それが分からない。教会が秘密裏にユハを探している可能性。太守に協力を仰いだ可能性。どちらも考えられる。今の俺たちにはそれを判断する材料がない。そうなれば、大きな二つの可能性から、無数の危険が枝分かれすることになるだろう。それら全てを想定することは無意味だ。この複雑な状況を乗り越えるには、最も簡単な方法をとるしかない」
「それが家を出る……」
「そうだ」
「ナムドさんの道案内はどうするんですか?」
「それはその日の状況で判断するしかない。ナムドの力を借りるのが、イラマールまでの最善の道だ。だが、もしカドラヒの所まで敵の手が伸びているなら、仕方がない。俺たちだけでリドゥワを逃れる。まずは約束の日まで身を隠す」
ラハトの答えに、シェリウは戸惑った様子で聞いた。
「身を隠すって……、どこに隠れるんですか?」
「幾つか候補を見付けてある。ただし、野宿になる」
「野宿……ですか」
微かに眉を寄せたシェリウが呟くように言った。
ユハは、夜空の下で眠ることが嫌いではない。幼い頃は修道院の庭で星空を眺めながら眠ってしまって、大騒ぎになったこともあった。修道院を出てアタミラまでの旅も実に心躍ったものだ。これからの旅路も、苦難と共に喜びもあるに違いない。ユハはそう思っていた。
ユハはシェリウに笑顔を向ける。
「これから嫌でも野宿は多くなるんだよ。ちょうどいい練習だと思えばいいんじゃない?」
「……うん、そうね」
少し不安げなシェリウだったが、ユハを見て小さく頷いた。
「安心して、シェリウ。お腹がすいたら私が鼠を獲ってきてあげる」
月瞳の君はシェリウの肩に手を置くと、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「いりませんよそんな物! お金があるんだから食料を買えばいいでしょう!?」
嫌悪感を露わにして手を払いのけたシェリウに、月瞳の君は安堵の表情を浮かべる。
「よかった。私も鼠が嫌いなの」
「分かってて言ってますよね!?」
「うん」
真顔で頷く月瞳の君を、シェリウは睨み付けた。
「いい加減にしてください!」
「シェリウ。こいつを相手にむきになるのは、猫の前で羽ぼうきを揺らすようなものだ」
ラハトの言葉に、シェリウは目を瞬かせて口を噤んだ。その横で、月瞳の君が舌打ちする。
そんな様子を見て、ユハは苦笑した。
急いで家に戻り、服を着替え、荷物をまとめる。すでに荷造りは終えているので、準備と言えるほどのものはない。
壁に立てかけていた祝福の剣が音を発したような気がした。気付けば、剣を手にしている。ユハは、両手に抱えた剣を見つめた。鞘に収まり布に包まれた祝福の剣は、穏やかだが強い力を発した。それは、音ではない響きとなってユハの体を包む。
「ユハ……」
いつの間にか隣に立つ月瞳の君が口を開いた。夕日のつくりだす影はその表情を隠し、ただその瞳だけが光を宿している。その目が、ユハを見つめた。
「その剣を放しては駄目よ」
「はい」
ユハは深く頷いた。
この剣は、自分を守ってくれる。剣が帯びる強い意志のような不可視の力が、ユハに確信めいたものを感じさせる。
そして、大切な人たちも自分を守ってくれる。
ユハは、シェリウを、ラハトを、そして月瞳の君を見た。
それはユハにとって、形となって顕現した奇跡だ。
自分をただの物として扱い、その力だけを求めて追って来る者たちもいれば、側にいて、命の危険も顧みずに守ってくれ人々がいる。
親を知らず、故郷もなく、名を授かることなく生まれた。
自分にあるのは、この体と、その内に宿していた力の欠片だけ。
しかし、今はこうやってかけがえのない人たちに守られている。それは、どんなに黄金を積んでも得ることができない、出会いという名の奇跡だ。
もし運命があるというのならば、この身に宿った欠片は、絶望的な不幸とともに、大切な人たちとの出会いという幸運ももたらしてくれた。それが自分にとって良いことだったのか、悪いことだったのか、分からない。もし、自分が人生をやり直して違う境遇を選ぶことができるとしたらどうするだろうか。
そんな無意味なことを考えた自分に苦笑する。
ただ、今の自分を、おかれた境遇を受け入れるしかない。そして、そこからどの道を歩くのか、それを大切な人たち共に選び取るのだ。この人たちと一緒ならば、きっとその道を歩いてどこまででも行ける。そう思えた。
ふと顔を向ける。シェリウが剣を見つめている。顔を上げ、視線を交わしたユハへ、深く頷いて見せた。ユハも決意に満ちた表情で頷き返す。
「行こう」
戸口に立ったラハトが言った。
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