第3話 

 猫が自分を見つめている。


 一瞬の混乱の後、ここがリドゥワの宿であることを思い出した。


「あの……、重たいです、月瞳の君」


 ユハは、胸の上に乗った猫に言った。 


 猫は、ユハの頬に右前足を置くと、僅かに爪を出した。その微かな痛みに顔をしかめる。


 次の瞬間、猫の姿が揺らぎ、娘の姿となった月瞳の君がユハに伸し掛かった。右手でユハの頬を撫でて、唇を尖らせる。


「失礼なねぇ……。どう? これでも重いって言うの?」

「……もっと重くなりました」


 小さな猫から、人へと、急激な体重の変化が及ぼす圧力に、思わず呻く。同じ月瞳の君なのに、猫と人の姿ではどうして重さが違うのだろう。ユハは素朴な疑問を抱いた。


 そこへちょうど部屋に入ってきたシェリウが叫んだ。


「ちょっと、月瞳の君! 何やってるんですか! ふしだらですよ!」

「ふしだらって何よぉ。私は朝の挨拶をしていただけよ?」


 月瞳の君は微かに眉根を寄せると、シェリウを見やった。


「挨拶になんて見えません! 色仕掛けでユハを騙そうたってそうはいきませんからね!」

「色仕掛け……?」


 ユハと月瞳の君の目が合った。ユハの頬が熱くなる。月瞳の君はこれ見よがしにユハに頬ずりしてみせると、怒りの声を上げるシェリウを見た。


「色仕掛けってなによぉ。私を何だと思ってるわけ?」

「……色々と伝わってますよ」


 呟くように言ったユハを、満面の笑みを浮かべた月瞳の君は見下ろした。


「えぇ~、なになに、何が伝わってるの? 私、知りたいなぁ」

「その……、色々な英雄と、あ……、愛をかわしたとか。それを聖女王陛下に叱られたとか……」


 言いながら、月瞳の君の重みを意識する。遺された物語によれば、彼女の恋人は男女を問わなかったはずだ。今更ながら、組み敷かれているこの状況が、修道女としては好ましくないことに気付いた。


「ああ、あの、嫉妬深いのよねぇ。私のことが大好きだから、私に恋人ができるとすぐに機嫌が悪くなるのよ」

「聖女王陛下はそんなこと言っていません! 聖王教徒は色欲の病を患わないように身を処さなければならないんです! あなたも聖王教徒でしょう!?」 


 シェリウの悲鳴にも似た問いを、月瞳の君は鼻で笑った。


「私、聖王教なんてどうでも良いのよ。あの娘が好きだから、いを交わしただけなんだもの。大体、あんたの言ってることは、全部聖典だの教典だのに書いてあったことばかりでしょう? 聖典だって、最初のほうで投げちゃった。だって、あの娘があんな堅苦しいこと言うなんておかしいもの。私は、ずっとあの娘の側にいたのよ」


 月瞳の君の答えに、シェリウは絶句する。


 歴史の生き証人に断言されてしまえば、ただの信徒は何も反論できない。それにしても、聖女王の使徒に聖王教などどうでも良いと言い放たれてしまうと、敬虔な信徒としては反応に困ってしまう。使徒というのはこういうものなのか。それとも月瞳の君が特別なのか。聖典や様々な教典にも記されていなかった難問だ。


「いい加減にしろ」


 ラハトが月瞳の君の頭に拳を落とした。月瞳の君は悲鳴をあげて頭を抱える。


「痛ぁ! 何するのよ」

「宿を出るぞ。ごろごろしていないで、早く支度しろ」

「ほんとに、無粋な男ねぇ……」


 月瞳の君は、ラハトを睨みながらも起き上がる。解放されたユハは、思わず安堵の吐息を吐き出した。




 リドゥワは、水運の街だ。


 街中を縦横に運河がはしり、人々や荷を乗せた小舟が行き交っている。水に溢れたこの豊かな風景に、ユハは驚きを覚えた。


 乗ってみたいな。優雅に水面を滑る小舟を眺めながら、ユハは思った。運河から眺める街はどんな風に見えるのだろうか。舟に乗った自分を想像しながら橋の下をくぐって行く小舟をじっと眺めていたユハは、シェリウに呼ばれて慌てて駆け出した。


