第2話

 リドゥワの港は、アタミラよりも大きい。


 ユハは周りを見回し、そう感じた。


 波しぶきを立てながら頻繁に船が出入りし、大小様々な船がまるで場所を奪い合うようにひしめいている。


 飛び交う海鳥の鳴き声。帆船の帆柱マストが軋む音。渡り板を行きかう船乗りや荷運びの荒々しい足音。交わされる掛け声や怒声。様々な音が行き交い、港を満たしている。


 この、眩暈がするような騒がしさは、アタミラの港によく似ていた。ここが世界で一番混沌とした場所だ。アタミラの港に到着した時、そう思ったものだ。しかし、それが間違いだと分かった。今立っている、リドゥワの港の喧騒に比べれば、アタミラの港にはまだ秩序というものがあったのだ。


 道行く人々の顔立ちも、肌の色も、その衣装も、かわす言葉も様々だ。多様さにおいてはアタミラと似ているが、聞こえてくる音も、匂いも、道行く人々も、全てがアタミラの港とは違う。この港に漂う空気は、どこか遠い異国を想像させた。


「リドゥワかぁ。イラマールとは真逆の方に来ちゃったわね……」


 シェリウは、腕組みすると溜息をついた。


「命が助かったんだから、それだけでもありがたいと思わないと」


 きょろきょろと周囲を見ながら、ユハは答える。港の光景に刺激された彼女の声は弾んでいた。


「ユハ……、あんた前向きねぇ」

「ここまで来たら、前向きにならないとね」


 ユハは呆れた表情のシェリウに笑みを見せる。


 恐ろしい精霊を退けた後、ユハたちはそのまま船に乗ったままリドゥワまでやって来た。


 大きな怪我を負った月瞳の君だったが、癒しの術によってはすぐに目覚めた。しかし、怪我だけではなく虎の瞳の呪いによって衰弱したラハトは、三日間目覚めることなかったのだ。幸い、ユハの癒しとシェリウの鎮呪によって彼は完治した。しかし、ラハトの目覚めに相前後するように、次はユハが眠りについてしまう。その時の事をユハはあまり覚えていない。ただ疲れきって眠ってしまったような、そんな曖昧な記憶が残るのみだ。


 いずれにしても、彼らが飛び乗ったのはリドゥワへ直行する貨物船だった。どこかの港に寄港することもなく、そのままエセトワの河口へと到着することになる。


 ユハが目覚めたのは、すでに船はリドゥワへと近づいた頃だ。また船旅を楽しむことができなかった。どうやら自分は船旅と相性が悪いらしい。ユハは不満に思いながら川面を眺めたのだった。


 突然船に飛び込んできて、精霊と戦いを繰り広げたユハたち。貨物船の船乗りたちは、当然のことながら彼女たちを警戒し、恐れた。しかし、シェリウが、自分たちは教会の命を受けて魔物を退治する、祓魔師の一行だという説明をしたことで、彼らは納得した。その納得の半分は、彼女が支払った金貨に依るところも大きいだろう。思わぬ臨時収入を手にした船乗りたちは、ユハたち一行を丁重にもてなしたのだった。


 秘密の任務だから内密にするように、とシェリウは念を押したが、お喋りな船乗りたちの口に錠をかけることは難しいだろう。おそらく、今夜の酒場辺りから存在するはずもない祓魔師たちの噂は広まり、教会に届いてしまう可能性は高い。


 シェリウは腕組みすると、辺りを見回した。


「さてと……、とりあえず、どうしようか」

「うみ……」


 ユハは、心の中の渇望を言葉にして解き放った。


「え?」

「海が見たい」


 怪訝な表情のシェリウを見つめて、ユハは言う。


「海って……。街からしばらく歩かないと着かないわよ」


 シェリウは港の彼方に視線を向けた。


 リドゥワは海岸からやや内陸にあり、海へは運河を通って向かうことになる。外海や河にでるわけではない彼女たちは、当然ながら中々の距離を歩く必要があった。


「せっかくここまで来たんだから……、ね?」


 ユハの言葉にシェリウは肩をすくめると、振り返る。ユハは背後の二人に懇願の表情を向けた。


「私も海は久しぶりに見たいから、ユハに賛成」


 月瞳の君は笑顔で言う。


 少し遅れて、ラハトが小さく頷いた。





 寄せては返す潮騒の響き。草の生えた丘を越えると、視界が一気に開ける。


「海だ!」


 ユハは砂浜まで続く道を小走りで駆け下りた。

  

