第20話

 何も変わることなく、日常が過ぎる。


 ユハとシェリウは、離れの裏庭で汗をかきながら木々や草花の手入れをしていた。出来るだけ人目につかないように言われているが、ここなら屋敷に出入りする人々の目に留まることはない。


 裏庭といえど、この庭園も庭師たちが粋を尽くした美しい場所だ。大きな木が葉を繁らせ、色とりどりの花々が緑の間を彩る。ユハたちは庭師たちの仕事を邪魔しようとは考えていないため、ただ、庭園を清掃し、維持することだけに努めていた。


 ユハは、丁寧に一本ずつ傷んだ木や花を癒していく。植物を癒すのは人とは違うが、同じ命であり、共通している点も多い。また、その違いを知ることで人の体を癒す助けにもなる。今の自分はより少ない力で効果的な癒しの術を施せるようになっている。ユハはそう感じていた。


 自分の中にある力の欠片に出来るだけ頼りたくない。ナタヴに分かたれし子の真実を聞かされてから、その想いが生まれていた。もちろん、自分の癒しの力が、どこまで力の欠片に拠っているのかは分からない。それは、自分の中から欠片を引き剥がしてみなければ分からないことだろう。しかし、ユハという存在と力の欠片は魂の奥底で複雑に絡み合い一つになっており、引き離すことなどできない。結局、不可能なことに悩んでも仕方ない。ユハはそう割り切って、自分のできることを磨き上げていこうと考えていた。それは、老師ヘダムに教わったことだ。ヘダムもおそらくユハの中に力の欠片があることを知っていたに違いない。だからこそ、その力を抑え、磨き上げることを教えてくれたのだ。


 この美しい庭園に豊穣の祝福を施すことで、もっと豊かにできるのに。ユハは植物の栄養状態を感じ取りながら思った。しかし、ユハは豊穣の祝福をかけることはできない。大地の力を導き、土地を豊かにして草木を実らせるその術法は、癒しの力とはまた異なるものだ。己の実力不足を怨みながら、痛んだ草花の癒しと手入れを続けた。


 黙々と仕事に集中していたユハは、甘い鳴き声に気付いて辺りを見回す。茂った低木の葉の陰から、縞柄の猫が姿を現した。


 ユハは笑みを浮かべると、その場に屈みこんだ。舌を鳴らし、指を動かす。猫はもう一鳴きすると、ゆっくりとユハに近付いた。


「あら、あなた、前にどこかで会った?」


 どこにでもいる猫。しかし、どこかで見た覚えがある。ユハは、足に顔を擦り付けてくる猫の喉を撫でた。


「ユハ、どう、進んでる?」


 シェリウの呼びかけに振り返った。シェリウは、ユハの足下の猫に気付いたのか、目を瞬かせる。


「あれ……、猫だ。このお庭だと初めて見るわね」

「うん、この子、どこかで見たことあるような気がするの」

「よくいる柄じゃない」


 ユハの答えに、シェリウは、肩をすくめた。


「そうだね。気のせいかな」


 縞柄の猫など、アタミラのどこにでもいる。尾が曲がっていたり、耳が欠けているといった特徴があるわけでもない。確かに、自分の思い違いだろう。猫の額をつまむように撫でながら、ユハは頷いた。


