第26話
「よし、今日はここまでだ」
シアタカは構えていた木の棒を下ろす。
「あ……ありがとうございました」
ウィトは地面にへたり込んだ。大きく荒い息を整えようと、天を仰いでいる。
「なかなか頑張ったじゃない、ウィト」
エンティノの言葉に、ウィトは顔を向けて引きつった笑顔を見せた。
「本当ですか? いつもみたいにいい所なく終わったかと思いました」
「そんなことないわ。大分動きが良くなってる。シアタカの言うことが分かってきたみたいね」
「はい、騎士シアタカの教えはとても分かり易いです」
ウィトは、嬉しそうに頷いた。これまでの稽古の中で、確かにウィトの動きは鋭さを帯びるようになってきた。シアタカの教えとウィトの理解が今、形になりつつある。
「意外な才能だな」
ハサラトはシアタカを見て笑う。
「そうか。俺の言っていることが分かってもらえているなら、嬉しいな」
シアタカは微笑んだ。良き騎士が必ずしも良き師であるとは限らない。優れた才能を持つ人間は、自分の中に確固とした一つの基準がある。教師として優れた者は、その基準を良き物差しとして他者に教えることができる。しかし、教師に向かない者は、その基準を出発するための前提として生徒に教える。当然のことながら、その基準に触れることができない者は、教師の考える出発点に立つことすら出来ずに、その教えも理解できない。そしてもし教師が寛容でないのならば、その生徒に苛立ちを覚え、見下すことになるだろう。結果、その先に待ち受けているのは教師と生徒の断絶だ。
シアタカも、騎士団の中でそういった師につくことが何度もあった。シアタカは素質があっただけに彼らの教えに付いて行くことができたが、それでも理解できないことが度々あったのだ。客観的に見て、ウィトはまだそこまで武術や肉体的に優れているとはいえない。熟練者の基準を押し付けてしまえば、混乱し、成長は望めないだろう。今は、基礎を噛み砕いて教えて、ウィトの中に確固とした柱が出来上がった時、上の段階に進めば良い。
「俺の教えが分かり易いとすれば、エンティノのお陰だよ」
「え、私?」
突然自分の名を呼ばれたエンティノは、驚いてシアタカを見る。
「ああ。俺は人に教えることに慣れていないだろう? だから、エンティノがアシャンに教えているのを参考にしたんだ。エンティノはアシャンに丁寧に教えていたからな。俺にとって良い見本になったよ」
シアタカは、自分が頭より体と感覚で覚える性分であることを自覚している。そんなシアタカが己の中にある基準で教えてしまうと、他人には理解できずに付いて来れないことになるだろう。一方のエンティノは、体感と理性をうまく組み合わせて分かり易くアシャンに教えていた。アシャンもそれに応え、技術を身に付けている。それを見ていたシアタカは、ああいう方法があるのだと感心していたのだ。
シアタカの言葉を聞いて、エンティノは満面の笑みを浮かべる。深く頷くと言った。
「やっぱりシアタカは分かってるわね。私って、才能があるから何をやらせても上手なのよ」
「従者の骨をへし折ってた奴が何を偉そうに言ってんだよ。お前の根性を叩きのめしたマウダウ団長が一番優れてるってことじゃねえか」
「ハサラト、悔しいのは分かるけど、嫉妬はみっともないなぁ。よかったら、槍を教えてあげようか? 師匠って呼んでいいのよ」
呆れ顔のハサラトを、エンティノは上機嫌な様子で見た。その視線を受けて、ハサラトは顔をしかめる。
「だぁーれがお前を師匠なんて呼ぶか。お前に槍を教わるくらいなら、紅旗衣の騎士を辞める!」
「あんたが騎士をやめたら、ただのろくでなしね」
「なんだと? お前には言われたくねえよ」
ハサラトは、鼻で笑ったエンティノを睨みつけた。
シアタカは、彼らの言い合いに苦笑しながら上衣を脱いで汗をふく。ここ、ニウガドの社は高地にある。これまで歩いてきた他の土地と比べて冷涼で、空気も少し乾燥していた。そのため、肌を撫でる風も心地よい。この風は、どこかウル・ヤークスの高原地方を思い出させるものだった。
世話役を務めるニウガドの人々は遠巻きに彼らを見ているが、話しかけてくることはない。老人から子供、戦士までもが親しく話しかけてきたキセやカファの里とは異なるところだ。見張られているようでもある。事実、そうなのだろうとシアタカは考えていた。自分たちは隔離され、監視されている。
