第27話
山に刻まれた石段を登りきった先に、
敷石の上をキシュが歩く硬質な音が響く。
その足音がまるで楽器の鳴らす音色のように聞こえるほど、この場所は静謐に満ちていた。
敷石が敷き詰められた道の先にあるのは、苔むした巨石によって形作られた建物だ。荒々しくも直線的な造形の巨石が積み重ねられて、素朴だが存在感のある巨大な建築物を造り上げていた。この建物こそが、キシュガナンが社と呼んでいる聖地の中心地だった。
ニウガドの人々に先導されて、アシャン、ウァンデ、そしてカナムーンはここまで歩いてきた。一日がかりの儀式の後、ようやくここに来ることを許されたのだ。
アシャンは小さく溜息をつくと、額を揉んだ。頭も体もいつもより重く感じられる。一日を費やした儀式に、疲れが溜まっているのだろう。何しろ、朝から夕方まで山のあちこちを歩き、様々な儀礼をこなしてきた。体も疲れているが、気疲れも大きい。
「アシャン、大丈夫か?」
背後から届く、ウァンデの気遣う声。
「うん、大丈夫だよ。慣れないことだからちょっと疲れただけ。兄さんは大丈夫?」
アシャンは振り返ると聞いた。ウァンデは静かに頷く。どうやら、少し緊張しているようだ。アシャンは兄の傍らを歩くカナムーンに顔を向けた。
「カナムーンは?」
カナムーンは、目をくりくりと動かすと口を開く。
「我々にはもっと長い、数日におよぶ儀式がある。一日くらいなら問題はない」
「へ、へえ……、大変だね」
アシャンは引きつった笑顔を浮かべた。昨日の儀式を受けただけでも疲れ切ったというのに、それが何日も続くなど想像したくもない。
「何日も森や湿地を歩いて聖地を巡り、時には竜を狩る。そういう儀式だ。我々はこの儀式に部外者を交えることはないが、アシャンならば特別だ。全てが終わった後、招待しよう」
「とんでもない、止めておくよ」
アシャンは慌てて手を振った。カナムーンは小さく喉を膨らませて、微かに高い音を発する。その音に感じた感情は、人で言うならば笑いに似たものだった。からかわれたのかな。アシャンは思ったが、判断がつかない。兄が相手ならば悪態の一つでもつくのだが。
「さあ、こちらだ」
先導していた男が、立ち止まると言った。
手で示した先には、薄暗い巨石の門がある。
小さな明かりが幾つか灯されているために通路の輪郭は確認できたが、奥を見通すことはできない。男に促されて一行は門をくぐった。
灯火だけで照らされた通路は暗いが、キシュと繋がっているアシャンには不安はない。やがて通路の先に光が見えた。
暗闇に慣れた目を眇めながら通路を出る。
そこは、天井のない広間だった。見上げれば、生い茂る緑の間から青空が見える。広間の形は、おおよそ、巨大な円形といっていい。灰褐色の石壁には、無数の彫刻が刻まれている。複雑な模様もあれば、彫像もある。そして、その中に、ひび割れや削れにしか見えないものもあった。しかし、ラハシであるアシャンには、それがキシュが意思を持って刻んだものだと理解できた。そこに刻まれているのは、キシュガナンと、そしてキシュの長き交流の歴史だ。アシャンは興味を引かれたが、今はその彫刻を追っている時ではない。
その彫刻に彩られた壁際には、複雑な意匠が刻み込まれた杖をもった人々が並んでいる。そのうちの一人が進み出た。杖を手に穏やかな目でこちらを見るその女性は、マスマだった。マスマは杖を軽くニ度床に当てると、口を開く。
「キセの塚の者たちよ。そして、沙海を渡りしカラデアの使いよ。これよりお社様がお出ましになる」
「はい」
美しい響きを持つ独特の音韻で語られる言葉を受けて、アシャンは恭しく頭を下げた。ウァンデ、カナムーンが続く。
この広間に並ぶ者たちが、声を発し始めた。高い音、低い音、それぞれ一音を受け持っている。その美しい響きは何らかの不可視の力を持っている。アシャンは、己の肌と、キシュの受け取る感覚から部屋に満ちた力を感じ取った。
