第28話

 そこは、周囲を山々に囲まれたすり鉢状の盆地だった。緑は一切なく、黒褐色の鈍い光を帯びた岩石が断面を曝している。不規則で不並びであるが、その造形は何らかの意思の介在を感じさせた。


 まるで円形劇場のようだな。シアタカはウル・ヤークスの街の風景を思い出していた。シアタカはこの盆地の縁から、その光景を見下ろしていた。


 無数の羽を持ったキシュが集まっていた。キシュたちは、その円形の盆地の斜面に沿って規則正しく並んでいる。それはまるで、劇場の中心にいる演者たちを見る観客のようだ。通常のキシュの半分ほどの体長の華奢な羽翅カーナトゥは、甲殻を、そして四枚の羽をこすり合わせて微かに音を発している。小さな音が重なり合い、巨大な一つの音となって盆地に響き、シアタカの体を包んでいた。


 ここは、キシュの聖地だ。


 なぜ緑豊かなこの地に、こんな不毛な大地が出現したのか。それは、何代にもわたってキシュがこの大地の岩を削り取ってきたからだ。この岩はキシュガナンにはカハーキンと呼ばれ、例えあかがねアリカリを鍛えた大鎚であろうと、欠片一つ削りとることができない。だが、キシュはキシュガナンと出会う以前の何千年も昔から、この地を大顎と酸によって削ってきたという。キシュは、この大地の奥底に何かがあると信じている。


 大いなる母の呼びかけに応じて、各地から諸族のキシュ、羽翅カーナトゥが駆けつけた。繁殖期まで巣の奥底で眠りについていた羽翅カーナトゥは目覚め、すぐさまニウガドの社まで飛来したのだ。何百という羽を持ったキシュが天を覆い尽くす光景は、一生忘れることはないだろう。


 羽翅カーナトゥは群れの目として、手として、そして話し合うための口としてこの聖地を訪れた。ここにいるのは、諸族のキシュを代表する小群だ。あくまでキシュの代表であり、キシュガナンの代表ではない。近隣の一族の中にはすでにラハシや代表としてやって来たキシュガナンたちもいたが、ほとんどの一族は今頃必死にキシュの後を追いかけているだろう。その頃にはキシュ同士の話し合いは終わっているはずだ。アシャンが言うには、ほとんどの一族のキシュが集まっただろうということだった。これだけの数の異なる群れが一堂に会したのは、この聖地においてかつてないことだった。


 外つ国に出るのか、出ないのか、キシュたちが決定するこの二つに一つの結論に、キシュガナンたちも引きずられて行くしかない。そういう意味で、ここでのキシュたちの結論が、今後の全ての命運を握っていることになる。


 シアタカたちは、アシャンの要望もあり、特別に許されてこの場所へと案内されていた。ニウガドの社の領域でも、里から外れた場所にあるこの聖地は、人間が訪れることはほとんどないという。仲間たちは皆、この想像を絶する光景を食い入るように見ている。特にサリカは、その瞳が燃え上がっていると思えるほどに輝いていた。


「この羽を持ったキシュが全てお社様に呼び出されたのか……」


 シアタカは圧倒されながら言う。


「お社様じゃないよ。大いなる母の呼びかけに応じたんだ」


 隣に立ったアシャンが答える。シアタカは彼女に顔を向けた。


「大いなる母というのは、キシュの女王なのか?」

「支配者ってこと?」

「ああ、そうだ」


 シアタカは、王に呼び出されて馳せ参じる臣下という構図を想像した。しかし、アシャンはそれを否定するように頭を振った。


「ううん、それは違うな。確かに、キシュ全体の中でも最も尊敬される『母』だけど、大いなる母が命令することはないし、命令しても他の巣のキシュは従うことがないと思う」

「だとすれば、どうしてここにやって来たんだ?」

「それは勿論、大いなる母が尊重されているからだよ。その尊き大いなる母がキシュの危機であることを説明したんだ。来ないわけにはいかないよね」


 アシャンはそう言って微笑む。つまり、あの羽を持ったキシュが各地のキシュに道理を説いて回ったということか。今一つ理解できなくて、シアタカは曖昧に頷いた。


 シアタカが得心していない様子を察したのか、アシャンは苦笑しながら言う。


「そもそも、『母』が群れの支配者ってわけじゃないんだよ。群れは全体で判断して、全体で決定するもの。『母』は子供たちを産み、群れに動きを円滑にするためにいる。あくまで、『母』も群れの一部なんだ」

「よく分からないな。人の頭のようなものなのかな」


 シアタカは自分の頭を軽く叩いた。


「そう考えると分かりやすいかも。でも、例え母が死んでも、群れは無くならない。少し混乱はするけど、やがて、新しい母が現れるんだ。しばらくは、母がいる時のような複雑なことは出来なくなるけどね」