「子供じゃないんだから」


 苦笑しながら、シェリウが続く。


 大河エセトワの下流域の広大さにも驚かされたが、目の前に広がる海原は、それとは全く異なる感動をもたらす。


 ユハは、砂浜を踏みしめながら白く泡立つ波打ち際まで歩み寄った。彼方の大海原を見つめる。海と空の青は、似ているようでまるで違う。千切れ雲が浮かぶ、どこまでも高い空。遮るもののない、果てがない水平線。それは、心の中の全てを解き放ってくれるような、広大な景色だった。


 ここが地の果てだ。しかし、この海の向こうにも異なる人々の暮らす大地があるという。本当に世界は広い。そして、交易船にのれば、そこまで行けるのだ。ユハは、この水平線の先に広がる世界に思いをはせた。


「すごいねぇ……、海」

「そうね……」


 呟くようなユハの言葉に、シェリウは頷いた。


 半ば放心していたユハとシェリウは、一際大きな波が押し寄せてきたことに気付いて慌てて逃れる。背後で波が音を立てた。


 安堵の吐息を漏らした後、互いに顔を見合わせて笑う。


 後ろで、月瞳の君が二人を見て大きな笑い声を上げていた。


 幸せだ。


 なぜか、そう思った。


 教会に追われ、使徒である月瞳の君がいる。この状況でそんな呑気なことを考えている場合ではないと思うのだが、心に満ちる幸福感を止めることはできない。


 この幸せな風景を覚えておこう。


 ユハはそう心に決める。


 こんななんでもない事で笑えることが、どれだけ幸せなことか。修道院で暮らしていた頃には考えもしなかった。しかし、幸せを感じるためには、心に平穏がなければならないのだ。少なくとも今は、かけがえのない友と共に海を見ることのできる幸せを噛み締めることができる。


 今感じているこの幸せな気持ちは、これから身に降りかかる苦難を耐える強い助けとなってくれるに違いない。ユハはそう思った。





 その日、一行はリドゥワで宿をとった。


 船乗りたちにも宿を紹介されていたのだが、彼らと再会することを避けるために、中流の宿を探した。


 幸い、路銀は肌身離さず持っていたために支払いに困ることはない。しかし、旅のために用意した荷物のほとんどはあの馬車の中に置いてきてしまった。今のユハたちは、旅人にしては身軽な格好であり、宿の人々も少し不審げな顔をする。

 

 彼らが泊まるのは、この宿では中程度の広さの部屋で、十人ほどの宿泊を想定している。そのため、彼らは余裕を持ってくつろぐ事ができた。


 シェリウが部屋に魔術を施し終わるのを待ってから、皆は中央に敷かれた大きな絨毯に車座で座る。


「……シェリウ、イラマールに帰ること……、どう思う?」


 アタミラから脱出することを決めた時から感じていた不安を、ユハは口にした。


「危険だと思う」


 シェリウは即答した。そして月瞳の君に顔を向ける。


「教会はきっとユハを待ち構えている。そうですよね? 月瞳の君」

「私、わかんな~い」


 月瞳の君は大袈裟な身振りで両手を挙げてみせた。シェリウは溜息をつく。


「いっそ、ウル・ヤークスを出るか?」


 ラハトが口を開いた。


「この街から船にでも乗って、聖王教会なんてない、遠い異国で暮らす。そんな生き方もある」

「それは……」


 思いもしなかった提案に、ユハは目を見開いた。昼間見た、どこまでも続く水平線を思い出す。その果て無き景色は、ユハの心を誘う。聖女王など全く知られていないような異郷の地で、ただの一人の娘として生きる。癒し手としての力を生かして働けば、少なくとも食べることには困らないはずだ。遠い異国で汗水たらしながら働く自分の姿を想像する。


「ユハが望むならあたしも付き合うわ」


 シェリウが静かに頷いた。


 ユハはしばしの沈黙の後、小さく頭を振った。


「私は……、イラマールに帰りたい」


 ユハは、シェリウを見つめて言う。


 ムアム司祭は、ユハがイラマールに帰るつもりだったことを覚えているはずだ。当然、教会の手が伸びていることも覚悟している。それでも、ユハの望郷の念は断たれることはない。両親の顔も知らず、自分がどこで生まれたのかもユハは知らない。そんな彼女にとって、故郷はイラマールなのだ。