彼らの正面に続く暗がりに沈んだ通路。その奥から、キシュを伴った者たちこちらに歩んでくる。アシャンは、キシュはその気配を感じ取った。人々の声の響く中、硬質な何かが歩く音が聞こえてくる。
「お社様のお出ましである」
マスマが厳かに告げた。彼らの声が止まる。
光の中に姿を現したのは二体のキシュ。その背には小さな輿が乗っており、人が横たわっていた。それに付き添うように一人の青年が共に歩く。キシュの足並みは一糸も乱れずに進み、輿もほとんど揺れることはない。
アシャンは、輿に横たわる青年と、共に歩く青年が似た風貌であることに気付いた。傍らの青年と比べ、輿の上の青年は痩せている。しかし、それでも互いの顔立ちがあまりに似通っている。双子なんだ。キシュが嗅ぎ取った匂いから、アシャンはそう確信した。
輿の青年は、無表情のまま宙を見ている。傍らの青年が、アシャンたちを見やり、微笑んだ。
「やあ、客人たちよ。遠き所より、この社まではるばるよく来てくれたね。僕はハフヤ。こちらは兄のマイサイ。僕たち二人が、『社を司る者』だ」
ハフヤと名乗った青年のきさくな言葉に少し驚きながら、アシャンは顔を手で覆い、深々と一礼する。
「お社様。我々を社へお招きいただき、ありがとうございます」
「嵐の予兆を告げる声を無視することはできないよ」
ハフヤは微笑を絶やすことなく、輿の青年に触れた。頷くと一堂を見回す。
「皆、儀式で疲れているだろうから、手早く終わらせよう。兄さんもそう言ってる」
マスマは、ハフヤの言葉に恭しく一礼すると、カナムーンに顔を向けた。
「沙海の果てより遣われし者よ。そなたが携えしカラデアよりの言葉を述べよ」
「まずは、一族の者でも、キシュガナンの者でもない外つ国の民である私が社に招かれたことに感謝したい」
カナムーンはそう言って両手を挙げながら一礼した。そして、奇妙な発音だが流暢なキシュガナンの言葉で語り始めた。
沙海へ出征することによる費用は全てカラデア軍と鱗の民が受け持つこと。カラデアへの援軍に協力した一族には報酬を支払うこと。そういったことを時にウァンデを交えながら述べていく。
影すら見えない敵の恐ろしさを訴えるだけではキシュガナン諸族を味方にすることはできない。一族の戦士たちの命を借りるのだ。戦士たちが属する一族への利益や補償が約束されなければならない。ここまでの旅路でウァンデとカナムーンはそのことについて話し合っていた。カナムーンはカラデアおよび鱗の民の使者として大きな権限を与えられていたが、キシュガナンの風習に詳しいとはいえない。そこで、ウァンデの助言を受けて、戦の後の賠償や補償についての彼らの常識を学び、大まかな報酬を提示したのだった。
一族の寄り合いや他の一族との交渉にほとんど参加したことのないアシャンには、その辺りの機微は分からない。夜毎、焚き火の傍らで話し合われる兄とカナムーンの言葉を聞いていただけだった。
「とても前向きな提案を聞くことができて嬉しいよ。これで、我々も諸族に参加を呼びかけることができる」
ハフヤは満足そうに頷いた。そして、その顔をアシャンに向ける。
「次は君だ。大いなる母が、君の形を求めているよ」
「こちらに」
マスマがアシャンを手で導く。アシャンは頷くと進み出た。
「キセの一族のアシャン。『導く者』よ。お社様の許しが出た。そなたの形をお社様に、そして大いなる母に示すがよい」
マスマが告げ、ハフヤが手招きした。アシャンは、おずおずと彼らに歩み寄る。
「さあ、兄さんの手に触れて」
ハフヤが微笑む。アシャンは深く息を吸い込むと、寝台に横たわるマイサイの、細い色白の手にそっと触れた。
次の瞬間、アシャンの魂を意思を持った大きな力が襲った。
人とは全く異なる意思と知性。それが不可視の手を伸ばしてくるように、アシャンの魂に触れ、その形を探っている。
これが大いなる母。
その初めての感覚に畏れ慄く。
