第25話

 彼女たちは逃げる。


 二人の修道女はすでに地に足がついていない。ユハは月瞳の君に、シェリウはラハトに抱えられているからだ。その様は、まるで人攫いの二人が走っているように見える。傍から見れば異様で滑稽だが、当人たちは必死だ。何しろ逃げ延びなければ命はない。月瞳の君とラハトの走る速さは尋常なものではない。とても人を一人抱えているとは思えない速さだ。ユハは、イラマールの山野を駆ける鹿の姿を思い出していた。奇妙なことだが、人に抱えられて運ばれることに体が慣れているようにも感じられる。

 

 駆ける月瞳の君は息を切らすことなく、楽しげでさえある。一方、背後のラハトは無言で後を追ってくる。息は荒く、その口元からもれる吐息は不思議なことに青白い色を帯びていた。


 港を行き来する人々は、駆け抜ける四人を驚きながら見ている。この異様な四人は、悪い意味で目立っていた。ユハは、その好奇の視線に耐えられずに思わずうつむいた。


「ああ、もう出てきた。やっぱり持ちこたえられなかったわねぇ」


 振り返った月瞳の君が呟く。ユハが後ろに顔を向けると、倉庫の裏口からこちらへ駆け出す双顔の精霊の姿があった。


「飛んだ!」


 ユハは思わず驚きの声をあげた。


 双顔の精霊が、背の大きな翼を広げて飛び上がったのだ。


「ああ、ずるいわねぇ。すぐに追いつかれちゃうじゃない」

「来た。前に回りこまれるぞ」 


 ラハトが見上げて言う。


 翼を打ち振るい空を飛ぶ双顔の精霊は、すぐさま彼らを追い越し、そしてその前に降り立った。


 月瞳の君とラハトはすぐに立ち止まる。


 往来を行く人々は、突然空から降り立った人影に驚き、その非常識な行為を咎めようとする。アタミラでは、翼人が無闇に空を飛び回ることは戒められているからだ。しかし、その相手が翼人などではなく、異形の存在であることに気付いて悲鳴をあげた。


 双顔の精霊は無造作に腕を振るった。


 周囲の人々は、四つの腕が握る武器によって斬られ、殴られ、突き刺される。双顔の精霊は、往来に満ちた人々をまさしく切り開きながらユハたちへと迫った。たちまち、街路は悲鳴と叫びに満ちて騒然となる。


 月瞳の君は頷くとラハトを振り返った。


「よし、もっと市場の方へ逃げるわよ。人に紛れれば盾になってくれるわ」

「そんなの駄目です! 無関係な人を巻き込んでしまう!」


 逃げ惑い、倒れていく人々を見て、ユハは叫ぶ。


「仕方がないわ、こんな状況なんだから。あなたの命が何よりも大事よ」

「自分が助かる為に大勢の人を犠牲にするなんて許されません! そんなことするくらいなら、私は残って戦います!」


 ユハは、しがみ付くその手で月瞳の君の服を強く掴み、引いた。あの精霊は、自分が立ち向かって生き残れるような相手ではないことは分かっている。しかし、無関係な人々の血と悲鳴に隠れて生き残ることなど、耐えることはできない。たとえそれで生き長らえたとしても、それはユハにとって魂の死だった。


 月瞳の君は、間近にあるユハの顔を見つめた。細長い瞳が大きく広がる。


「あなたは、あの時選べなかった道を歩む為にこのを選んだのねぇ……」


 どこか哀しげな表情を浮かべ、呟いた。


「どうする、もう来るぞ」


 ラハトの言葉。嵐のように血を撒き散らしながら、精霊が真っ直ぐにこちらに向かって来る。


「川沿いを逃げましょう。まだ人は少ないから」


 月瞳の君はそう言うと踵を返した。そして、狭い道へ走りこむ。


 一行は出来るだけ人を巻き込まないため、精霊の翼を封じるために、薄暗く狭い路地を繋いで逃げた。月瞳の君がどうしてこんな細かい道を知っているのかとユハは驚く。幸い精霊はこの辺りの土地勘などないらしく、ただ愚直に一行を後ろから追って来る。