 ユハは買い物という行為に慣れていない。


 修道院での暮らしにおいては、物を買うということがなかった。イラマールからアタミラまでの旅では、ぎりぎりまで切り詰めて、目的地までただ真っ直ぐに向かう旅であったために、寄り道をすることもなく、何かを買い足す必要もほとんどなかった。アタミラに滞在していた時も、そのおかれた環境からして何かを買うということがなかった。


 その為、この騒がしい市場に立ち入ることに、少しばかりの勇気と覚悟が必要だった。緊張しながら市場を歩く。


 交易の要として栄えているだけに、市場の広さもアタミラに劣らない。こういった大都市の市場では、同じ業種の店が一定の区画に固まっていることが多い。その為、まずは目的の物が売っている区画を探さなければならなかった。


 活気に満ち溢れた喧騒をかき分けながら辿り着いても、次は似たような品を並べた幾つもの店を比較することになる。同じ品が並べてあっても、価格が違うことがよくあるからだ。当然のように値札もない為、店主と交渉することになる。


 そうやって話しかける商人たちも、皆、それぞれ違う。苛立ちを覚えるほどしつこく追い縋る者や、売る気もないのか不機嫌そうな顔でこちらを見もしない者など、商売の仕方も様々だ。


 ヤガンさんならどうなんだろう。きっと、色々と言葉を並べて一番高い物を売りつけるに違いない。ユハは口元に笑みを浮かべて陽気な黒き人ザダワフの顔を思い出す。


 店先に並べられた品物を吟味して買うというのは、迷い、考えることを要求される。その一方で、まるで市場の熱気に当てられたように心急かされて、奇妙なまでに心が弾む。海の向こうからやって来たという珍奇な品々に目が向くが、この旅には何の役にも立たない物だ。浮かれた勢いで無駄な物を買わないようにしなければ。ユハは己を戒めた。


 ラハトの助言を受けながら、旅のための装備を買う。旅のための大きな鞄。何着かの着替え。日除けの外套。水筒。その他にも大きな物から細々とした物まで。ラハトと月瞳の君の物もユハとシェリウが支払った。


 驢馬ロバを買うかどうか、一同は大いに迷った。ラハトの意見では、長旅で足を休めるために驢馬ロバがいても良いという。ただし、餌や水のことも考えておかなければならない為に、余計に費用がかかるという欠点もある。結局、驢馬ロバを買うことは今回見送ることにした。旅の半ばで必要となれば買えばよい。


 路銀はまだまだあるが、無限にあるわけではない。何が起こるか分からないこの旅において、出来るだけ無駄な出費は抑えておきたかった。


 そう言いつつも砂糖をまぶした揚げ麺麭パンを買ってしまったことに、我ながら不安を覚える。どうやら自分はアタミラで随分と甘やかされてしまったらしい。揚げ麺麭パンを頬張り、幸福感と罪悪感をしっかりと味わった。


 重たい荷物を抱えたユハたちは、市場の外れで休息する。疲れを覚えていたユハは、道端の岩に腰掛けて一息ついた。


「月瞳の君の分まで買ったから余計なお金がかかりました」


 シェリウは、冷たい口調で月瞳の君に言った。月瞳の君は唇を尖らせてシェリウを見やる。


「何よぉ。ラハトだって買ったじゃない。ラハトの分はいいの?」

「ラハトさんは恩人で、私たちを守ってくれるのだから、お金を払って当然です!」


 シェリウは月瞳の君に対して刺々しい。一度、殺されかけているのだから無理もないが、見ていて居た堪れなくなる。一方の自分が抱く月瞳の君への好意が、欠片の影響であることも否定できない。自分の感情のどれだけが欠片の影響を受けているのか。自分で自分の感情を信用できないことが虚しく思えてくる。


