第13話

「希望は毒だ」


 栗色の長い髪を持った細面の青年が言う。女性的な美しい容姿を微かに歪めて彼女を見た。


「叶わぬ希望は、それでも光となって人をひきつける。人は、その希望から目をそらすことができずに、ただひたすらにそれを求めて手を伸ばし、苦しむんだ。無数の希望は、きっとあなたを縛りつけ、そして、最後には縊り殺してしまう。……僕は、そんなことには耐えられない」


 その言葉は、彼女が漠然と抱いていた不安を形にするものだった。彼女を取り巻く人々の想いは、日に日に大きくなっている。『聖女』。『癒し手』。そんな、あまりに過分な名で呼ばれることは、彼女にとって荷が重い期待だった。


「ニア……。お前は、いつも心配ばかりしてるな」


 精悍な顔立ちの黒衣の青年が、苦笑とともに言った。 


「俺たちは希望という剣で鎖を断ち切った」


 言葉を続けながら、黒衣の青年は、腰から鞘ごと剣を外すと卓上に置いた。 


「この剣は、何よりも強い。俺は、希望という名の祝福された剣があったからこそ、ここまで生きてこれた。俺は、希望に救われたんだ。だから、俺はお前みたいに悲観はしない」


 栗色の髪の青年は、鋭い視線を黒衣の青年に向けた。


「それは、お前が強いからだ。世の中の、ほとんどの人は、弱い。僕だって……」

「いいや。お前は強いよ」


 黒衣の青年は頭を振った。


「お前だって、導かれ、『癒し手』とともに歩むことを決めたんだ。それが険しく死の影に覆われた道だと分かっていたのに、ここまで共に歩いてきた。それは、弱い者には選ぶことができないことだ」


 彼に見つめられた栗色の髪の青年は、何も答えることなく顔をそらした。黒衣の青年は、彼女へ顔を向ける。


「俺たちは、導かれ、そしてあなたの元に辿り着いた。『癒し手』よ。あなたは、俺にとって、最も尊い希望。あなたを信じる多くの者にとってもそれは同じでしょう」


 その優しい目に見つめられた彼女は、自らが抱く不安を漏らした。それを聞いた黒衣の青年は、微笑むと小さく首を傾げた。  


「あなたは一人ではありません。あなたは、人々の希望を背負う。そして、俺たちは、その背に一杯の荷を背負ったあなたを支え、共に歩くためにここにいる。なあ、そうだろう、アシュギ」


 黒衣の青年は振り返った。背後に立つ黒い人ザダワフは大きく深く頷くと口を開いた。


「『癒し手』よ。どうか、あなたが背負う苦役を共に分かつことをお許しください。あなたが疲れ、足下が定かではない時には、杖となりましょう。我々は、担い手としてお仕えいたします」


 二人の真摯な瞳が、彼女の身を震わせる。それは、まさしく希望の力だ。


 微笑んだ彼女を見て、二人も、笑みを浮かべた。


 黒衣の青年は再び栗色の髪の青年に顔を向ける。姿勢を正すと、真剣な表情で口を開いた。


「……お前は、ここまで共に歩いて来てくれた。苦しいことも、恐ろしいことも、分かち合ってきた。これからも続く険しい道の先には、きっと救いの光が待っている。だから、人々の希望が『癒し手』の力になるように、これからも助けてくれ、……ニアザロ・エリドゥム」


 その言葉に、栗色の髪の青年はゆっくりと頷いた。






 目を開ける。 


 宿となった集会所の中は薄暗い。まだ、夜は明けていないのだろう。


 ゆっくりと上体を起こす。


 ユハは、胸を締め付ける郷愁を、吐息と一緒に吐き出した。


 それは遠い昔の記憶。あるいは、願望の生み出した幻。大切な人たちに囲まれていた、愛おしいひと時。


 ユハには、その真偽を確かめる術はない。夢の詳細もすでに曖昧なものになっている。しかし、幸せな気持ちは、今だ心の中に残っている。


 顔に手を当てると、もう一度大きく息を吐き出した。


 ユハは、この感情のうねりを持て余していた。自分のものではない曖昧な記憶によって、心がかき乱されている。まるで自分が侵食されていくような恐怖と不安が湧き起こる。一方で、切なさと愛おしさに身を委ねてしまうことによって、心地よさを感じていることも確かだった。


