第1話
カイラハは、
ウル・ヤークス王国建国における、後に聖戦と呼ばれることになる戦いの中で、カイラハは大きな役割を果たしてきた。当時、この地は
ウル・ヤークス王国建国後も軍営府の役割、そして重要性は変わることはなく、今も北に勢力を持つイールム王国へ睨みを利かせている。
強固な城塞都市であるカイラハは、街道をつなぐ交通の要所にあるが、軍事の拠点としての役割が大きい。城下町は宿場として栄えてはいるが、商業を奨励することはなく、むしろ周辺の農地の開拓を重要視していた。当然のことだが、それは戦時に必要となる糧秣を自給するためだ。
そのカイラハに駐屯するのは、歴史ある第二軍アタム・ヤグズィド・イムルであり、それを率いる将軍スハイラは、執務室にいた。
卓上には乱雑といっていい状態で書類が散乱している。スハイラは机に肩肘を突いて頬を支え、顔をしかめながら手に取った紙を見ていた。
対面に立つのは初老のカザラ人だ。厳しい顔と大きな体は、軍人の平服が似合っている。歴戦の軍人といった風貌だった。
「つまり、奴らは早々に面倒事を片付けたというわけだな、イフタート」
スハイラは放るようにしてその紙を卓上に置く。カザラ人の男は頷いた。
「まさしく。イールム王国は北へ進軍して、騎馬の民の族長を討ち取ったようです」
「なるほど、守りに徹することなく敵の本陣へと攻め込んだわけか。度胸があるな」
遊牧の民は城にこもることはなく、常に野にあり、移動し続けている。そのため、城砦に拠って戦う大軍にとってはやり難い相手だ。様々な兵種が入り混じり、それぞれの末端までの命令伝達も鈍くなるため、まるで一体の生き物のように迅速に動く騎馬軍団を相手取ることに苦労する。しかし、イールムはあえて敵の縄張りに打って出たのだ。余程の覚悟と軍の練度がなければ成し遂げられないことだろう。
「この勢いは無視できません」
「……厄介なことだな。いつその矛先がこちらに向くかもしれない。いよいよ、本腰を入れるつもりかな」
「ええ。すでに予兆はありました。西部国境地帯で、シアートの商会が“蠍尾の馬人兵”に略奪を受けたそうですからな」
「ああ、アタミラで議題に上ったあれだな。イールムは否定したそうだが、商人たちの目撃証言からも間違いないだろう。イールムは、精鋭の馬人兵団を西に集結させている。……まったく、エルアエル帝国と睨み合っていれば良いものを。奴らの興味は南にあるようだ」
イールム王国とエルアエル帝国という東西の大国は、長い間、相争ってきた。そして、ウルス人、シアート人、カザラ人といった諸民族は、この両大国に翻弄され続けてきたのだ。しかし、ウル・ヤークス王国という新たな大国が生まれたことによって状況は一変した。大国同士が睨み合う、三竦みの状態に陥ってしまったのだ。しかし、この勢力の均衡は、一方で長い平和の期間を生み出すことになった。
互いに右手で刃を向け合う一方で、左手で金貨を交換し合うような状況は、この地域のみならず、全世界に大きな交易の流れを生み出している。それは、空前の繁栄を享受するアタミラや、その他の諸都市にいれば実感できることだ。
しかし、この平和の均衡は、脆く危ういものであることをスハイラは理解している。三国のいずれかに何か大きな変化が起これば、左手は引き戻され、右手に握った刃が突き出されるだろう。そして今、その時が来ているのかもしれない。
今の状況は、スハイラにとって悩ましい。動乱はウル・ヤークスにとっては危機であり、一方で彼女が仕える主にとっては好機でもある。将軍としてのスハイラが抱く危惧と、信徒としてのスハイラが抱く期待。この相克する感情の落としどころ探すしかない。スハイラは小さく溜息をついた。
「閣下、失礼します」
少し高めの男の声に、スハイラはそちらへ顔を向けた。
「どうした」
入室した青年が一礼した。金色の髪がふわりと揺れる。その細身の体は隣に立つイフタートとは対照的だ。その顔は中性的で美しいが、ウルス人には見られない白い肌と容貌を備えている。こちらを見る瞳は茶色だった。
「リドゥワ太守ラアシュ様がお待ちです」
「ああ、そうだったな。待たせてしまったか」
スハイラは頷くと立ち上がる。