 建物に挟まれていた視界が、急に開けた。目の前に大きな川が流れている。流れる水面に、何艘もの船が浮かび、あるいは港を出入りしている。


 アタミラの東側に位置するこの港は、幾つかの運河、そして大河エセトワの支流に通じている。アタミラにおける水運の要所であり、アタミラに出入りする無数の船が行き交っていた。


 河岸を走る。


 振り返れば、路地から吐き出されるようにして双顔の精霊が跳びだしてきた。


 幾つかの角を曲がり、そして、駆け込んだ先は、道が途切れていた。目の前に広がるのは、たゆたう水面だ。月瞳の君とラハトは、跳び込んでしまわないように何とか立ち止まる。呆然と運河を見るユハとシェリウ。


 小さな船着き場らしく、道の先から川面へと、桟橋が突き出ていた。


「……ごめん。道を間違えた」


 月瞳の君が硬い表情で振り返った。


「えええっ!?」 


 シェリウが絶望の叫びをあげた。ラハトは月瞳の君を冷たく一瞥した後、背後を顧みる。


 道の角から、双顔の精霊が姿を見せた。


「何なのよ、あいつ! 本当、しつこいなぁ。いつまで現世こっちに居座る気なのよ、さっさと帰ればいいのに、もう!」

「悪態ついて誤魔化さないでください! 私たち追い詰められたんですよ! どうするんですか!!」


 精霊を見て顔をしかめる月瞳の君を、シェリウは睨み付けた。


 月瞳の君は小さく溜息をつくと、川面に目をやる。そして、ラハトを振り返った。


「乗るわよ」

「乗る?」


 頷いた月瞳の君は、運河を指差した。ちょうど、船が近付いてくるところだった。それは、帆に風をはらんだ大型の船で、荷物を満載して川を下っていく。


「あの船に乗るのよ。あんた、あそこまで跳べる?」


 挑発するような笑みを浮かべる月瞳の君に、ラハトは頷いて見せる。


「当然だ」

「ほ、本当に届くんですか、ラハトさん」


 シェリウが引きつった顔で問う。ここから船までの距離は確かに近いともいえるが、普通の人間が跳んでもとても届く距離ではない。  


「大丈夫だ。いざという時は泳げ」

「そんな……、無茶言わないでください」

「諦めなさい。ここで死ぬか。跳ぶか。どちらかしかないのよ」


 呆れた表情のシェリウに、月瞳の君は笑う。そして、ユハを見つめた。


「あなたは怖くない?」

「月瞳の君を、ラハトさんを信じています」 


 ユハは答えた。不思議なことに、不安はない。二人が助けてくれる。なぜかそんな確信があった。


「本当に、あなたっては……」


 月瞳の君は一瞬、切なげな表情を浮かべた後、再び笑みを浮かべた。


「舌を噛まないように気をつけてねぇ」


 そう言うと、桟橋めがけて駆け出す。船を見つめるその横顔が曖昧に揺らぎ、人と猫の入り混じったような容姿に変わった。


 次の瞬間。


 浮遊感がユハの体を支配した。まるで時がゆっくりと流れているように感じる。自分の体が放物線を描く初めての感覚を味わいながら、眼下に広がる水面を奇妙なまでに落ち着いた心で眺めていた。


 そして、すぐ後をラハトが続く。目が大きく見開かれ、呼吸が小刻みになる。口元から洩れだす青白い炎。全身の激しい躍動とともに、力強く踏み切る。音すら立てずに跳んだ月瞳の君と違い、ラハトが桟橋を蹴った瞬間、激しい音がした。シェリウが悲鳴をあげる。