ニウガドの社を訪れた彼らには、里の外れの屋敷が貸し出された。それは、木造の大きな平屋で、シアタカたち一行全員が寝泊りできる広さがある。彼らの世話をする人々が屋敷の近くに常駐しており、客人たちは不自由することはない。一方で、屋敷の外を自由に出歩くことが制限されており、里の人々との交流はほとんどない。
アシャン、ウァンデ、そしてカラデアの使者であるカナムーンは『お社様』に会う儀式のために昨日からこの屋敷を離れている。置いて行かれた形のシアタカたちは、屋敷の庭で時間を潰すようにしていた。
「しかし、長い儀式だな。さすが、キシュガナンでも一番伝統がある一族だぜ。教会も、お堅いシアートの民も、ここまで典礼に時間は費やさないよな」
ハサラトは、アシャンたちが向かった里の後背にある山を見上げた。木々の間から巨岩が覗いて見えるその山に、ニウガドの社の一族でも最も尊き人、『お社様』がいるという。
「そうだな。大司教の就任式の時も半日くらいだったはずだ」
頷いたシアタカは、過去の警護の任務のことを思い出していた。あの時も随分と長い儀式だったが、さすがに一日も聖堂にこもり切りになることはなかった。
「秩序を大切にする人々なのでしょうね」
サリカは口を開くと、世話役の人々を一瞥する。
「だから、突然現れた異邦人をここに留め置いているんですよ。外つ国から来た者たちは里には全く存在しなかった要素、いわば異物です。その異物が突然入って来ることで、滞りなく
「アシャンたちは、その秩序に組み込むために一日中儀式を受けているということか?」
「さすがに、儀式の意味や意図は私には分かりかねますね。教会の儀式にも色々な意味があります。それは、聖王教会がどう世界を捉えているかということを表現する方法です。それは、ニウガドの一族も同じはずです。キシュガナンがどう世界を捉えているか。当然、聖王教徒とは全く違うでしょう。ウル・ヤークスから来た私たちには、その意味を正確に理解することはできません」
「ああ、そうだな」
「本当は私も儀式に同席させて欲しかったんです。ニウガドの社の一族は
途中で熱がこもった己の口調に気付いたのか、サリカは照れた様子で皆を見た。
「本当に、あんたはお勉強が大好きなのね」
エンティノが、溜息をつくと小さく頭を振る。
「仕事熱心だと言ってくださいね」
サリカは微笑むと首を傾げた。
「ここまでずっと一緒にいたから、アシャンやウァンデが居なくなって変な感じだな。カナムーンの妙な喋り方にも慣れちまったし」
ハサラトの言葉に、シアタカは同意した。初めは面喰ったカナムーンの異様な声や反応も、今は目や耳に馴染んでしまった。むしろ、その美しい鳥のような声や、腹に響くような低い声は、時に耳を楽しませてくれていた。
「寂しくなったんじゃない? シアタカ」
エンティノのからかう様な、探るような視線。質問の意味がわからなくて、シアタカは首を傾げた。
「何が寂しいんだ?」
「……何でもない」
エンティノは小さく溜息をつくと肩をすくめる。
それを見ていたハサラトは、苦笑しながら言った。
「しかし、まあ、アシャンも大したもんだよな。このまま、キシュガナンをまとめちまう勢いだぜ」
「そうだな。うまくいけばいいんだが……」
シアタカは山を見上げる。彼女は今、あそこで戦っている。それは、かつてキシュガナンの誰も挑んだことのない戦いだ。その戦いに自分が何の助けにもならないことが口惜しいが、剣を振るうことしか出来ない騎士など、足手まといでしかない。今はアシャンを信じて待つしかなかった。
「これでキシュガナンがまとまることになれば、沙海に戻るんですよね?」
ウィトの問いに、シアタカは頷いた。
「どういう形になるのか、それはキシュガナンたちが決めることだが、援軍として一つになるのなら、沙海に向かうことになるな」
「そうなると、戦か……」
ハサラトの呟きの後、皆が黙り込んだ。
ウィトは、気遣うようにシアタカを、紅旗衣の騎士たちを見る。