「イフタート、この件は明日にでも詳しく話そう。今日は客人の相手だ」
「はい」
イフタートは頷く。
「さあ、アラム。行こうか」
スハイラは微笑むと、青年の頬を指で撫でた。
その男は、くつろいだ様子で
まるでこの城塞の主人だな。堂々とした、そして優雅な男の様子に、スハイラは思わず苦笑する。
「すまない。お待たせしたようだ、ラアシュ殿」
スハイラは一礼した。男も立ち上がると、返礼する。鷹揚だが優雅な所作はこの男の生まれを示していた。
「お互い忙しい身なのだ。気にする必要はない。そもそも、私が急に押しかけたのだからな」
ラアシュは笑うと、スハイラの言葉も待たずに
「お会いするのは久しぶりだね」
リドゥワ太守であるラアシュとは、彼が太守になる以前から顔見知りではあった。しかし、そこまで親しくしていたわけでもない。
「ああ。二年振りかな。太守になって一年以上過ぎるというのに、まともな挨拶もできなかったからな」
「それは仕方がない。私も、色々と忙しかったからね」
「そう言ってもらえると安心だ。同じ州に属する都市の長、しかもリドゥワとカイラハの長が不仲だと噂をたてられてしまっては、知事に叱られてしまう」
ラアシュが太守を務めるリドゥワは、周辺地域の穀物の集積地、南洋貿易中継地の一つとして栄えている。
頷くスハイラの顔を、ラアシュはまじまじと見つめていた。そして、感嘆の溜息をつく。
「まったく……あなたは殺伐としたこの城塞に咲く一輪の薔薇だな」
「棘があると言いたいのかね?」
「ああ、その通りだ。あなたの微笑みは鋭く私の心に突き刺さる。そして、心の痛みとともにあなたの美しい姿を思い出すのだ」
スハイラは微笑むと小さく肩をすくめた。ウルス人上流階級の人間として、こうした賛辞には慣れている。スハイラもラアシュも、この東部地方の伝統ある一族に属している。彼らは、ウル・ヤークス王国建国以前にこの地方にあった諸王国の貴族たちの末裔だ。旧い社会の名残りとも言うべき存在だったが、この地方ではいまだに隠然たる勢力を誇っていた。
「二人が再会した記念として、これを用意した。気に入ってもらえると嬉しいが」
ラアシュはそう言うと、小さな木箱をスハイラの前に置いた。ゆっくりと蓋を開ける。取り出したのは、布に包まれた硝子杯だった。
その硝子杯は深い青色で、表面に花を模した模様が刻まれた見事なものだ。
「ほう……、ラーナタの硝子杯かな?」
スハイラは感嘆の吐息をもらす。彼女は、硝子製品を集めることを密かな趣味としていた。とはいえ、財に物を言わせて棚一杯に並べるようなものではない。スハイラは、数を集めて満足する人間ではない。厳選した物を愛でて、使い込むのが彼女の楽しみ方なのだ。
「ああ、私は硝子杯を収集するのが趣味でね。アタミラに行ったついでに市場で色々と見ていたのだよ。それでこれを見付けた。きっと、あなたに似合うだろうと思ってね」
ラアシュは微笑みとともに杯を手渡す。
「ああ、ありがとう」
スハイラは受け取ると、満面の笑みで頷いた。
そして、二人は一族の近況や、お互いが訪問したアタミラの様子について話した。ラアシュの語り口はなめらかで、度々スハイラを愉快に笑わせる。彼の語る話題はスハイラの興味を引くことばかりで、その話に引き込まれた。
「そういえば、少し前にリドゥワで騒ぎがあったと聞いたが」
リドゥワに話題が及び、スハイラは部下の報告にあった事を思い出した。彼女の口にした問いに、ラアシュは頷く。
「リドゥワにはアティハ十三教派の中でも四教派の教徒が多くいる。彼らと正教派が衝突したのだ。暴動になったが、何とか鎮圧したよ」
ラアシュはそう言って肩をすくめた。スハイラは小さく溜息をつく。
「やれやれ、諸教派の奴らにも困ったものだな……」
元々、ウル・ヤークス建国以前に、聖王教会はこの地で細々と信仰を守っていた。各地の教徒は分断されており、互いに関係を持つことも少なかった。やがて、ウル・ヤークス建国の際に彼らは大きな力となる。そんな彼らは、“アティハ十三教派”、あるいは、単に“諸教派”と呼ばれている。そして、本来ウル・ヤークスの中核である教会に決まった教派の名はないのだが、他の十三教派と区別するために、“正教派”と呼ばれることも多い。
