第12話

 緑豊かな道を、馬車が行く。


 イラマールやアタミラがある西部地方は、緑があるとはいえどこか褐色を帯びた景色が心に残っている。しかし、東部地方は違う。この地方では、大河エセトワから無数に枝分かれした支流によって潤った湿地や森林、草原が広大な大地に広がっていた。


 『輝く緑が目に焼きつく』。教典にあった一節だ。イラマールにいた頃はそれは単なる修辞として受け取っていたが、この地の自然を見ていると、この言葉が実感として伝わってきた。鮮やかな緑は、瞳の中、心の奥底へと心地よく突き刺さる。


 舗装はされていないが、よく整備された街道は、草原を抜けて、丘を登り、そこに広がる森の中へと続いている。


 ユハたちは、マムドゥマ村を目指して馬車に揺られていた。


 御者はカドラヒ。その横には、ダリュワが座っている。


 馬車の荷台には、村へと運ぶ荷物が満載されており、ユハたちはその荷の上に腰掛けていた。そんな中で月瞳の君は、まるで全身の骨が砕けてしまったような柔軟な体勢で、荷物の間の狭い隙間に沈み込むようにして眠っている。その液体のような寝相のまま馬車に揺られてもなお、そこまで熟睡できることに感心するしかない。


 村も近付く中、ユハは、シェリウとともに、手にした紙の束を読み込んでいる。


「……紫沈草も駄目。ウォトラクの花も効かなかったのか……」


 呟くシェリウは、顎に手を当てながら微かに眉根を寄せた。


 その紙には、これまでマムドゥマ村で試みられた治療、使われた薬、携わった者たちの言葉などが詳細に記されている。リドゥワを出る際に、ハーリオドに手渡されたものだ。


「どの癒し手も解熱ができなかったんだね。病の根が感じられなかったって言ってたみたい」


 ユハは、別の紙に書かれた、癒し手の証言が書かれた箇所を指差した。シェリウは、その部分を覗き込み小さく頷く。


「病の根って何だ?」


 振り返ったカドラヒが聞いた。 


「うーん……、教会の癒し手は患核と呼んでいるんですけど、病の原因を、市井の癒し手はこう呼ぶことがあるんです。病を癒す時に、患者の体で特におかしいと感じる所があるんですよ。すごく言葉にし難いんですけど、濃くて、もやもやしていたり、刺々しく感じたり……。必ずしもはっきりと形をとったものではなくて、ある時はとても広い範囲で曖昧なものであったりするんですけど、大抵は、そこに病を起こす何かがあったり、悪い力が溜まっていたりするんです」

「へえ、そういうことが分かれば治すのも簡単だろうな」

「感じることと治すことはまた別なんです。確かに、はっきり分かったほうが治療の方法を考えやすいということはありますけど……」

「使っている薬も効かなかったし、癒し手もそんな印象を持ってるってことは、今まで知られていない病なのかな?」


 シェリウの言葉に、ユハは頷いた。


「そうかもしれないね。それも、かなり珍しい病だと思う。癒す方法が分からなくても、癒し手は……、患核を感じることはできるはずなの。よほど珍しい病だから、その核を見付けることができなかったのかもしれないな」 

「だとしたら、まずは一人でも多くの患者を診て、症例を集めないといけないわね」

「うん……。それと、あまり考えたくはないことだけど、複数の病が同時に進んでいるのかもしれない。だから、癒し手も惑わされて、患核を見付けることができなかったのかも……」

「ああ、なるほど。それだったら、薬や薬草が効かなかった理由も説明がつくわ」

「もちろん、もしかしたら……、だよ?」


 ユハは、慌てて言い添えた。


「分かってる。まずは診てみないとね」


 シェリウはユハを見つめて頷く。


「最初は失敗したことをそんなに記録して何してるんだと思ったが、どうやら役に立ってるみたいだな」


 紙の束を一瞥したカドラヒに、ユハは笑顔で答えた。


「ハーリオドさんが記録を残してくれていて助かります。大体の輪郭を掴めますし、無駄な治療をせずにすみますから」

「医術は素人だが、記録を残しておいたほうがいいって言い張ったのはハーリオド爺さんだったからな。やっぱり、学のある奴は言うことが違う」

 