 シェリウはその答えを聞いて、微笑み頷く。


「そうね。まずは帰ろう。それで、何かあれば、その時考えればいい」

「私は、ユハについていくわ」


 月瞳の君は、笑みとともにユハを指差した。


「私は必ず、あなたの中に眠るあのを目覚めさせる。それまでユハについていくからね」

「分かりました! 私も負けないように頑張ります! 月瞳の君、これからもよろしくお願いしますね」


 ユハは、拳を握ると、深く頷いた。月瞳の君は、目を瞬かせてユハを見て、シェリウに顔を向ける。


「……この、本当に変わってるわねぇ」

「昔からそうですね。お陰で、あたしも仲良くなれたんですけど」


 シェリウは肩をすくめる。


「私は月瞳の君とも仲良くしたいんです。でも、私が私でなくなるのは嫌です!」


 力をこめたユハの言葉に、月瞳の君は困惑と微笑の間の曖昧な表情を浮かべた。


 自分の中にある欠片。それが自分に大きな影響を及ぼし始めている。そのことを、ユハは切実に感じていた。自分の記憶の中に時折混じる見たこともない光景。しかし、それは確かに己の記憶として溶け込んでいる。聖女王の見た景色だ。ユハはそう確信している。


 船上で精霊を退けた時の記憶はある。しかし、熱に浮かされたような、あるいは夢を見ていたような、現実味がない。その前の別荘の時もそうだが、欠片から導き出した大きな力を行使する時、ユハという存在は弱まる。彼女はそう感じていた。だとすれば、これからもっと欠片の力を頼ることによって、ユハという存在は消え去るのだろうか。そして、月瞳の君の言うとおり、聖女王として目覚めるのか。


 大聖堂に聖女王が眠っているのだから、欠片に過ぎない自分が聖女王になるとは思えない。しかし、少なくとも欠片に自分というものを奪われてしまうことは確実だ。そんな最悪の事態を避けるためには、欠片の力を抑えるしかない。しかし、危機に陥った時に、その力は溢れ出してしまう。その時の葛藤もぼんやりと覚えている。それをしっかりとした自覚の元で操っていかなければならないだろう。これまで以上に内観の法を磨き上げる必要がある。ユハは強く決意した。


「河を上って戻るのは止めたほうがい」


 そう言ったラハトに、シェリウが顔を向けた。


「やっぱり、見張られていますか?」

「ああ。今はまだ大丈夫だろうが、すぐに各港に知らせがいくだろう。アタミラから順番に、川に沿ってユハを追ってくることになる。リドゥワに辿り着くのは最後になるだろうから、まだ少し余裕はあるはずだ」

「エセトワ沿いは避けたほうが良いってことですね」

「陸路でアタミラを大きく迂回して帰るしかないだろう」


 ラハトの言葉に、ユハとシェリウは頷いた。リドゥワからイラマールまでの道程を想像すると気が遠くなるが、行くしかない。


「……ラハトさんは、付いて来てくれるんですか?」


 シェリウが、ラハトの表情を窺うように、おずおずとたずねた。


「当たり前だ。俺は旦那にお前たちを助けるように言われた。それに、最後までお前たちを守る責任もある」


 その答えに、シェリウの表情が明るく輝いた。


「ラハトさん、ありがとうございます」


 ユハは深々と一礼する。シェリウも慌ててそれに続いた。


 ラハトはそう言ってくれたが、本当ならば彼が自分たちに付き合う必要などないはずだ。しかし、それにも関わらず自分たちを助けてくれることに、感謝してもしきれない。そうやって自分は様々な人たちの善意によって生かされている。だからこそ、この命を無駄にはできない。ユハという存在を失うわけにはいかないのだ。


「あらあらシェリウ。色男の顔に見惚れてないで、ちゃんとお礼を言わないと駄目じゃない」


 月瞳の君はからかうように言った。シェリウは、月瞳の君を睨み付ける。


「月瞳の君。寝ている間にユハをさらわないでくださいね。あたし、ユハに“紐”を結んでいますから。悪さをすればすぐにわかりますよ」


 月瞳の君は、嫌味たらしく浴びせられた言葉に、小さく肩をすくめて答えた。


「力尽くはやめたわ。私の愛で思い出させてあげる」

「愛って……」 


 ユハとシェリウは、顔を見合わせた。


 明日、朝から旅の準備のために市場へ行くことを決めてから、ユハたちは眠ることにした。久しぶりに大きな部屋で眠ることができる。その喜びを噛み締めながら寝床に潜り込む。


 同じ部屋でシェリウ以外の人々と共に寝るという状況に少し緊張したが、すぐに気にならなくなり、疲れきった体は深い眠りの海へと沈んでいった。

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