動乱の時代においては、彼らは同じ聖王教徒として一致団結できた。しかし、平和と繁栄が訪れたことによって、状況は変わる。彼らは古き信仰を守り続けてきたという自負があった。聖女王とその取り巻き達は、彼らにしてみれば新参者なのだ。そうなると、多数派であるウル・ヤークス王国教会と自分達の教義や解釈の違いが気になり始める。本当に聖女王は聖なる秩序の体現者なのか。さすがに表立ってその権威に異を唱える教派はいない。しかし、自分たちを正教などと称する教会に対して不満を持っているのは確かだろう。
一方の教会も、自分達と十三教派との違いを容認しているが、教会内部の強硬派の間では、十三教派を異端視する者も少なくなかった。諸教派の中には、イールムの国教である光翼教や、巨人王の教えの影響を受けた教派もあるために、それは無理からぬことだ。
スハイラにとって、そんな細かい教義の違いなどどうでもよいことだった。何しろ、今、彼女はただ一つの真実に仕えているのだから。
「その暴動の事もあって、リドゥワの正教派の間では、十三教派に対する警戒が広まっている。もし次に何かあれば第二軍に救援を求めることになるかもしれない」
「もちろん、何かあれば民を守るのは我々の義務だ。しかし、第二軍が出張るのは少し大袈裟ではないかな? リドゥワの守備隊で十分に対処できるだろう」
各地に駐屯する諸軍団は、本来外敵を撃退する、あるいは聖王の教えを伝道するためにいる。地方の治安維持は本来の任務ではない。勿論、大規模な反乱でも起これば軍団の出番だが、たかだか都市内の暴動鎮圧に軍団を駆り出せば、越権行為だと内務省や元老院から非難の嵐を浴びるだろう。
「リドゥワ市民は安心が欲しいのだよ。勇猛なる第二軍がリドゥワを見守っているとなれば、民は安堵し、叛徒は恐れをなすだろう。第二軍には、是非、リドゥワを訪れて市民たちを安心させて欲しいのだ。それと……」
ラアシュは、微笑むとスハイラを見つめた。それは、見る者を魅了する、甘い笑みだ。
「スハイラ殿、あなたを当家へお招きしたい。最近、腕の良い料理人を見付けたのだ。シュトゥヌーンという料理をご存知かな? ウル・ヤークスでは珍しい料理だが、これが実に旨い。是非、スハイラ殿にも味わってほしいのだよ」
シュトゥヌーンはスハイラの大好物だ。東方の竜の帝国から伝わったという“麺”と様々な野菜、羊肉、香辛料を煮込んだもので、イールム王国では近年人気であるという。しかし、ウル・ヤークスではその名をほとんど知られていない料理だった。そんな珍しい料理をラアシュが知っていることに驚く。
たまには海の見えるリドゥワでのんびりと美味しい料理を楽しむのも良いかもしれない。その時、隣にはこの男がいる。退屈しないに違いない。美しい容貌。優雅な物腰。軽妙な会話。少々年は食っているが、実にスハイラの好みだった。美食と美男。実に魅力的な組み合わせだ。本当に、魅力的だったが……。
「いや、結構だ」
素っ気無く答える。
ラアシュは、鼻白んだ表情でスハイラを見て首を傾げた。
「何かご不満でも?」
「不満があるわけではないよ。リドゥワへの巡回に関しては、数部隊を送ろう。分かるだろう? あまり大きな兵力を動かすと、州長官に叱られてしまう。私は、まだ職を失いたくないからね」
ウル・ヤークスにおいて、州知事は将軍よりも立場が上だ。任命に関して、内務省に所属する知事が軍務省に口出しすることはできないが、軍営府の行政を担う官吏や法官は知事が任命する権限を持つ。平時の将軍の立場は、あくまで一太守に過ぎない。また、知事が将軍の不祥事を軍務省に抗議すれば、それは元老院でも取り上げられることになり、将軍の立場は危ういものになるだろう。
「……ああ、確かにそうだな。では、あなたを個人的に招待したい」
「とてもありがたい申し出だが、今はここを離れるわけにはいかないんだよ。ここだけの話だが……、少し北の情勢がきな臭くなっている」
「イールム王国に動きが?」
スハイラは静かに頷いた。リドゥワにとっても、イールムは大いなる脅威だ。ラアシュの視線が鋭いものになる。
「そうか……。ならば仕方ない。スハイラ殿には、是非機会がある時にリドゥワを訪問して欲しいものだ」