「それに、自分のお金でもないのにあれもこれも買いすぎです。少しは遠慮してください」 


 鋭い視線とともに、シェリウは指差した。月瞳の君の両手には、何本もの串焼き、南方産の果物が溢れている。自分の為に買った旅の荷物は、全てラハトに運ばせていたのだった。


「お腹がすいてるんだから仕方ないでしょ。使徒を飢え死にさせる気なのぉ? 敬虔な信徒の癖に、使徒に対して敬意が足りないわよ」


 月瞳の君は、そう言うと手にした串焼きを次々とたいらげていく。その食いっぷりは見ていて気持ちが良いほどだ。ユハは、月瞳の君の差し出した果物を受け取ると、一口齧った。瑞々しく、とても甘い味だった。


 シェリウは、呆れた表情でそれを眺めていたが、大きな溜息とともに頭を振った。


「使徒がこんな方だったなんて、色々と残念です。文句があるならついて来なくてもいいんですよ」

「ああ、お願いシェリウ! 私をユハと引き離さないで!」


 月瞳の君は大袈裟な身振りで嘆くと、シェリウにしなだれかかる。


「せめて、もう少し心を込めて演技してくださいよ」


 シェリウは苦笑すると、月瞳の君を両手で押し返した。


 休息を終えて立ち上がった一行の前へ、五人の男たちが歩いてくる。彼らは、笑顔で互いに言葉を交わしながらも、ほとんどの視線はこちらを向いており、そのまま、皆の前に立った。


 先頭に立つ少年が、月瞳の君に声をかけた。


「姉ちゃん、あんた、いい女だねぇ。俺たちと遊ばねえか?」

「ええ、どんな遊び? 興味あるわねぇ」


 月瞳の君は、小首を傾げて少年を見た。少年は顔を上気させて、目を逸らす。


「そ、そりゃ、色々だよ」

「おい……」


 ラハトが、咎めるように月瞳の君の肩を掴んだ。


「何だよ優男。てめえはそっちの大人しそうな嬢ちゃんたちと遊んでな。何なら、お前みたいな奴が大好きな男を紹介してやるぜ」


 もう一人の男が、月瞳の君から遮るようにしてラハトの前に立ち、挑発するように顔を突き出した。周囲の仲間たちが笑い声をあげる。


「……荒事を稼業にするつもりなら、人を見る目を養ったほうがいい。特に女には」


 ラハトは、表情を変えることなく男に言う。男の目に鋭さが宿った。


「何だてめえ、舐めた口ききやがって!」


 威嚇の大声とともに、ラハトの襟首を掴む。ラハトは静かな視線を男に向けたままその場から動かない。


「やあねぇ、乱暴で」


 月瞳の君は嫣然とした笑みを浮かべると、目の前の少年の唇に人差し指を当てた。そして、そっと両腕を掴む。その感触に、少年は緩みきった笑みを浮かべた。月瞳の君は小さく頷くと、次の瞬間、一息で少年を持ち上げた。


 少年は驚愕の叫びとも悲鳴ともつかぬ奇妙な声を上げながら宙を舞い、家屋の壁に激突する。


 ラハトの襟首を掴んでいた男がぽかんと口をあけてそれを見た。


 その隣に立っていた大男が、剣呑な表情で素早く大振りの短刀を抜く。


 抜き放たれた白刃を一瞥したラハトは、襟首を掴んだ男の親指を両手で握った。そして、自らの全身を捻るようにして、腕を巻き込む。乾いた高い音とともに、男の親指が折れた。悲鳴をあげ一気に力が抜けた男の体を地面に叩きつけるようにして、短刀を手にした大男へと放り投げる。