 ふわり、と月瞳の君は柔らかに船に着地する。


 続いてラハトが船へと落下した。シェリウを抱きかかえたまま船上を転がり、帆柱に激突して止まる。


 月瞳の君がユハを優しく船上へと降ろす。ユハは、ふらつく足下に注意しながら、ラハトとシェリウに駆け寄った。


 ラハトの両腕から開放されたシェリウは、うめきながらユハに這い寄る。


「シェリウ、大丈夫?」

「し……、死ぬかと思った」


 シェリウは、強張った表情でユハを見上げた。


「泳がずにすんだな」


 立ち上がったラハトが言う。シェリウは、憮然とした表情で彼に視線を送った。


 突然の乱入者に呆気にとられていた船乗りたちは、我に返ったのか、ユハたちの元へ詰め寄った。


「何だあんた達は!?」

「こいつらどっから跳んできやがった?」

「あの川岸だ!」

「馬鹿野郎! あんなとこから跳べるわけないだろうが!」


 ラハトが彼らの前に立ち塞がる。船乗りたちは、妖気漂うラハトの金色の瞳に気圧されたのか、立ち止まり口を噤んだ。 


「あんた達、怪我したくなかったら、少し離れていてくれる?」


 傍らに立った月瞳の君が微笑む。その顔が揺らぎ、人と同じ大きさの猫のものに変化した。その猫頭人身という異様な姿に、船乗りたちは驚きの声を上げて後退る。


「やっぱり、見逃してくれないわねぇ」


 月瞳の君は、猫の顔のまま言った。その視線の先には、翼を羽ばたかせて見る見る迫ってくる双顔の精霊がいた。


「こうなったら、根比べね。あいつが消えるのが先か、私たちが殺されるのが先か」


 そう言って、溜息をつく。


「その小さな爪じゃあ、引っかき傷もつくれないわよ。あいつには、力を帯びた武器しか通用しないもの。こいつを貸しておくわ」


 ラハトが鞘から抜いた短剣を指差して、月瞳の君は言う。そして、どこから取り出したのか、ラハトに娘の姿の時に着けていた髪飾りを手渡した。ラハトが受け取ると、それは手に巻きついて手甲のような形に変じる。


「武器になるように念じて。呪眼の力を巡らせるみたいに、静かな闘争心と、冷たい殺意を形にするのよ。これはあんたの体の一部。意志の具現。腕となり指先となり、力を揮う」


 自分の手をじっと見つめていたラハトは、月瞳の君の言葉に頷く。


 手甲が伸びていく。そのまま、拳から刃が生えているような形となった。その刃は、焼きを入れたばかりの鉄のように、鈍く蒼い光を放っている。


「いいわねぇ。自分の本質を純粋に武器にした形。分かってるじゃない。宝石をちりばめた剣なんて作ろうものなら、取り上げようと思ってたのよ」


 月瞳の君は満足そうに頷くと、両手を打ち合わせた。そして開いた両手に長い棒が握られている。それは、先端にまるで獣の爪のような、三日月のような弧を描く刃を備えた長柄の鎌だった。それを一振りして、月瞳の君は大きく溜息をついた。


「ああ、嫌だ、嫌だ。戦いなんて私のすることじゃないのに」

「街でユハをさらった時は何だったんですか?」 


 シェリウが尖った声で問う。月瞳の君は首を傾げてシェリウを見た。


「何のこと? ……ああ、あれはちょっと遊んだだけよ。子猫と戯れることを戦いなんて言うの?」

「シェリウ。こいつに恨み言を言っても無駄だ」


 絶句するシェリウにラハトが言う。そんな彼らを気にすることもなく、月瞳の君はラハトに顔を向ける。


「さあ、来たわよ。死ぬ気で頑張りなさい。それは、貸しただけ。ちゃんと後で返すのよ」


 ラハトは頷いた。口元からもれる青白い炎が尾を引いて微かに軌跡を描く。ユハは、彼の全身を駆け巡る禍々しい力を感じ取って思わず口を開いた。


「ラハトさん、体は大丈夫なんですか?」

「大丈夫だ」

「でも……」


 ここにいても感じ取れる恐ろしい力は、まるでラハトを滅ぼそうとしているようにさえ感じられる。ラハトは、ユハの言葉を手で遮ると、双顔の精霊を指差した。


「今は俺のことを心配している場合じゃない。生き延びられるか。それだけを考えろ」

「そういうこと。他人の心配をしてる場合じゃないわよぉ」


 月瞳の君は頷くと、船尾に立った。その少し後ろにラハトは立つと、顔だけをシェリウに向けた。


「シェリウ。“盾”を頼む」

「はい!!」

「私はどうすればいいですか!」


 ユハは拳を強く握り進み出る。月瞳の君は振り返ると優しい声で言う。


「あなたの出番は今はないわ。危ないから隠れていてねぇ。きっと、生き延びればたくさん働いてもらうことになるから」


 確かにその通りだ。ユハは己の空回りした意気込みを恥じた。戦いの場所に自分が立っていても足手まといになるだけだろう。魔術に長けたシェリウとは違い、自分はただの癒し手だ。戦いを終えた後に、彼らを助ける。それが自分の役割だ。