「ユハ! シェリウ!」


 二人を呼ぶ声。建物の向こうから、アティエナが笑顔で歩いてくる。三人の使用人の娘を連れていた。


「アティエナ様」


 ユハは立ち上がるとアティエナを迎えた。


「二人とも何をしてるの?」

「お庭の手入れです」

「本当、勤勉なのね」


 アティエナはくすくすと笑う。


「アティエナ様。ここでお茶にいたしましょうか」


 背後の使用人が言った。アティエナは振り返ると頷いた。


「いいわね! そうしましょう」


 使用人の娘たちが慌しく用意する。木陰に大きな敷き布をひき、茶や菓子を並べた。五人の娘は、それを囲んで座る。


 鳴き声をあげながら、縞柄の猫が、腰を下ろしたユハの膝の上に乗ってきた。


「まあ、人懐こい子ね」


 アティエナは、猫の頭に手を伸ばして微笑んだ。ユハは彼女に聞く。


「お屋敷の猫ですか?」

「ううん、うちでは猫は飼ってないわ。どこからか入ってきたのかな」


 アティエナは答えると首を傾げた。


 聖女王は、猫をとても愛していた。自らの足の上で眠る何匹もの猫を起こすことが忍びなくて、猫たちを抱いたまま説法をおこなったという逸話が残っているほどだ。そのためか、聖王教徒にも猫を愛する者は多い。ユハも同じく猫を愛する者だ。聖女王の逸話と同じく、猫はいつの間にかユハの足の上で眠りについていた。


 大樹の木陰に涼やかな風が吹いた。


 茶や菓子を手にして、他愛もない話をして笑いあう。説話や教典について真剣に議論を交わす。これまで通りの日常だ。これが、いつまでも続けることができない偽りの幸福であることは分かっている。しかし、何もできない今、自分はこの幸福を演じるしかない。


「ユハ、シェリウ。聞いて欲しいことがあるの」


 アティエナが、表情を改めると切り出した。そのただならぬ様子に、ユハは彼女を見つめて頷く。


「あなた達とすごした日々は、とても楽しかった。私は……、あなたたちにずっとここにいて欲しい。でも、それは、きっと二人の為にならないことなのだと思う。あなたたちは、西風と海鳥。小さな思惑で縛りつけ、こんな世俗の牢獄に閉じ込めてはいけない。あなた達は、解き放たれなければならない」

「アティエナ様……」  


 別れ難い想いは自分も同じ。そう言いかけたユハは、アティエナを見て口を噤む。寂しげな表情を浮かべたアティエナだが、その瞳には決意の光が輝いていた。シェリウを、そしてユハを見つめて言う。


「あなたたちをアタミラから逃がします」

「え……?」

「明後日、園遊会を催すの。あなたたちは、侍女として、私たちとアタミラを出ましょう」


 アティエナは驚く二人に詳しい説明を始めた。


 アタミラ郊外に土地を持つアティエナの友人が、そこで園遊会を催すことになった。明後日、アティエナも、そこに出かける。その際に、侍女が身代わりとなって屋敷に残り、ユハたちをアタミラから連れ出す。早朝に屋敷を出るために ユハたちが見咎められることはない。迎えに来るのは友人が手配した者たちであるので、ユハたちには気付かない。二人は、園遊会の会場からそのままイラマールへ旅立てばよい。


 アティエナの説明を聞いて、ユハは思わず傍らに控える三人の娘たちを見た。


「アティエナ様、身代わりになってもらっては、この方達に迷惑がかかります」

「いいえ、聖女さま。……ああ、聖女さまと呼ばれることがご迷惑なのは分かっています。だけど、敬意の証として、どうか、そう呼ばせてください」


 使用煮の一人が、身を乗り出すとユハの手を取った。


「私たちは、あの別荘で、死に掛けました。だけど、あなたの献身と奇跡によって命を救っていただきました。だから、ご恩を返すためにこんなことは何でもないのです」


 使用人の一人が、はっきりとした口調で答えた。他の娘たちも決意に満ちた表情で頷く。


「でも……」

「ユハ。全て、私が命じたことにするわ。私の言うことを聞かないと、首にしてしまう。私がそう脅したことにするの。この子たちには何の咎も及ばないようする。だから、安心して」