 カドラヒは唸ると、小さく頭を振った。


 やがて、道は峠にさしかかった。大小様々な木々の並ぶ森の中の、ゆるやかな坂を馬車は登る。切り開かれた道の左右は傾斜の激しい斜面で、そこにも草木が生い茂っていた。


 月瞳の君がゆっくりと上体を起こした。寝ぼけ眼を瞬かせている。


「おはようございます」


 ユハの言葉に答えることなく、月瞳の君は鼻をひくつかせながら辺りを見回した。


「どうかしたのか?」


 ラハトが問う。シェリウが、微かに緊張した表情を浮かべた。何事かと、ユハも微かに身を固くする。


「懐かしい匂い……」


 月瞳の君が呟く。


 上方で、枝葉が揺れる大きな音がした。その音に驚いて、ユハが、そして皆が、そちらを見上げる。


 街道から見上げる斜面の上に、のっそりと、人の身の丈を上回る背の高い巨大な獣が姿を見せた。


 たてがみで覆われた首が太く長く、がっしりとしており、牛と馬の中間にあるような体格の獣だ。薄い茶褐色の毛皮には、模様のようなものが見えた。何より目立つのはその頭で、そこには翼状の見事な一対の角と、両目の上辺りに細く尖ったもう一対の角がある。


 ユハにとって、初めて見る獣だった。思わず感嘆の声を上げる。


「すごい……。何ていう獣ですか?」


「四ツ角鹿だ。ここらで見るのは珍しいな。あまり人里には近付かないんだが……。西のほうにはいないのか?」


 見上げるダリュワが答えた。


「はい。初めて見ます」


 四ツ角鹿はしばらく馬車と見下ろしていたが、やがて森の中に姿を消した。


「大きい獣ですね……」

「そうだな。ここら辺りでは一番大きな獣なんじゃないか?」


 答えたカドラヒの言葉に、ダリュワは頷く。そして、振り返りながら口を開いた。


「俺たちの先祖が奴隷として連れてこられる前に暮らしていた土地に、麒麟ジラフという獣がいるんだ。とても首が長く、人の何倍もの高さがある。昔、大金持ちの商人がリドゥワに連れてきたことがあるんだ。ガキの頃に見たことがあるが、あの大きさには驚いたな。アタミラにも連れて行かれたらしいが、見たことは……、ないか」


 ユハとシェリウの表情を見て、ダリュワは苦笑した。


「私たち、ムハムトは知っています。どちらが大きいですか?」

「ああ、さすがにムハムトには及ばないな。だが、ムハムトの肩くらいまではあったと思う」

「へえ……、本当に背の高い獣なんですね」


 ユハは、ムハムトの大きさを思い出しながら、想像した。確かに、見上げるばかりに首の長い獣に違いない。


「ああ。それで、昔、村に来た偉い学者が言うには、四ツ角鹿は、鹿ではなくて、その麒麟ジラフの遠い親戚なんだそうだ。ガキの頃にそれを知って、南洋の向こうで暮らしていたご先祖との繋がりを感じて、俺が勝手に親しみを覚えているのさ」


 ダリュワは、四ツ角鹿が消えた森を見上げながら言う。


「何だよダリュワ。お前、今日は妙にお喋りだな」


 微かに笑いを含んだカドラヒの言葉。


「……そうか? いつも通りだ」


 ダリュワは肩をすくめた。


 口元を微かに緩めた月瞳の君は、ユハに顔を向けた。


「四ツ角鹿はねぇ……、昔、あのを助けてくれたのよ」


 月瞳の君が言う。彼女が言うあのというのは、聖女王のことだ。ユハは小さく息を呑み、聞いた。


「どういうことですか?」

「戦で負けてしまって、逃げている時、傷付いたあのを森のぬしが助けてくれたの。それが、半ば精霊になった四ツ角鹿だったのよね」

「え? 本当ですか?」


 ユハは驚いて声を上げた。聖典や教典でその記述は読んだ記憶がなかった。月瞳の君は微笑むと頷く。


「あの時、あのを見失ってしまって、本当に焦ったなぁ。ぬしの元にいるのを見付けたとき、本当にほっとしたのよ。お礼を言ったんだけどほとんど話が通じなくて困ったわ。まあ、感謝してることは伝わったみたいだけど」 