「来るぞ」


 鋭いラハトの一声。


「……贖罪せよ、災厄の主」


 声ではない声が頭の中に響く。大きく翼を広げた精霊が船尾に迫った。





 飛来した精霊が剣を、戦鎚を振りかざす。その異形を目の当たりにして、船乗りたちが悲鳴にも似た叫びを上げた。


 月瞳の君が威嚇の声を発しながら鎌を振るう。それは、精霊の剣をまともにぶつかり合った。


 凄まじい金属音とともに、月瞳の君の体が大きく仰け反る。一方の精霊は勢いを減じることなく上空を通り過ぎた。


「ああ、腕が痺れた」


 月瞳の君は顔をしかめると鎌を肩に担ぐ。ラハトは空を見上げて精霊の動きを追った。旋回してすぐにこちらを向いている。その速度を計りながら、己の中の呪力を増していく。


 再び双顔の精霊が飛来した。


 繰り出された短槍を鎌が受け流す。


 ラハトが跳んだ。


 飛ぶ精霊の高さまで達すると、腕を、そしてそこから伸びた剣を振るう。


 精霊が盾でその一撃を受け止めた。同時に剣を繰り出す。剣尖が落下していくラハトの額を削った。ラハトは倒れこむようにして着地する。


 再び離れた双顔の精霊を見上げて月瞳の君は唸った。


「ああ、もうやり難いったらないわねぇ」

「ラハトさん、大丈夫ですか!」


 ユハとシェリウはラハトに駆け寄る。ラハトが頷きながら立ち上がる。深く切り裂かれた傷から血が流れ出していた。大きな衝撃が頭を揺さぶったが、虎の瞳の力が彼に昏倒することを許さない。


「ごめんなさい、私が“盾”を出しておけば……」

「仕方がない。戦いの経験が乏しいお前には、俺たちの動きに合わせるのは難しい。それより……」


 悔しげなシェリウの言葉にラハトは頭を振る。そもそも、今のラハトや月瞳の君の動きは並の人間にはついていくことはできない。熟練した戦呪使いでも難しいだろう。シェリウが反応できなかったのは当然のことだ。ラハトは、鋭い視線を空に向けた。


「俺たちを餌にする。飛んできた奴の目の前に盾を浮かべてぶつけてやれ」


 その言葉に、シェリウは驚きの表情を浮かべた。月瞳の君は笑みを浮かべる。鋭い牙が覗いた。


「あんた、面白いことを思いつくわねぇ」

「馬鹿正直に相手してやる必要はない」

「その通りね!」


 猫顔で満面の笑みと共に頷くと、月瞳の君は上空の精霊を挑発するように鎌を頭上に掲げて見せた。


「出来るな、シェリウ」 

「はい! 必ず!」


 シェリウは答えると、睨み付けるようにして空を見上げる。双顔の精霊が再び舞い降りてくる。


 精霊は凄まじい速度で彼らに迫った。それは、獲物に狙いを定めた猛禽の飛行そのものだ。手にした武器の切っ先を連ねて矢のごとく風を切り裂く。


 大きな声で聖句が響いた。


 ラハトと月瞳の君の眼前で、襟巻きスカーフが舞い上がり、広がる。


 赤い光が巨大な波紋のように光った。


 凄まじい衝突音。


 まるで自身が衝撃を受けたかのようにシェリウが仰け反る。苦痛のうめきを噛み殺しながら、シェリウはその場に跪いた。ユハは悲鳴のような叫びをあげる。 


「シェリウ!」

「大丈夫」


 歯を食いしばるシェリウの鼻から、一筋の血がつたった。


 魔術の盾に激突した精霊は、船の上に落下して動きを止めていた。そこへ、ラハトが、月瞳の君が飛び掛る。


 鎌の刃が精霊の首に食い込む。


 その瞬間、精霊が跳び起きた。


 首筋から銀色の血を撒き散らしながら立ち上がると、戦鎚を振るう。


 鎚頭が月瞳の君の肩を打った。激しい衝撃に倒れこむ。


 しかし、同時にラハトの刃が精霊の腕を切り落とした。短槍を握った手が宙に舞い、銀色の塵となって形を失う。反撃の剣をかいくぐり、さらに刃を突き出した。しかし、その切っ先は盾に阻まれる。


