第19話
ナタヴ邸での、これまでどおりの穏やかな日々。
アタミラに戻ったユハたちを待っていたのは、別荘に向かう前と何ら変わりない日常だった。時折部屋を訪れるアティエナとお茶を飲み、歓談する。異なるのは、透明な牢獄に囚われていることだ。衛兵たちは穏やかな笑顔で静かに彼女たちの外出を阻む。懇願も説得も功を奏すことはない。
ユハとシェリウの髪は長く伸びてしまった。傷んだ僧衣も仕舞い込んだままだ。今や、自分たちが修道女である証は何もないのだ。安穏な日々が、己の拠り所である信仰すらも薄れさせようとする。
ゆったりと流れる日常の中で圧し掛かってくる焦燥感。しかし、ユハたちは、それを解決することができないでいた。
二人に与えられた大きな部屋。
その一角で、シェリウは並べた壷のうちの一本に、液体を注ぎ込んでいた。小さく振ると、満足そうに頷いて台に置く。
それは、ここ数日シェリウが励んでいた作業の成果だ。
銅や鉄の細い板、何本もの小さな壺など。手慰みに装飾品を作るから、とシェリウがそれらを館の人々に頼んだ。しかし、シェリウが装飾品を作るような心得があるとは思えなかったユハは、奇妙に思いながらも彼女の作業を見守っていた。
シェリウは、壷に入るように銅と鉄を裁断して、それぞれの壷に入れていった。ほとんどの壷は蜜蝋で封をしたが、開けておいた一本に、液体を注ぎ込んだのだ。その独特の匂いから、それが酢であることが分かった。
「ねえ、シェリウ。いい加減、何を作っているのか教えてくれないの?」
ユハの問いかけに、シェリウは壷を一瞥した後、ユハに向き直る。
「そうね。もう教えても大丈夫かな」
「装飾品じゃあ、ないよね?」
「当たり前じゃない。こんな物、首にぶら下げるの?」
シェリウが笑って頷いた。そして、酢を注いだ壷を手に取る。
「これはね、雷の種って呼ばれてる」
「雷の種? 可愛い名前ね。何に使うの?」
「可愛い名前かぁ。はたしてそうかな?」
シェリウはニヤニヤと笑いながら壷を差し出す。香料を入れるような、掌に収まる小さな物だ。酢の鋭い匂いが鼻をつく。
「ちょうど力も溜まったところかな。ここの鉄にちょっと触ってみて」
シェリウの笑みを不審に思いながら、壷の口から少し頭を出している鉄の破片に恐る恐る触れる。
「痛い!!」
一瞬手に突き刺さった鋭い痺れ。ユハは思わず声を上げた。
「ああ、びっくりした」
自分の指を見つめる。小さな針か何かが突き刺さったのかと思うほどの痛みだったが、指に傷はない。シェリウはユハの反応に満足そうに頷いた。
「よし、上手くいった。……この壷にはね、とても小さいけれど、雷と同じ力が溜まってるの」
「か……、雷? この壷に? こんな小さな物でそんな力が造れるの? もしかして、魔術の力?」
ユハは驚き、小さな壷を見つめる。
「魔術じゃないわ。お湯が沸いて湯気が立つみたいに、
「へえ……。それで、シェリウは私をびっくりさせようとして雷の種を作ったの? こんなに一杯作る必要がある?」
ユハは台の上に並ぶ何本もの壷を見やる。よく部屋を訪れるアティエナを驚かすつもりにしても、作りすぎだというものだ。
「悪戯のために、こんな手の込んだ物を作るわけないじゃいない。古代の偉大な知識を何だと思ってるのよ」
シェリウは呆れたようにユハを見る。ユハは憮然として口を尖らせた。
「だったら、何のためなの?」
「何もない所から火を
「魔術の行使……、まさか、雷の種って……」
「そう。これは最後の手段。だけど、力尽くでもここを出る時に、この力はきっと役に立つ……」
厳しい表情を浮かべたシェリウに、ユハは眉をひそめた。
「そんな強引な……、危ない方法は良くないと思う。ナタヴ様に誠心誠意話せば、分かってもらえるはずだよ」
「『善き人々の差し伸べたいくつもの手が、時にその者を谷底へと突き落とす』。ユハ……、自分が善行を為していると思っている人は、決してそれを間違いだと思わないのよ。ナタヴ様は自分のしていることが正しいと信じている。そして、あたしたちの言うことを聞いてはくれない。ユハはまだ何も知らない小娘だ。だから、自分が誠意をもって言って聞かせれば分かるはずだ。きっと、ナタヴ様もそう思ってる」