 このままじゃいけない。


 そう思うが、何をするべきなのか。どうすれば解決するのか、想像もつかない。


 いっそ、全ての記憶が流れ込んでくればいいのに。苛立ちと絶望から、そんな捨て鉢な思いも浮かぶ。


 しかし、シェリウの寝顔に目をやって、そんな自分を叱り付けた。命を懸けてまで、自分を支えてくれている人がいる。それなのに、そんな自暴自棄になっては駄目だ。


 ふと、視線をめぐらせる。


 上り始めた朝日によって微かに明るくなった部屋の隅。


 猫の姿になった月瞳の君が、じっとこちらを見つめていた。





 日差しが苛烈さを増す前の僅かな時間。野には爽やかな空気が満ちている。


 空ノ魚の群れが、沼の上空を飛び交っていた。


 朝日を浴びて、その半透明な体はきらめいている。古今の詩人たちが題材にしてきたその幻想的な光景を、ただ見物に来たわけではなかった。


 沼地や湿地といった水場の近くでは、熱病が発生しやすくなる。それは、古くから知られてきたことだ。淀んだ水や空気によって発生する瘴気が原因だという説が有力だったが、最近は、別の学説が知られるようになってきた。


 それは、何らかの理由で空ノ魚がよりつかなくなった水場や沼の近くで特に熱病が多い、という報告が各地でなされてきたために、その因果関係が考察され始めた事による。それによって、ウル・ヤークスやエルアエル帝国の医師や学者の間では、水場の虫が病を運ぶのではないかという学説が提唱された。空ノ魚がいなくなることで病が広まりやすくなるのも、水場で霧のごとく発生する蚊や蝿といった羽虫を食べる存在がいなくなった為ではないか、という結論に達したのだ。


 聖王教会の医僧たちもこの最新の学説を学んでおり、これまでの知識や経験の蓄積から、その結論を受け入れていた。ユハとシェリウもその学説を学んでおり、当然のことながら、マムドゥマ村の水場と空ノ魚は重要な調査対象だった。


「空ノ魚も普通に集まってきてるし、瘴気も感じないね」


 ユハが言った。 


 空ノ魚は、人が近寄ると逃げ散ってしまう。彼らの朝の食事を邪魔しないように、遠くからその光景を眺めるにとどめていた。


「川の水も綺麗だったし、毒が流れ込んでいるわけでもなさそうだし、水場に関しては大丈夫みたいね」


 頷いたシェリウは答える。ここまでの道すがら、簡略的ながら川の水質を魔術によって調べていたが、少なくとも既知の有毒な物質に汚染されてはいないようだった。


「ここだけとは限らないから、村の周辺の水場もしらべないといけないね」

「久しぶりに歩き回らないといけないわね……」 


 シェリウは溜息をつくと、村の周辺に広がる丘や林を見回す。


「何言ってるの? 修道院だとこれくらい歩いていたじゃない。重たい荷物がないだけ楽なんだよ。大丈夫、がんばろう!」


 ユハが拳を握って意気込んだ。それを見たシェリウは、苦笑する。


「そうだね。あーあ、みやこ暮らしですっかりたるんじゃったなぁ」

「このまま帰っても、修道院長や我らが姉たちに叱られちゃうね」

「本当ね。鍛えなおさないとな」


 厳しい顔の修道院長の顔を思い浮かべて、ユハは微笑む。シェリウも同じ顔を思い浮かべていたのだろう。顔を見合わせて笑い合った。


 笑顔のまま、ユハが顔を戻すと、こちらを見つめる月瞳の君と目が合った。


 月瞳の君は、明るい表情でユハたちを見守っている。機嫌が良いようだが、起きてからこれまで一言も発していない。目覚めた時、猫の姿でこちらを見ていたのはいったい何だったのか。気にはなったが、なぜかたずねることも躊躇われて、話しかけることはなかった。


「おおい! 皆が集まったぞ!」


 村の方から響くカドラヒの呼び声に、ユハは振り返った。




 昨晩、宿として借りた村の集会所に、農作業に向かう前の人々が集っている。


 カドラヒとダリュワが、リドゥワから運んできた食料や酒、薬などを配り終わった後、ユハたちを癒し手として紹介した。これまでの失敗があるためか、村の人々は疑うように彼女たちを見たが、病人の診察に訪れることは許可してくれた。 