 仰け反る。 


 鼻先を剣が掠めた。


 まだ足りない。もっと速くだ。


 呪力を急きたてる。


 口元から青白い炎が噴き出す。


 引き戻される剣よりも速く懐へ跳び込む。


 拳を繰り出した。そこから伸びる刃が左側の顔へ突き刺さる。


 左目に刃を受けながら、精霊は戦鎚を払った。


 顔めがけて迫る戦鎚へ、左腕を打ち当てる。


 骨がへし折れ、腕が折れ曲がる。


 拳を返し、さらに突く。


 首筋に突き刺さった。捻じ込み、切り払う。


 次の瞬間、盾がラハトの腹に叩き付けられ、その体は宙を舞っていた。


 船上に積まれていた箱に激突すると、板を突き破って体がその中へと埋もれてしまう。


 狭まった視界の端で、月瞳の君の鎌が精霊の体を切り裂くのを見た。





 

 跳び込んだ月瞳の君が鎌を振りぬいた。刃が、精霊の体を斜めに切り裂く。


 次の瞬間、凄まじい速さの斬撃が月瞳の君の肩を切り払っていた。月瞳の君は背後に吹き飛ばされるようにして倒れる。 


 双顔の精霊は、大きく翼を広げ、周囲を睥睨した。それはまるで、己の勝利を宣言しているかのようだ。


 ラハトのつけた傷、月瞳の君のつけた傷から、銀色の細かい塵がまるで風に巻き上げられるようにして噴出し、そして宙に消えていく。満身創痍だったが、今だ現世から消え去る兆候はない。


 手向かう者がいなくなった精霊は、ユハに顔を向けた。


「ユハ! 逃げて! ここはあたしが喰い止める!!」


 シェリウの金切り声。それは無理だ。ユハは絶望と恐怖に襲われながらも、冷静に思った。ここは船の上。どこにも逃げ場はない。例え川に飛び込んだとしても、あの精霊は逃がしてはくれないだろう。


 私はここで死ぬ。


 静かに告げる声。


 諦念と、それに抗う獰猛な声。


 私は絶対に死なない。


 我が敵を滅ぼすのだ。


 魂の奥底から湧き上がってくる怒りの声は、ユハの体に力を満たした。





「自由になるためには、己で鎖を断ち切るしかない。あなたが教えてくれたことです」


 優しい笑顔で、その青年は彼女を見つめた。


「救い手を待っていても駄目だ。たとえ愚かな道を選ぶとしても、人は己の足で歩まねばならない。あなたはそう言った。だから妹は、そして俺は、鎖を断ち切り、歩き出すことにしたんです」


 黒衣の青年は彼女の手を取り、立ち上がらせる。


「だから、あなたも歩き始めましょう。今は辛いかもしれない。……だけど、その先に必ず光はあります」





 悲しく優しい記憶が、静かな声を、そして獰猛な声を沈黙させる。


 魂から溢れる力は、導かれ、形を成していく。


 ユハの手には、一本の杖が握られていた。 


 それは、簡素なただの木の杖だ。しかし、そこから発せられる力は、周囲の生き物を、そして無機物までをも細かく震わせる。


 双顔の精霊が、凄まじい速さで踏み込んだ。


 そっと、杖を差し出す。


 迫る剣尖と交差した瞬間。


 空気が眩く爆発した。


 ユハと精霊を中心として光を帯びた烈風が巻き起こる。


 船上に立っていたものは皆耐え切れずに倒れる。その烈風によって帆は大きく風をはらみ、船は速度が増した。


 吹き荒れた風が力を失い、光が砂粒のように散り散りになった後、そこに立っていたのはユハだけだった。


「助かった……?」


 シェリウが、顔を上げて呟く。


「うん。私たち、生き延びたよ」


 ユハは微笑む。その手に杖はもうない。かわりに、シェリウの手を取る。


「ユハ……、あなたの力なの?」


 立ち上がったシェリウは、呆然とユハを見つめる。ユハは頭を振った。


「私の……、ううん、力の欠片のおかげよ」

「本当に、あなたはユハ?」 


 シェリウの表情は微かに揺らいでいる。そこに畏れや不安を見て取ったユハは小さく頷いた。


「正直言って、私にも分からない。力の欠片が、私という存在のどれだけを占めているか、分からないの。……だけど、私はユハ。イラマールの修道女。それだけは確かなことよ。だから、シェリウ。私を見守っていてね。私が私で無くなりそうな時に、教えて欲しいの」