それは、他の一族のキシュと触れ合った時の感覚とは全く違う。ラハシを通じて形を受け渡しする時の感覚。それは、戸口越しに手を握り合うことにも似た感覚だ。しかし、今自分の魂に触れてくる大いなる母は違う。アシャンは思い出す。この感覚は、カラデアで黒石に触れ合った時の感覚に似ていた。あの時、シアタカが言っていた優しい心を感じることは無かったが、大きく暖かい力が全身に満ちたことを覚えている。同じように、大いなる母もその大きな力を心に、そして体に及ぼしてくる。決して暴力的な力ではなかったが、圧倒的な存在感と異質感は、アシャンの存在を脅かしていると言っても良いほどだった。人とは全く違う大きな力。しかし、一方でその力は大きな充足も感じさせる。魂の中の欠けている何かを補っていく大いなる慈しみ。このまま触れ合っていれば、自分は呑み込まれてしまうだろう。恐怖と、全てを委ねてしまいたくなる誘惑に必死で抗う。
アシャンは、大きく息を呑み、そして吐き出した。
「もう大丈夫」
ハフヤが、触れていた手をとると、体から離した。大いなる母が及ぼす力が、唐突に途切れる。解放感と喪失感が心に満ちた。
「よく頑張ったね。弱い者なら耐え切れずに気絶することもあるんだよ」
「は……、はい」
まともに言葉を発することも出来ずに、アシャンは頷いた。そのまま倒れこみそうになるが、何とか耐えた。ハフヤはアシャンの肩に手を置くと頷いた。そして、言う。
「兄さんはこう言ってる。君の形を大いなる母に示すことができた。大いなる母は、君を感じ取り、事態を理解した。次は、君自身の言葉をもって僕たちに示して欲しい」
「言葉を……、ですか? 何を話せばいいんでしょうか」
ハフヤの思いもよらない言葉に、アシャンは戸惑った。
「何でも良いんだ。君が感じたこと。話したいと思ったこと。社を司る者の前だからといって
「……分かりました」
アシャンはハフヤを見て、マイサイを見た。一切の表情が無いマイサイだが、アシャンには彼の豊かな感情が伝わってくる。その優しい心を感じ取って、深く頷いた。
沙海の暑さ。山のように大きな白い砂丘。カラデアの城壁。騒がしい街の様子。苦手だった商人との交渉。とても甘かった砂糖水。偉大な黒石とそれを崇拝する人々。自分をさらった禍々しい男たち。デソエを占領していた恐ろしい軍勢。魔物のような強さの騎士。そして、戦いの後に友となってくれた人々。全てを捨てて自分を守ってくれる人。
他愛もないことからとても大事なことまで、ゆっくりと、時につっかえながらも語った。これまで何度と無く語ったこと。あまり人に話すことも無かったこと。それらの全てを、ハフヤとマイサイに届くようにと、言葉に心をこめる。それは、まるで歌うことにも似ていた。
やがて、アシャンは語り終えた。随分長い間話していたような気がする。心身に疲れを感じて、大きく息を吐いた。
マイサイが目を閉じている。しかし、眠っているのではないことは感じ取れた。傍らのハフヤが、真剣な顔でアシャンを見つめていた。
「アシャン……、君は実に優れたラハシだ」
ハフヤがおもむろに口を開く。彼の言葉に、アシャンは苦笑すると頭を振った。
「とんでもないです。私なんて、すぐに怒るし、落ち込むし、怖がりだし。いつも、キシュに叱られてばかりなんですよ。偉大なラハシたちに比べたら、失敗ばかりの半人前です」
己を過信することがどれだけ愚かなことか、父の死で思い知らされた。ここまでの旅路で、自分の弱さに気付くこともできた。だからこそ、自分の周りにいる人たちを見習い、教えを請うことができる。その先に目指す自分がいるからこそ、そこへ歩いていけるのだ。
「どうしてキシュは人と交わり、そして外つ国に出るようになったと思う?」
ハフヤは微笑を浮かべ、問う。アシャンは急な問いに戸惑いながらも答えた。
「それは……、巣を繁栄させるためです」
当たり前すぎる自分の答えが、彼の求める言葉ではないことを感じた。ハフヤは頷くと、言葉を続ける。