 跳ね飛ぶように転がってきた仲間の体が足にぶつかり、大男は姿勢を崩した。その時にはすでにラハトは大男の前に立っている。


 短刀を握っていた右手を抑えると同時に、掌底でまるで撫でるように顎を打ち抜く。大男は膝から崩れ落ちた。


 ラハトは、足下の大男をそのままに、残った二人の仲間へ顔を向ける。仲間たちは、顔を強張らせてあとずさった。


「ラハトさん、止めてください!」


 呆気にとられていたユハは、我に返って叫んだ。不穏な空気に気付いた時にはもう終わっていた。暴力を止める暇もなかった。


「二人ともひどいです!」


 ユハは、倒れこんでうめいている男たちに駆け寄った。


「どうしてこんな乱暴なことをするんですか。二人とも強いんだから、こんなことをしては駄目ですよ!」

「大丈夫だ。殺していない」

「どうしてそんなに極端なことを言うんですか」


 静かに答えるラハトに、ユハは呆れてしまう。


「ああ、大丈夫ですか。本当に、乱暴なことしてすいません」


 右腕を抱くようにして唸り声を上げている男の傍らに屈みこむ。男は、苦悶の表情を浮かべながらユハを見た。


「指が、指が……」 

「私は癒しの術が使えます。診せてもらっても良いですか?」


 男は頷くと右手を差し出した。親指が捻じ曲がり、本来とは反対の方向を向いている。


「ああ、ひどい、折れてる……」


 ユハは呟くと、ラハトに顔を向けた。こちらを見るラハトの頬が微かに緩んでいたように見えたのは気のせいだったのか。いつも通り無表情なラハトへ、咎めるように眉をひそめてみせた。


「骨接ぎの術は難しいんです。失敗すると骨が歪んでついてしまうから、とても気を使うんですよ」

「そうよ、ラハト。あんた、気をつけなさい」


 月瞳の君が笑みを浮かべてラハトを見やる。その他人事のような態度に、ユハは思わず叫んだ。 


「何言ってるんですか! そもそもあなたがいきなり乱暴なことをするからですよ! この人たちは、仲良くなろうとしただけだったのに」

「仲良くって……。さすがに箱入りが過ぎるわねぇ……。危なっかしいわ」


 月瞳の君は呆れた様子でユハを見た。


「すみません。後でユハにはちゃんと教えておきます」


 シェリウが溜息とともに月瞳の君に言う。月瞳の君は、ユハを見たまま小さく頷いた。


 そんな彼女たちのやり取りを気にすることなく、ユハは怪我人たちへ癒しの術を使う。基本に忠実に、丁寧に、効率よく。力に物を言わせた圧倒的な癒しではない。欠片の力を使わないようにと心に決めたユハは、初心に立ち戻った癒しの術を試みていた。


 骨折した指をつなぎ、脳震盪を抑え、落下して痛めた背中を癒す。三人の被害者たちは、すぐにその痛みを忘れて安どの表情を浮かべた。


「馬鹿野郎、手前ら! 喧嘩を売っといて、その様か!!」


 街路に鋭い男の声が響く。


 三人は、緊張した表情で、こちらに歩いてくる二人に顔を向けた。前を歩くのは微かに笑みを浮かべたウルス人。おそらく二十代半ばだろう、自信に満ち溢れた精悍な印象を受ける男だ。ユハたちとそう変わりない背丈の小柄な男だが、袖からのぞく腕は逞しく、その歩みは躍動的で素早い。その後ろに続くのは、対照的に大柄な禿頭とくとう黒い人ザダワフだった。厳つく迫力のある顔だが、今は顔をしかめて三人を見ている。


「あ、兄貴……」 

「すまんな! こいつら頭が悪くてよ。喧嘩を売っても良い相手とまずい相手の区別がつかねえんだ」


 その男は、ユハたちに顔を向けると、大声で笑った。

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