 そう言って、シェリウの手を握る。シェリウは、大きく目を見開き、そして、喜びの表情で頷いた。


「ちょっとぉ、私のことは無視するの?」


 弱々しい声に、ユハは慌ててそちらに顔を向ける。


「月瞳の君! 大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないわよぉ。ああ、痛い……」


 月瞳の君が上体を起こす。その顔は、若い娘のものに戻っている。右肩から胸にかけて、大きな刀傷があった。そんな大きな傷でありながら、不思議とほとんど出血はない。月瞳の君は、顔をしかめながら、のろのろと立ち上がった。


 木が軋み、割れる音に振り返る。


 振り返れば、木箱の中からラハトが出てくる所だった。


「ラハトさん!」

「勝ったんだな」


 ラハトはユハを見つめた。その目から金色の力は消えうせている。


「はい。もう精霊はいません」

「そうか……」


 頷くと、ユハたちに歩み寄る。その足取りが、心なしか乱れて見える。


「夕飯までには帰れそうにないな……」


 遠ざかる街を見ながら、ラハトは呟く。次の瞬間、膝から崩れ落ちた。


 ユハは驚きの声を上げながら駆け寄る。シェリウもそれに続いた。


「すごい熱!」


 意識を失っているラハトの額に手を当てたユハは、火傷を負いかねないその温度に驚く。


「きっと、虎の瞳のせいだ」

「虎の瞳って?」

「さっきまでラハトさんの体を巡ってい呪眼の力の事よ」


 シェリウは顔を上げるとユハに言った。


「虎の瞳は、人の命を燃やして力に換える術法だから、今もラハトさんの中で力を燻らせているんだ」

「こいつ、ちょっと無理し過ぎたみたいねぇ。このままだと、死んじゃうかも」


 歩み寄った月瞳の君が、ラハトを覗き込んで言う。


「死ぬ!?」

「そう。呪いの力は燻ってるどころじゃないわ。まだ燃え続けている。このまま、こいつは命を燃料にした、生ける松明になっちゃうわねぇ」 

「そ、そんな」


 月瞳の君の恐ろしい言葉に、愕然とする。


「駄目な男ねぇ、肝心な所で眠っちゃうなんて……、嫌われちゃうわよ」


 そう言った月瞳の君だったが、その顔は苦痛に耐えているのか歪んでいる。深く眉間に皺を寄せたまま、ユハに顔を向けた。


「まさか、あなたに助けられるとはねぇ……」


 微かに笑みを浮かべる。そして、その場で膝を突いた。


「月瞳の君!」

「やっぱり、駄目だ。もう疲れた……」


 答えるその声は弱々しく、小さく消えていく。


「ちゃんと治してよ……、ユハ」


 月瞳の君は、ユハの名を呼んで意識を失った。次の瞬間、そこには血塗れの縞柄の猫が倒れている。


 一瞬、恐慌に陥りそうになるが、深く息を吸い込んで自らを落ち着かせる。顔を上げると、シェリウと目が合った。シェリウは深く頷く。 


「ユハ、あんたは、月瞳の君の傷を癒すことを優先しよう。ラハトさんは、まず体を燃やしている呪いを鎮めないといけない。先に私が鎮呪をするから、その後でユハが怪我を癒して」


 冷静なシェリウの言葉に、自らも心が静まっていくことを感じる。ユハは、小さな猫の体を見て、再びシェリウを見た。


「でも、使徒を癒すことなんてできるのかな」

「肉を具えた精霊なんだから大丈夫。自分を信じて、ユハ。あんたなら出来る!」


 シェリウの力強い声が、ユハの心を励ましてくれる。


 そうだ。自分を信じるのだ。


 私は、彼らを助ける。


 ユハは、胸の前で手を組むと、力を巡らせた。そして、月瞳の君の体に触れる。


 力を送り込んだ。


 繰り広げられた人外の戦いに恐れをなして、船乗りたちは遠巻きに彼女たちを見守っているだけだった。

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