そうだ。沙海に戻れば、エンティノは、ハサラトはキシュガナンの客人ではなくなる。つまりそれは、敵と味方という立場に戻るということだ。沙海の果てからここまで、客人として迎えてくれたアシャンとウァンデの心遣いに甘えて、考えてこなかったことだったが、いずれ答えを出さなければならない。自分は、彼らと戦うことが出来るのか。
ここで口を開けば、答えを聞くしかなくなる。しかし、今のシアタカにとって、答えを聞くことは戦場に立つことより恐ろしかった。
ハサラトは、里を囲む山々に顔を向け沈黙を守っている。エンティノは、一瞬シアタカを見つめ、すぐに視線を落とした。
答えを出すことを迷っているのは、自分だけではない。それは、シアタカに安堵をもたらす。もちろん、結論を先送りにするだけだと分かっているが、彼の迷いと自分の迷いが同じものであることを感じ取ることができた。
しばらくの沈黙の後、エンティノは拳を握り顔を上げた。シアタカを見つめ、おもむろに口を開く。
「……シアタカは、私にどうして欲しいの?」
彼女は答えを求めている。迷い、先延ばしにしている自分とは違う。衝撃を受けて、息を呑み込む。
「俺には……」
シアタカは、意を決して言う。
「俺にはエンティノが必要だ」
エンティノの白い頬がみるみる紅潮していく。シアタカは、皆の顔を見回して言葉を続けた。
「ハサラト、ウィト、ラゴ。そしてサリカ。俺には皆が必要だ。俺は、皆と戦いたくはない」
今ならわかる。エンティノの笑顔も、ハサラトのからかう言葉も、自分を頼ってくれるウィトの眼差しも、それらが全て、今の自分を形作ってきた。皆の言葉が、心が、荒野を歩くための杖になってきた。彼らが一人でも欠けていれば、今の自分は全く違う人間だっただろう。それが良い運命なのか、悪い運命なのか、分からない。しかし、ここまでの道のりの先に立った今の自分は、『兄弟たち』を失ったあの時の自分から見れば、決して悪いものではないはずだ。
「俺は、戦奴だった。主人の言うままに戦場に駆り出され、戦ってきた。その時共に戦ってきた仲間は、……兄弟たちは皆、死んだ。そして、ただ俺だけが生き残った。だが、紅旗衣の騎士になって、皆と出会えた。俺は、皆のお陰でここまで歩いてくることができたんだ。そして、ここから先に進む時、その前に立つ皆を殺したくないし、……殺されたくはない。俺は……、新しい『兄弟』を失いたくない」
エンティノが目を大きく見開いた。
「俺は、アシャンを守る。そして、キシュガナンと共に戦うだろう。ウル・ヤークスにとって、俺は反逆者、背教者なんだ。だけど、俺は自分が聖王教徒であることを信じている。自分の歩んでいる道が正しいと信じている。だからといって、俺の信仰を他の人間に無理強いはできない。それは、俺が間違っていると考えるウル・ヤークスと同じ方法だからだ。刃を突き付けて服従を強いるような真似はできないんだ」
エンティノは、無言で頷いた。シアタカは彼女を見つめて問う。
「エンティノは……、どうなんだ?」
「私は……、紅旗衣の騎士。紅旗衣の騎士、なんだ……」
その言葉に力はない。その潤んだ瞳は揺らいでいる。
「ああ、そうだな……」
そこに迷いを感じて、シアタカは問うことを止めた。視線を移すと、ハサラトが無言のままシアタカを見ていた。
「わ、私は騎士シアタカにお仕えするだけです!」
この場の空気に耐えられなくなったのか、ウィトは半ば叫ぶようにして言った。
「ウル・ヤークスと戦うことになるんだぞ」
シアタカはウィトに顔を向ける。その視線を受けたウィトは、表情を強張らせて答えた。
「そこがどこであろうと、敵が誰であろうと、私は騎士シアタカに付き従い、その命に服します!」
「あまり俺を盲信してほしくないけどな。……だけど、ありがとう」
シアタカの謝意を受けたウィトは、姿勢を正して一礼した。その堅苦しい動作にシアタカは苦笑する。
ラゴが、小さく吠えた。彼を見ると、ウィトを指差して手をいくつか動かして見せる。
「自分はウィトを守るって?」
意味を読み取ったシアタカの言葉に、ラゴは激しく頷く。
シアタカは、腕組みをすると、笑みを浮かべた。そして、深々と頷く。
「ああ、頼むよ、ラゴ。ウィトは頼りないからな」
「騎士シアタカ、それはひどいです」
ウィトは、憮然とした表情を浮かべた。
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