 アシャンは肩をすくめると集っているキシュを一瞥した。


「大いなる母は、最も長く生きている『母』。その力は、多分、精霊に近いと思う。だけど、それでもキシュを支配することはできないんだよ」

「群れで一つの生き物……か。あの大勢のキシュが集まって一つの生き物というのは、人の身としてはなかなか実感できないな」

「そうだね。だから、キシュは人に興味を持った。大勢で群れ集まっていて、自分たちに似ているはずなのに真逆の人に。それぞれが自分自身の物語を持っている人って存在に惹かれたんだ」

「ああ……、『真の目をもって見よ。その者は、似て非なるもの』……」 

「何、それ?」


 アシャンの怪訝な表情に、シアタカは頷いた。


「教典の一節だ。聖王教会の聖人が出会った異教徒を指して言った言葉だよ。姿形は似ているけど、信じている教えが違う者だから、気をつけろ、といった内容だ」

「酷いな。あのシューカって恐ろしい奴が言ってたみたいなことだよね? 聖王教徒以外は人間じゃないって言いたいんだ」


 自分がさらわれた時を思い出したのか、アシャンは顔をしかめた。シアタカは頭を振って言う。


「『同じ翼あれど鷹は燕にあらず。同じ蹄あれど牛は鹿にあらず。餌を異とし、居を異とする。されど、共に天をのぞみ、地を歩む』。こう続くんだ。異教徒を排除するべきだという解釈もある。一般的なのは、色々な人間がいるから仕方がない、という解釈だ。だけど、俺に教えを授けてくれた僧は、違うことを言っていたんだ」


 殺意と絶望に支配されていたあの頃のシアタカに、優しく根気強く教えを授けてくれた僧のことを思い出す。


「それぞれ違う場所に暮らし、信じている教えの違う人間なのだから、自分と異なっていて当たり前だ。自分と同じであると思い込んで接してはいけない。しっかりと相手を見て、よく考えろ。これは、寛容と和解の教えだと言っていたんだ」


 結局、あの時の教えを活かすことはできずに、自分は信仰を強いるための剣となってしまった。しかし、今、この境遇におかれて初めて実感できたのだから、彼の教えを受けたことは無駄ではなかったと思える。


「聖王教徒にも、色々な人がいるんだね……」


 アシャンは、シアタカを見つめた。


「そうだな。今、アシャンが言った通り、それぞれが自分自身の物語をもっているんだ。俺も聖王教徒。エンティノたちも聖王教徒。ラゴだってそうなんだぞ? 同じ聖王教徒だとしても、信仰も人それぞれだ」

「うん……。人はそれぞれ違う。だから、キシュは人と共に歩むんだよ」

「俺も、もうキシュをただの蟻だとは思わない。だけど、人と同じだとも思わない。真の目で、ありのままに見て、理解しようと思うんだ」

「ありがとう、シアタカ」


 その言葉に頷くと、アシャンは微笑んだ。


 音の質が微かに変わった。


 そのことに気付いて、シアタカは盆地に顔を向けた。


「始まった」


 アシャンが言う。


「まず外側の小群が音を発してる。それに合わせて、徐々に内側の小群が音を発していくの。そして、中心まで音が達したら、正式な議論が始まる」


 アシャンの説明通りになった。盆地の縁を囲んでいるキシュが大きな音を発してから、まるでさざなみのように音が伝わっていく。


「これは儀式のようなものなんだな」

「そう。でも、ちょっと人の言う儀式とは違うかな。この場にいる全ての群れが、お互いの存在を確かめてるの。挨拶と、名乗り。それに近いかもしれない」


 規則正しく鳴り響いていた音が一瞬止まった。次の瞬間、様々な音が発せられて、響き渡った。柑橘類を思わせる匂いもあちこちから漂ってくる。


 音と匂いに形作られた壮大な演劇が始まった。




 キシュは、各々の群れの現状を説明する所から始めた。


 そして、キセの塚のキシュから伝えられたウル・ヤークスの危機を論じ始める。その戦力や脅威に、他の群れのキシュたちから怯えに似た言葉が広がっていく。


 やがて、キシュ全体が沙海へ出るべきなのか。議題はそこへと推移していった。


 アシャンは、その議論を聞きながら、大まかな内容を掻い摘んで仲間たちに通訳する。


 色々な群れから、批判的な言葉が形作られた。人と共に暮らすといっても、戦に参加する必要はない。人と交わることによって、逆に危機を招き寄せてしまった。そういった言葉だ。


 一方で、敵は強大であり、戦に参加しなければ自分たちが支配される。外の世界を知ることで新しい変化が生まれる。戦で群れの数を減らしていくことで次の繁殖期に新しい血を受け入れやすくなる。そういった反論が提議された。