 アティエナが微笑んだ。


 その答えを聞いても今だ躊躇うユハの肩に、シェリウが手を置いた。そして、使用人たちを見回し、手を組んで深々と一礼する。


「あなた方のご厚意に深く感謝いたします。善き心をもった善き信徒である皆様方に、聖女王の祝福があらんことを」


 シェリウの言葉に、アティエナが、使用人たちが恭しく祈りをささげる。


 ユハも、それに続くしかなかった。




 出発の日はすぐにやってきた。


 ユハたちは、アティエナに従う三人の使用人のうち、背格好の似た二人と入れ替わることとなった。念のために、ユハとシェリウは、シアート人の化粧を施されている。使用人がするにしては少々濃い化粧だったが、普段化粧をしない二人に施したことによって、まるで別人のような顔になった。


化粧イフーム……。確かに塗り彩るイフーマナール……、だね。まるでシェリウじゃないみたい」


 ユハは、化粧を施されたシェリウの顔をまじまじと見つめた。


「あんたは随分と大人っぽくなったわね」


 笑いをこらえるようにシェリウは口元を押さえる。


「何? 私は子供っぽいって言いたいわけ?」

「違うの?」

「私は大人です」


 ユハが憮然として答えると、シェリウは口元を押さえたまま無言でうつむいた。


「二人とも、素敵よ。修道女に化粧を勧めるのはあまり良くないかもしれないけど……」


 アティエナが二人を見やりながら言った。


「二度とない機会でしょうから、こういう体験もいいものですよ」


 シェリウは、顔を上げるとアティエナに微笑んで見せた。


「それではお二人とも、後はよろしくお願いします」


 ユハとシェリウは、部屋に残る二人の使用人に一礼した。使用人たちも、それに応じる。


「道中の無事をお祈りしております」

「ありがとう」


 ユハは、もう一度深々と一礼した。


 身代わりとなる娘二人を部屋に残して、屋敷を出る。薄暗い廊下を歩き、門を出る時にはひどく緊張したが、誰もユハたちには気付かなかった。


 屋敷の前では、何台もの馬車が待っている。それに付き従っている騎兵たち。皆、身なりのよい女性の兵士たちなのが印象的だった。シアートの子女を守るために特別に編成された兵士なのだという。


 園遊会のための手荷物とは別に、ユハたちの私物も鞄に詰め込んで運び出している。当然ながら路銀は必要なので、ナタヴから受け取った金貨、銀貨が入っている。これほどの大金を持ち歩くことは恐ろしくもあったが、なければ生きていけない。旅路においては、気付かれないように隠し、大事に使っていくしかない。そして、シェリウが密かに作成した雷の種も布に包んで二人で分けて持っていた。いざとなれば、これが大きな武器となるはずだ。


 屋敷を振り返る。


 ここで、自分は大きく変わることができた。屋敷は今や牢獄となり、そこから逃れるためにこうしている。しかし、短い間だったが、この屋敷で自分は穏やかな日々を過ごし、そして自分の魂と向き合うことができた。屋敷の優しき人々の思い出と共に、一生忘れることはないだろう。


 ユハは、小さく頭を下げた。シェリウがユハの肩に手を置き、小さく頷く。


 そして彼女たちは、馬車に乗り込んだ。


 静まり返った街路に馬たちの鼻息と、人々の囁き声が響いている。


 やがて、街路を蹴りつけて、馬車が走り始めた。





 市場の朝は早い。


 未だ日が昇らぬうちから人々は店を開け、商品を並べ始める。すでに港から陸揚げされた荷が、騒々しい騾馬車に積まれて次々と運び込まれてくる。乱暴な人夫たちが下ろす荷の音と、それを注意する商人たちの怒号が響いた。 


 ヤガンは市場の朝の空気、雰囲気が好きだった。静まり返っていた街がにわかに騒がしくなり、人々が動き出す。この、一日の始まりとでもいうべき大きな流れが、目の前で具体的に形になったように思えて、なぜだか心弾むのだ。


