第17話
ラハトの後姿を一瞥した後、シェリウは聖句を唱え始めた。
アタミラで月瞳の君に聖鎚を放った時、簡単に防がれてしまった。その苦い経験から、シェリウは聖鎚の術の鍛錬に励んでいた。試すことはないが、今ならば月瞳の君にも傷を負わせることができると確信している。
力を練る。
掲げた指先に、不可視の力が螺旋を描いて渦巻き、圧縮されていく。
そして、素早くその力を解き放った。
聖鎚の術の長所は、短い聖句と一瞬の集中。そして、有り体に言えば、飛び道具として優れていることだ。
未熟な魔術師が、自らが行使した炎の魔術によって手足を残して燃え尽きてしまったり、小さな炸裂の魔術のはずが、周囲を巻き込んで怪我を負わせたりと、失敗例は数多くある。そんな恐ろしい結果を避けるために、魔術師は念入りに術式を組み、方陣を構築する。
しかし、そうなれば、武器、兵器としての戦咒は即応性に欠けたものになる。街角で突然襲い掛かって来た暴漢を、投石機や弩砲で迎え撃つようなものだ。
だからこそ、聖鎚の術の有用性が際立つ。
純粋な力の塊を放つ聖鎚の術は、術者が指差した先へただ直進する。溢れ出す恐ろしい力に形や指向性を与えて制御することに比べれば、石を投げつけることにも似た直感で行使することができた。
練り上げられた力の塊は、凄まじい速さで蛇身の妖魔へと飛ぶ。
激しい金属音とともに、妖魔の鎧がへこんだ。衝撃がその巨体を揺らす。その動きも止まった。
「あらぁ、大した威力ねぇ」
月瞳の君が言った。シェリウは微かに口の端を上げると、答える。
「鼠くらいは殺せるようになりました」
「頑張ったじゃない。それじゃあ、逃げるわよ」
「待ってください! もう一撃与えます!」
その言い方に少し苛立ちを覚えながら、シェリウは言った。そして、すぐに集中し、聖句を唱え始める。蛇身の妖魔はあきらかに術の影響を受けている。もう一撃。もう一度、聖鎚をぶつければ、もしかすればあの妖魔を退けることができるのではないか。シェリウはそう期待した。
月瞳の君が叫ぶ。
「馬鹿! さっさと逃げる……」
指先に力を感じた瞬間、蛇身の妖魔がまるで跳ねるように動いた。
「速い!」
体を、尾をくねらせながら、凄まじい速さでこちらに這い寄る。しかし、シェリウの指先に宿った力も、敵に向かって解き放たれた。
不可視の力が妖魔へと飛ぶ。蛇身の妖魔は、蛇が絡まり合って形作られる触手のような左手を突き出した。弾けるような音と共に、左手が爆散する。宙に何匹もの蛇が飛び散った。しかし、その巨体は止まらない。
目の前に剣が迫る。
己の体を襲う浮遊感。
先刻と同じように、月瞳の君がシェリウとユハを掴み、跳んでいた。
振り下ろされた剣が、空を切り裂く。
次の瞬間、宙を舞う月瞳の君の足に、何かが絡みついた。それは、薄紫色の淡い燐光を帯びた鎖だった。
何もない地表から飛びだしたその鎖は、月瞳の君を地上に引っ張り落とす。
月瞳の君が地上に叩きつけられ、僅かに遅れて、宙に放り出されたユハとシェリウが悲鳴と共に地面を転がった。
歯を食いしばりながら、シェリウは顔を上げる。
月瞳の君は何とか立ち上がろうとするが、さらにもう一本の鎖が飛びだし、その首に巻きついた。
強い力に引き寄せられ、頭を地面に打ち付ける。
蛇身の妖魔が月瞳の君に迫り、剣を振り下ろした。
地面に縛り付けられた月瞳の君は身をよじり、その一撃を躱そうとする。しかし、首と右足に絡みついた鎖のせいで大きく動くことができない。
刃が、月瞳の君を切り裂く。
そう思った瞬間、彼女の体が消えた。
鎖の間から、小さな縞柄の猫が跳びだす。
蛇身の妖魔は、その姿を見逃さなかった。動きを止めることなく、長い尾を振るう。蛇同士が絡み合った巨大な縄のような尾は、激しく猫を打ち、弾き飛ばした。その小さな体は斜面に激突し、何度か跳ねて止まる。そのまま、身じろぎが一つしない。
「ああ!!」
ユハの悲痛な叫び。
妖魔は巨体をシェリウに向けた。
シェリウは何とか立ち上がると、化け物の巨体を睨み付ける。
どこかに術者がいる。
焦燥を押し殺しながら、聖句を唱え、己の感覚を研ぎ澄ませた。
ユハが感じ、観ることができる不可視の世界。そのユハの体験は、シェリウに大いなる示唆を与えた。ユハと話し合いながら、シェリウは自分の観法を磨き、“世界を観る目”を鍛えてきた。そして、今その磨き上げた術法が、木が根を地中に広げるように地に張り巡らされている力を感じ取った。
どうやら、敵の術者は大地に力を奔らせることで、魔術を行使することができるらしい。それは簡易的な法陣にも似ていたが、緻密さや正確さはなく、もっと曖昧で広範なものだ。少なくともシェリウの知識にはない術式だった。
しかし、この力は少なくとも術者を起点としている。それは、広がった根の中心である木だ。シェリウは素早くその力を辿り、そちらに一瞬だけ視線を向けた。
運河の側にいる身なりの良い娘。ラハトと戦っている三人と共にいた娘だ。地面に座り込み、瞑想するようにうつむいている。
あの女が術者だ。シェリウが確信した瞬間。
力の根がみるみるとこちらに迫った。危険を感じ、聖句を唱えながら腰帯を解く。