 行き交うキシュの言葉。 


 やがて、議論は平行線を辿っていた。キシュはあらゆる可能性を提案し、論じ、反論を用意している。互いに音と匂いを使った複雑な議論を繰り広げていた。それは人には理解できない方向、角度から論じられ、検討されている。何千、何万という議論がここで繰り返されていた。


 途中から、アシャンは通訳を止めた。すでに人の言葉にするのは不可能な議論になっていたからだ。


 羽翅カーナトゥは、普通のキシュと比べて、複雑な音を出すことができる。そのため、高度な議論を行う能力は優れていた。それが群れの代表としてここに派遣された理由だ。だが、今回はその能力が裏目に出た。人間ならば妥協や話題の転換という方法があるのだが、キシュにはそのような概念がない。本来ならばラハシがそれを補うのだが、今はそのラハシが介在していない。ここにいる少ないラハシでは、この大勢の小群同士の議論の中に呑み込まれてしまうだけだろう。純粋なキシュ同士の議論は、果てしない迷宮へ迷い込むという結果を生んでいた。


 朝日が昇ってから始まった議論は、すでに中天に太陽を迎えても続いている。その場に立ち尽くしただ音を鳴らすキシュたちのいる光景は、異様なまでに変化がない。ここにいて感じ取れるその議論も、同じ内容を繰り返しているような状況だった。そして、キシュはそのことに何の疑問も感じていない。


「まさかこんな事になるなんて……」


 アシャンは途方にくれる。例えラハシとはいえ、こんなに多くの群れのキシュ同士の議論など、経験したことがない。こんな状況に陥るなど、想像だにしていなかった。おそらく、キシュも、大いなる母でさえ想定していなかったはずだ。そうでなければ、自ら議論の迷路に迷い込むはずがない。


「何か、違う議論に持っていかなきゃ」 

「違う議論……。キシュに新しい問題を提議するということですか?」


 サリカの問いに、アシャンは頷いた。


「キシュは自分たちの言葉に囚われてしまってるんだ。外から、違う道を作ってあげないと、延々と同じ道を歩き続けることになっちゃう」

「どうやって違う道を作るんだ?」


 アシャンは眉根を寄せると、鋭い視線で見下ろした。


「私が加わってみる」

「加わってみる? キシュの議論に参加するのか?」


 シアタカが驚いた様子でアシャンとキシュたちを見比べる。


「うん。あの議論に、私の心を繋いでみる。そして、私の意思を伝えようと思うんだ」

「馬鹿な! 人がキシュの合議に加われるわけがない! 戻って来れなくなるぞ!」


 ウァンデが声を荒げてアシャンの肩を掴む。アシャンはウァンデを見つめた。


「でも、これしかないんだ」

「お前が加わる必要なんてないだろう! ニウガドにもラハシはいる! お社様もいる! 彼らが何とかするはずだ!」

「私が言い出したことなんだよ。私が、ウル・ヤークスを観たんだ。他のラハシは、私から形を受け取っただけ。真の形を示すことができるのは、私だけなんだ」

「そんな馬鹿な……」


 きっぱりと答えたアシャンを見て、ウァンデは顔を歪めて呻くように言う。


「兄さん。このままだと、何も話は進まない。それどころか、キシュの群れ本体にこの議論が伝染して、身動き出来なくなってしまうかもしれない。これは、キシュもこれまで経験したことがない異常なことなんだよ。何とかしないといけないんだ」


 アシャンは、兄の腕を掴んで言った。キシュの為の議論だったはずが、それが病にも似た異常をもたらしてしまった。その責任の一端は自分にもある。アシャンはそう思っていた。


「他に手が、あるはずだ……」


 呟くようなウァンデの声は弱々しい。


 アシャンはシアタカに顔を向けた。自分を見つめるシアタカの表情は硬い。そこから自分を案じてくれる強烈な感情を感じて、思わず微笑む。それを口に出さないのがシアタカらしい。彼は、自分を心配してくれている。しかし、同じように自分の決意を尊重してくれている。だからこそ、何も言わないのだ。


 盆地のキシュを見下ろす。 


 キシュの議論に加わることは恐い。自分のラハシとしての能力では、あの巨大な意識の集合体に抗することができるのか、自信はない。戻って来れなくなる。兄の言葉は正しいかもしれない。自分の意識は消え去り、キシュの中に埋没する。ある意味で、ラハシとして理想的な終わり方だ。父が死に、絶望していた頃の自分なら、望むところだっただろう。しかし、今は違う。自分は、アシャンのままで生を終える。自分の為すべきことのために生きる。そう決めた。そして、ここで何もしなければ、全ては終わる。それだけは確かなことだ。終わらせないために、自分はここにいるのだ。


 恐怖に抗いながら、大きく息を吸い込んだ。絶壁の縁へ、一歩進み出る。 


「私が力になれるかもしれません」


 アシャンの前に立ったサリカが、両手を広げた。

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