「あの四ツ角鹿はその時の……」

「違う違う。あれは普通の四ツ角鹿よ」

「そうですか」


 ユハは、安心したような、残念なような複雑な気持ちで溜息をつく。


「一体何の話をしてるんだ?」

「シアの知ってる伝説です!!」


 怪訝な表情のカドラヒに、シェリウが慌てて答えた。そして、険しい表情で月瞳の君を睨み付ける。月瞳の君は、笑みを浮かべたままその視線を受け止めた。


「へえ、そうかい……」


 カドラヒは、曖昧な表情で肩をすくめる。


「吉兆だ……」


 斜面を振り返り見上げるユハの横で、月瞳の君が呟いた。


 揺れる馬車は、森を抜け、村が見える丘の上まで来た。夕陽に照らされた広大な畑が広がっている。その周辺には何本もの川が流れ、林も点在していた。


 道の向こうから、一人の御者が操る驢馬車がやってくる。


 驢馬車を操るウルス人の青年は、馬車が近付くとその足を止めた。


「今日も来てくれたのか。いつもすまねえな」


 カドラヒが右手を上げる。どうやら顔見知りらしい。


「やあ、お二人とも。おや、お客さんですか?」


 青年は、大きな声で挨拶すると、荷台の一行に目をやった。


「ああ、客人を連れてきた。もう日が暮れるが、村に泊まっていかねえのか?」

「明日、朝から大事な商談がありましてね」

「そうか、悪かったな」

「いえいえ、こちらこそ、いつも贔屓にしてもらって感謝してますよ」


 笑顔で頭を振る青年に、カドラヒは言う。


「一人で商売なんて大変だろ。そろそろうちの商会に来る気はないかい?」

「カドラヒさんに誘ってもらえるなんて光栄ですね。首が回らなくなったらお願いに行くと思います」

「ああ、いつでも言ってくれよ」


 カドラヒは頷いた。


「それでは、これで。暗くなる前に森を抜けたいので」

「夜道には気をつけてくれよ」


 手綱を握りなおした青年に、カドラヒは右手を上げた。ダリュワが深く一礼する。


「お知り合いですか?」


 去っていく驢馬車を振り返りながら、シェリウが聞いた。


「定期的に村に来てくれる商人だ。養生のための薬草なんかも、安値で卸してくれてる。まあ、気休めなのかもしれないが、助かってるよ」


 カドラヒが答えた。


 マムドゥマ村へと近付くと、歌声が聞こえる。それは、ユハの聞いたことがない歌だ。その旋律も初めて聞くもので、ウルス人のものとは異なるものだと感じられる。


 一日の仕事を終えた黒い人々ザダワーヒが、皆で歌いながら帰路についている。歌う彼らの表情は暗い。それは、疲れからだけではない、悲しみや諦念を感じさせるものだった。歌声も、どこか哀愁を帯びて聞こえる。


 彼らは、村に近付く馬車に気付いて立ち止まった。歌を止めた彼らから、声が上がる。


「よお、ダリュワじゃねえか。おお、カドラヒさんも一緒か」

「やあ、皆、土産を持って来た。明日、配るから待っていてくれ」

「ありがてえ! いつもすまねえな」


 ダリュワの言葉に、沈んだ表情の人々が顔を輝かせた。


「それで、この人たちは誰なんだ?」


 村人たちが、荷台の上のユハたちに胡乱な目を向ける。


「大事な客人だ。明日、土産を配る時にでも紹介するよ」


 ダリュワが静かに答えた。村人たちは顔を見合わせると、頷きあう。


「そうか、分かったよ」

「それじゃあ、俺たちはダリュワの家に行くからよ。何かあったら訪ねて来てくれ」


 カドラヒが笑顔で言った。


 人々に見送られながら、馬車はダリュワの生家へと向かう。


「お帰り、ダリュワ。それに、カドラヒさん。いつも助かります」 


 長身の黒い人ザダワフの男が出迎える。すぐに駆けつけた中年の女性も、嬉しそうにダリュワを見た。 


「親父のワダラムとお袋のナージュだ」


 ダリュワが、ユハたちに言った。ダリュワの体格は父親譲りらしい。ユハは彼を見上げながら思った。


「親父、お袋、この人たちは村の流行病はやりやまいを治してくれる」

「へえ……、そうなのか」


 ワダラムとナージュは曖昧な表情を浮かべた。これまでの経緯からすれば、また何の成果も上げずに無駄なお金を使うことになる、と思っているのだろう。


「皆さん、初めまして。ユハともうします」


 馬車から降りたユハは一礼した。それに続き、皆が彼らに挨拶をする。


「ダリュワがこんな上品な人たちを連れて来るなんてな」


 ワダラムが驚いた様子で、ナージュと顔を見合わせた。


「商売の取引相手が広がったのかねぇ」

「まあ……、取引相手ってのは間違いねえが……」


 カドラヒは笑みとともに頷いた。


「父ちゃん! 兄ちゃんが帰ってきたのか?」


 元気な声とともに、少年が家から飛び出してきた。そして、ダリュワと共にいるユハたちを見て、驚いた表情を浮かべる。


「こいつは、弟のクゥルタムだ」


 クゥルタムは、ユハ、シェリウ、月瞳の君と、三人の顔を何度も見比べて、興奮した表情で叫ぶ。


「すげえ! どの人が兄ちゃんの嫁なんだ?」

「馬鹿野郎。この人たちは客人だ」


 ダリュワがクゥルタムの頭をはたく。


 カドラヒが大声で笑った。

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