次の瞬間、薄紫色の淡い燐光を帯びた剣身が何本も地面から飛びだした。
同時に、シェリウの前で帯が広がり、盾に変じる。
魔力によって形作られた刃が、同じく魔力によって張られた盾に激突した。
赤い光が明滅し、次々と襲いくる刃を防ぐ。
シェリウは、その強い力に圧倒されそうになりながら、何とか耐えた。
攻勢をしのがれた時、攻め手は無防備になる。それは、魔術の戦いにおいても同じだ。今この瞬間、シェリウとあの娘との間には、魔術的な繋がりが生まれている。シェリウは、瞬間的にその不可視の繋がりを感じ取り、そして掴んだ。
反撃する。
シェリウは、短く、しかしはっきりとした聖句を唱えた。この繋がりに力を乗せて、娘へと送り出す。それは、聖鎚の術の応用だ。しかし、その力は宙へ放たれることはない。こちらへと伸びた力の根を辿り、そしてその中心にいる術者を直撃した。
苦痛の叫びと共に、娘は仰け反り、倒れる。
集中を解いた瞬間、ユハの悲鳴のような声が耳に飛び込んできた。
「危ない!」
妖魔の巨体が眼前に迫っていた。
剣や刀を持った三人が、じりじりと包囲を縮める。
ラハトの瞳が淡く金色に光った。
「呪眼! 目を見るな! 囚われるぞ!」
男が叫ぶ。
体の芯が熱くなり、体に力が満ちる。ユハには、虎の瞳の力は濫用しないようにと戒められていた。呪いの力が、ラハトを蝕むからだという。それは、ラハトも薄々感じていたことだ。火の灯った蝋燭のように、己の体と魂を芯として、呪いが燃える。呪眼を使い続けていれば、やがてラハトという存在は、呪いの炎によって融け崩れ、燃え尽きて消えてしまうだろう。
この超常の力の代償としては相応しい末路だ。しかし、今のラハトはそんな結末を迎えるつもりはなかった。
ラハトにとって、虎の瞳は禁じ手となった。だが、この力は強大だ。戦う者としてのラハトは、勝つためならばそれが己の命であろうとも躊躇うことなく手札とする。それがたとえ己の身を焼く炎だとしても、勝利するために、生き残るために必要ならば、賭けの場で札を切るしかない。そして、今がその時だ。
ラハトは、地を蹴った。
その凄まじい踏み込みの速さに、男が驚きの表情を浮かべる。しかし、何とか剣を上げて反応した。
手甲から伸びた剣を振り下ろす。
刃が噛み合い、凄まじい悲鳴を上げた。
横合いから、ルミヤが刀を振り下ろす。連携して攻撃する訓練をしている。ラハトは、その絶妙に機を合わせた攻撃からそう感じとった。それは、スアーハの修行者の戦い方にも似ている。動きを止めて戦っていれば、すぐに退路を断たれて切り刻まれることになるだろう。包囲をされる前に、逃れなければならない。
ラハトは、斬りおろした勢いを減じることなく、そのまま身を転じてルミヤの刀を躱した。ルミヤは素早く刀を返し、逃れるラハトへ横払いの斬撃を見舞う。
身を沈めてその一撃を避けたラハトは、身をかがめたまま低い蹴りを繰り出す。踏み込んでいたルミヤは、右足を刈り取られ、激しく転倒した。
跳ねるように体を起こしたラハトへ、使用人の娘が刀を繰り出す。
ラハトは手甲で受け流すと同時に、左手で短剣を抜いた。力を誘導されて体の泳いだ娘の首へ、素早く突き刺す。
娘が、慌ててラハトから離れた。愕然とした表情で首を抑える。その手の下から大量の血が流れ落ちていった。
「貴様っ!!」
男が怒声とともに迫った。剣を振り下ろす。
ラハトは後ろに飛び退いて刃を躱すと同時に、左手の短剣を投じた。
男は体を開いてそれを躱すと、空いている左腕を小さく
それは、小さな鉄球だ。そして、その鉄球には細い縄が繋がっており、地を這うように飛んで、ラハトの右足首に巻きついた。
次の瞬間、男はその縄を強く引く。
足元をすくわれるように右足が浮き、ラハトの体が仰向けに傾いた。
視界の隅に、刀を振り上げたルミヤの姿が見える。
後ろに倒れかかったラハトは、左足で地面を強く蹴ると、跳び上がりながら空中で体をひねった。踏み込んできたルミヤへ、剣を振り下ろす。
ルミヤは咄嗟に刀を掲げて刃を阻む。しかし、跳躍の勢いと体重が全て乗ったその一撃は、ルミヤの体を弾き飛ばした。
ラハトの瞳の光が増し、口から白い吐息が漏れる。
着地したラハトは、足首の縄を掴み、一気に引き寄せた。凄まじい膂力に不意をつかれた男は、抗することができない。その縄は男の手首に繋がれており、左手を強く引かれて大きく姿勢が崩れる。ラハトは、大きく体をひねりながら、石を投げるようにして右腕を振るった。
男の体は、引きずられ、そして宙を舞う。
ラハトは剣で縄を断った。ラハトと己の体を繋いでいた線から解放され、放り投げられた男が、激しい勢いで斜面を転がっていった。
背後からのユハの叫び。
振り返れば、蛇身の妖魔がシェリウに迫っている。
ラハトは、こちらに駆け寄って来るルミヤを一瞥した。男も素早く立ち上がっている。
腰帯に手を伸ばす。四本の短剣を掴むようにして抜くと、素早く二人に向けて放った。放射状に広がって飛んだ四本の短剣を、ルミヤと男は咄嗟に屈んで避ける。
その時すでに、ラハトは身を翻して駆けていた。
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