「ああ、その時は喜んで伺うよ。今日はゆっくりしていかれるがいい」
「いや、仕事もたまっている。お暇することにしよう」
ラアシュは頭を振ると、立ち上がる。そして、優雅に一礼すると部屋を出て行った。
「どうやら、機嫌を損ねてしまったようですな……」
イフタートは渋面で言った。
「あれは、機嫌を損ねたのかな?」
スハイラの受けた印象は異なるものだった。そんな彼女を見て、イフタートは溜息をつく。
「お嬢様……、先程の態度ですが、格式あるイッラニフール家の令嬢として、ドゥマムヌ家の長への答えとしては如何なものかと思われますが……」
彼がスハイラをお嬢様と呼ぶのは、苦言を呈そうとするときの常套句だ。分かっているが、苛立ちを覚えてスハイラは眉根を寄せた。イフタートは、父の代からイッラニフール家に仕える宿将だ。赤子の頃からスハイラを知る彼は、いまだに自分の主を半人前の娘扱いするきらいがある。
「イフタート、私は誰だ?」
「名家イッラニフール家の長子スハイラ様です」
「私の職務は何だ?」
「栄光ある第二軍アタム・ヤグズィド・イムルの将軍です」
「そうだ、将軍だ。軍団を率いる軍人の長だぞ。いい年をした軍人を相手にお嬢様、は止せ!」
「しかし……」
「イッラニフール家は弟が継ぐ。私は一軍人としてウル・ヤークスに身を捧げるのだ」
イフタートは小さく頷くと、顎に手を当てた。
「ラアシュ殿はウトゥム・ドゥマムヌ一族の長でもあります。スハイラ様の大望のために、そして偉大なる御方のために、味方に引き入れておくべきでは?」
「あの男は信用できない」
短いスハイラの答えに、イフタートは右眉を上げた。
「信用できない……、ですか。それは、どういった根拠で仰っているのですかな?」
「女の勘だ」
「女の勘……。そうですか」
イフタートは口を噤んだ。自分の主が勘を根拠とする時、それを笑うことはできないことを彼は身を持って理解している。これまで、スハイラの勘によって救われた戦場もあった。
「イフタート、最近雇った使用人や料理人はいるか?」
「……把握しておりません。すぐに調べますが」
「急ぐ必要はない。それとなく、騒ぎにならぬように聞いておいてくれ」
「何か気になることでも?」
「……私は、先手を取られることを好まない。私の考えすぎかもしれないが、一応確認しておきたくてね」
スハイラは微笑むとイフタートと、アラムを見やった。
「言っただろう? 私はいい年をした軍人だ。夢見る乙女ではないんだよ。甘い誘惑の後ろには伏兵が隠れているものだ。彼の切った手札は、とても魅力的だった。だが、私と戦うための手札が揃いすぎていたんだよ。あまりに揃いすぎていて、それが逆に怪しく思えた。彼は、よい耳と目をもっているのでは、とね」
「なるほど……。ラアシュ様の身辺も探らせますか?」
「そうだな。ただし、慎重に、確実に。相手に気取られぬように頼む」
イフタートは厳しい表情で頷いた。
スハイラは立ち上がると、アラムに歩み寄った。
「ああ、すまないね、アラム……、愛しい人よ。随分と嫌な思いをしただろう。しかし、私は君を裏切ることはない」
笑みを浮かべ、アラムの頬を両手で包む。アラムは顔をしかめて言う。
「お止めください、閣下。公務の場でございます」
「全く、君は真面目な人だな」
スハイラは苦笑すると、彼の頬を撫でて離れた。
これまでのスハイラの恋人の中には、寵愛を得たことによって増長し、傲慢な振る舞いに及ぶ者もいた。少々のことならば若者の過ちとして許容としたが、度を越した場合、彼女の中で愛は冷める。スハイラは何より愚か者を嫌うからだ。
そんな中で、アラムは分をわきまえ、今も配下であることを忘れない。仕事に対しても真摯で、ひたむきだ。そのことは、好ましくもあったが、少し物足りなさもあった。
先刻のラアシュとの会話の中で、アラムの表情に微かに嫉妬の色が見えたように思えた。若き恋人の程良い妬心は、互いが燃え上がるための熾火となる。
色々な意味で、実に実りがある会見だった。
満足したスハイラは、笑みを浮かべたまま頷いた。
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