「そうだ。その繁栄はどうやってもたらされるのか。……昔、大いなる母は考えたんだ。自分たちキシュの思考は、一つの枠組みを作り、それを繰り返すことには向いている。だけど、全く異なること、新しいものを考えることには向いていない。皆が同じことばかり考え、同じことしかしないのならば、予想もしなかった天変地異や病、争いが起きた時、キシュは為す術もなく、種そのものが滅んでしまう。そう危惧したんだよ」
初めて知ったはるか昔の話に、アシャンは驚き聞き入る。
「そこへ、我らの祖がこの地へ逃げ延びてきた。我らの祖は、少し風変わりな力を持っていた。その力が、キシュと触れ合うことを可能にしたんだ。キシュは、大いなる母は、我らの祖が自分たちにもたらしてくれる物に気付いた。変化と、多様さだ。自分たちと全く異なる人という種族が、全く違う考えかた、物の見方を教えてくれる。それを受け入れることで、キシュは変化していき、多様な生き方を選ぶことになるだろう。大いなる母はそう考えたんだ。そうして、キシュとキシュガナンは、共に歩くことに決めた」
ハフヤの語ることは、アシャンにとって得心の行く話だった。どうしてキシュは知りたがるのか。どうしてキシュは経験したがるのか。そして、なぜ争いが絶えないのか。それは、彼らが変化を求めているからなのだ。それによって、巣には多様さがもたらされる。はるか昔、大いなる母が望んだことを、今もキシュは望んでいる。
「そして、ラハシも皆同じである必要は無いんだ。常に心動かさず、キシュと一心同体であるラハシがいてもいい。一族と良く交流し、キシュとの仲立ちであることに努めるラハシがいてもいい。そして、君のように、心豊かで、外の世界に何かを感じ取るラハシがいてもいい」
ハフヤは、笑みと共に深く頷いた。
「は……、はい」
アシャンは震える声で答える。しかし、それ以上言葉を続けることはできない。
「我らの祖が逃れてきた、はるか東の故地アーカナでは、ラハシというのは市場のまとめ役のことだったそうだ。各地から訪れる、言葉も風習も異なる人々、そして人でない種族でさえも仲介し、結びつけた。今の君は、外つ国の人々を結びつけ、その力に助けられている。
ハフヤは、両手を顔の前にかざすと、深々と一礼した。壁際に立つマスマ、そして他の者たちも、一斉にその動きに倣う。
「導く者、アシャンよ。そなたに深い敬意を表す。そなたはキシュガナンに進むべき道を指し示した。我らは、その導きに従うだろう」
一転して厳かな声を発するハフヤ。アシャンは、目を潤ませながらその礼に応じた。
「ありが……、ありがとう、ございます」
自分の言葉が届いた。それは、アシャンにとって、何よりの喜びだった。
顔を上げたハフヤは、傍らのマイサイに触れる。頷くと、アシャンを見て、広間の一同を見回す。
「さあ、大いなる母の同意も得た。各地の一族に、協力を呼びかける使者を送ろう。すぐに諸族のキシュが社に駆けつけるだろうね」
「すぐに……? 御使いが巡るのは無理なのではないですか?」
アシャンは首を傾げる。キシュガナンの地は広く、道のりは険しい。御使いが辿り着き、その返答を受け取るには時間が必要なはずだ。
「大丈夫。大いなる母は、本当の御使いを送るからね」
ハフヤは笑みを浮かべると振り返った。
通路の奥から、奇妙な音が響いてくる。
それは、羽音だ。
羽虫が飛ぶときに発する羽音。
しかし、それにしては大きい。
暗がりから、巨大な何かが姿を現した。背に羽を持ったそれは、軽やかに宙を舞い、そして次々と広間へと降り立つ。
それは、背に羽を備えたキシュだった。しかし、普通のキシュよりも小柄で細い体格をしている。
「
アシャンは驚き、呟く。その存在は、キシュの記憶の通してしか知らない。本来ならば、繁殖期以外に姿を現すことがないキシュだからだ。
「元々、御使いの名は人が名乗るものではなかったんだ。大いなる母が遣わすこの
ハフヤは、足下に立った
「大いなる母は、
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