 今日は、商談のために市場を訪れている。


 東部出身の商人である今日の客は、黒い人ザダワフだった。とはいえ、ルェキア族やカラデア人ではない。かつて、南洋を越えてウルスの土地“豊穣なる河の辺”に連れてこられた奴隷たちの子孫だ。当然ながら、生まれも育ちもウル・ヤークス王国である彼は、気質で言えばウルス人に近い。しかし、彼ら奴隷の子孫たちはその肌の色からいって王国では少数派だ。東部地方で独自の共同体を作り上げており、ウルス人とは異なる文化をもっている。そのため、同じような肌の色を持ち、異郷で奮闘するヤガンに共感を覚えているらしい。気の良い男であり、ヤガンも彼を気に入っていた。


 相手が多忙のため、朝から商談をまとめ上げなくてはならない。その為、こうして早朝から市場を歩いているが、この空気が好きなヤガンは、特に苦には思わないのだった。


 ヤガンの傍らを、ラハトが共に歩いている。今のラハトは、ハトゥシィ人の姿ではない。ヤガンに雇われた使用人の姿だ。


「どうしたラハト」


 しばらく先を歩き、傍らにラハトがいないことに気付いたヤガンは、怪訝な表情で振り返る。


「妙な流れが観える」


 立ち止まったラハトは、少しに視線を上げ、何かを探すように辺りを見回していた。


「妙な流れ? どういう意味だ?」 

「俺たちは、今、大きな力の中にいる……」

「力? 俺たちに何かまじないがかけられてるっていうのか?」


 ヤガンは慌てて自分の体を見た。ラハトは静かに頭を振る。


「いや、そうじゃない。市場全体に観たことのない力がはしっているんだ」


 いつもとは違うラハトの様子に、ヤガンは警戒心が騒ぐのを感じた。無表情なラハトだが、どことなく緊張しているようにも感じる。


「導かれている……? いや、追い立てられているのか……?」


 ラハトは呟くと、微かに首を傾げ、やがて一点を見つめた。


 突然、市場の一角が騒がしくなった。そこは、羊や驢馬、駱駝といった家畜を商う店が並んでいる。そこから、騒ぐ家畜たちの大きな鳴き声と、それに狼狽する人々の声が響いてきたのだ。


 それは、まさしく狂乱というべきものだった。


 繋がれた家畜たちは、互いに体をぶつけ合い、暴れ、鳴き声をあげる。狼や獅子に追い詰められてもここまで騒ぎはしないだろうと思わせるような混乱振りだ。家畜たちは根源的な何かを刺激されて騒いでいる。ヤガンは直感的にそう感じた。


 騒ぎを聞きつけた人々が集まってくる。


 すぐに、家畜を繋いでいる縄や杭が耐えられなくなった。


 次々と、頸木を脱した羊や驢馬が駆け出していく。取り囲んでいた人々は、悲鳴をあげながら慌てて逃げ出した。そして、駆け出す大群がさらに他の家畜の縄を引きちぎり、杭を踏み倒して解放していく。次々と増えていく家畜、そして、押し寄せてくる群れから逃れようとする市場の人々。こうして、家畜と人間たちは渾然とした凄まじい奔流となって市場から街路へと溢れ出していく。


 ヤガンは、巻き込まれないように慌てて壁に張り付くようにして逃れた。


「何だってんだ、おい……」


 混沌としたこの状況に、ヤガンは思わず呟く。遊牧の民でもあるルェキア族としては、この家畜の暴走はある意味で破滅的な光景だ。散り散りになった駱駝の群れを必死で呼び集めた同胞の悲惨な話を思い出してしまう。幸いなことに、カラデア育ちのヤガンはそんな悲劇を経験したことはない。


 ラハトは、呆然としているヤガンに顔を向けると言った。


「行ってみよう」

「おいおい、どこに行くっていうんだ」


 ヤガンは声を上げるが、ラハトは答えることなく早足で歩き出す。向かうのは、家畜の大群の行き先だ。


「くそったれ! 何なんだあいつは!」


 舌打ちをすると、その背中を追った。

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