 そして、ユハたちは病によって床に伏せている家々を訪問することになった。


 何軒かの家を訪問して、かつて訪れた癒し手たちの報告が理解できた。確かに、病に苦しむ人々から、患核が全く感じられないのだ。


 本来、病はどんな原因であろうとも必ず体の様々な所に影響が現れる。臓器や筋肉はすべてが連動して一つの肉体を形作っており、病にかかればその連動の均衡が崩れてしまう。 


 癒し手は、治療を施す際に、必ずその崩れや乱れを感じ取れる。


 しかし、これまで診て来た患者にはそれが当てはまらない。その熱が及ぼす影響で身体が弱っているが、本来の熱病のような身体の働きが一切観えなかった。


 体の内側には何の異常もない。ただ、高熱によって肉体が弱っている。それは、まるで体が火であぶられているような、異様で、恐ろしい感覚だ。


 患核を見付けることもできず、応急処置としての解熱の術も効果がない。今はただ、体力を回復させるために力を送り込むことしかできなかった。 


「これは、まるで病じゃないみたいだ……」


 ユハは、今まで診たことがない異常な状態に、途方にくれて地面に座り込んだ。


「どういう意味?」 

「体の内側じゃなくて、外側から熱を浴びているみたいなの。ずっと砂漠に立っているような、それか、まるで……、火刑みたいな……」


 口にした後、その恐ろしい言葉に戦慄する。


「お前の感じていることは、正しいかもしれない」


 ラハトが口を開く。


「え? どういう意味ですか?」

「病ではない……、そう感じたんだろう?」

「はい、そうですが……、何かを見出した、というわけじゃないんです……」


 困惑するユハに、ラハトは頷くと言う。


「いや、その直感が、真実かもしれない。今、村人たちが置かれている状況は、病じゃない。彼らは、何かに襲われているんじゃないのか?」

「襲われている?」

「何らかの術法による力……」


 シェリウは呟くと目を見開いた。ラハトは頷くと、手で宙を示す。


「この村に来た時、本当に微かだが、妙な気配を感じた」

「妙な気配? 一体、何の気配ですか?」


 ユハは、思わず立ち上がる。ラハトは小さく頭を振ると、背後を一瞥した。この周囲に自分たちだけしかいないことを確認したようだ。


「朝に、虎の瞳で辺りを観てみたが、はっきりとは分からなかった。ただ、何かがおかしいという感覚だけはある。その気配が、村全体を覆っていることは確かだ」

「虎の瞳は物見の力が優れているわけではありませんからね。仕方ないと思います」


 シェリウが頷く。


「でも、虎の瞳で観ることができないとすれば、その違和感の正体を探るのは難しいですね……」


 眉根を寄せて顎に手を当てるシェリウ。


「少し、試したいことがあるの」


 ユハが右手を上げて言う。


「何か、手があるのか?」

「成功するか分かりませんが……、もしうまくいけば、何か分かるかもしれません」

「そうか。試してみてくれ」


 ラハトの答えに、ユハは頷く。シェリウに目を向けると、彼女も頷いた。


 ユハは、地面に座りなおすと、背筋を伸ばし、大きく息を吸う。目を閉じた。そして、短い聖句を何度も唱えながら、意識を変容させていく。心を水鏡のごとく滑らかに。五感に支配されていた精神を解きほぐし、自由にするための準備だった。


「何してるんだ?」


 患者の家から出てきたカドラヒが、一行の様子を見て首を傾げた。シェリウは己の唇に指を当てると一言告げる。


「静かに」


 ユハは、すでにカドラヒとシェリウのやり取りが耳には入っていない。内観の法と同じように、異なる世界へと没入しているからだ。


 癒しの技や内観の法は、内へと、深部へと、閉じた世界へと意識の焦点を合わせていくものだ。しかし、ユハは今、それとは全く逆のことを試みようとしていた。


 欠片の持つ力を解放した時に感じた、世界と繋がる感覚。そして、時折夢見る聖女王の記憶の中で感じ取った、周囲の人々の想いを受け取っているような感覚。それを体験した今、自分でも周囲の世界の何かを感じ取ることができるのではないか。そう閃いたのだ。


 浮遊感。まるで自分で自分を見下ろしているような離人感。意識がまるで糸をほぐすように離れていき、拡散していく。強固なユハという存在は曖昧となり、世界と解け合っていく。


 小鳥の鳴き声が己の呟きとなり、木々の葉が揺れる感触が己の肌に触れ、小川の水の流れが己の脈動となった。風を肌で感じるように、水の音に耳を澄ますように、精霊と力の流れが自分の中を駆け巡っていることを感じ取る。


 そんな中に、明らかに異質な力がある。


 それは、霧のように、煙のように村全体を覆っている。とても薄く、曖昧な力だった。しかし、まるで細かい埃のように漂いながらも、その力は消えることはない。そして、その力は人に纏わりつき、影響を及ぼしている。現に、自分たちにもこの力が影響を及ぼしていることが感じ取れた。それはとても弱い力のために、今の段階では自分たちには何の害もない。しかし、毎日この環境の中にいれば、力は蓄積して、やがて体に害を及ぼし始める。それを感じ取った。


 その力は、焼け付くような鋭さを持っている。それは、憎悪であり、怨嗟だった。


 それを理解したユハは、ほどき、広がっていた意識をり集める。


 世界と、切り離された。

 

 その喪失感に耐えながら、目を開く。


 眼前には、心配そうに覗き込むシェリウの顔。


 すぐには言葉が出ない。


 頭と口を繋ぐように意識しながら、口を開く。


「これは……、呪いだ」


 ユハは告げた。

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