ユハは、シェリウの反論に顔を曇らせた。正直に言えば、ユハ自身にも、ナタヴは自分たちの話には応じてくれないだろうという予感がある。ただ、シアートの人々の厚意を乱暴な手段で裏切りたくない。そんな躊躇いもあった。
「ここは暖かく穏やかな所。ユハがここで心安まるなら、それもいいかもしれない。私もそれに付き合うわ。だけど、ここにいればいるほど、深みにはまって抜け出せなくなる。穏やかだった湖面は、やがて渦巻く奔流になってあんたを弄ぶ。あたしには、それだけは分かる」
「私は……、分かたれし子は、シアートの人たちにとってそんなに必要なの?」 「あんたが分かたれし子であろうとなかろうと、あたしにとっては、どうでもいいこと。だけど、ナタヴ様には、それにシアートの人たちには、きっと命より大事なことなんだと思う」
シェリウの答えに、ユハはうつむいた。確かに、自分の中には聖女王の力の欠片がある。そして、それがとても大きな力を持っていることも自覚した。しかし、ただ、それだけなのだ。まともに操ることもできない恐ろしい力を内に備えただけの娘。それが自分だ。分不相応な力の欠片を宿しているだけであって、人々に求められるような偉大な人間ではないことを自分が良く知っている。
別荘からアタミラまでの日々。その間、ユハは答えを避けてきた。知ることで全てが変わってしまうという恐怖から、真実から目を背けてきた。アタミラでの平穏がそれを助長した。続く日常が決意を鈍らせてしまった。しかし、もうそれも終わりなのだろう。己の中にある真実と、向き合わなければならない。
ユハは決意するとシェリウを見つめた。
「私は、これまで真実を聞くのが怖かった。でも、もう逃げるのは止めたの。本当の私について教えて、シェリウ。私は、知る必要があるの」
「分かった。でも、教える前にこれだけは言わせて。あたしは、どんなことがあろうとも、あんたの味方だってことを」
シェリウは頷くと、ユハの手に触れた。ユハは、その手を握り返す。
その時、扉の向こうから呼び声が聞こえた。
「儂だ。ナタヴだ。部屋に入っても良いかね」
二人は顔を見合わせた。シェリウは、ユハを片手を上げて制すると、台の下に壷を手早く隠す。そして、ユハに頷いてみせた。
ユハは扉に向かって声をかける。
「どうぞ」
扉が開き、ナタヴが部屋に入った。二人を見やり、そして振り返る。
「アティエナ、付いて来ているだろう? おいで」
ナタヴが呼ばわった。その声に応じて、おずおずとアティエナが姿を見せる。
「お前は勘の良い
アティエナはナタヴの問いに、硬い表情を浮かべ、ぎこちなく頷いた。
「良いだろう。お前も同席しなさい。いずれお前にも聞かせなければならない話だ。ユハたちがいる今が、都合が良いだろう」
「はい」
アティエナが答えると、ナタヴは彼女を部屋に招き入れた。
「お前たちに会うのは久しぶりだ。顔を出せずにいてすまなかったな」
ナタヴはアティエナと並んでユハたちの対面に座ると言った。
「いえ。ナタヴ様もお忙しいようなので、会っていただけるだけで幸いです」
シェリウが静かに答えた。
「お前が言うと棘があるように聞こえるな」
ナタヴは苦笑すると、手を動かして部屋全体を示す。
「しじまの
「どこに敵がいるのか分かりませんから、用心は欠かせません」
「やれやれ、手厳しいな」
笑みを浮かべたまま頭を振ると、ナタヴはシェリウを見据えた。
「……さて、シェリウよ。ユハに、分かたれし子について詳しく話したか?」
「いいえ。これから、話すところでした」
「そうか。儂が話したい。構わぬか?」
「お任せいたします」
シェリウは答えた。ナタヴは、傍らのアティエナに顔を向ける。
「アティエナよ。これから話すことは、お前の信仰を揺るがしかねない残酷で恐ろしい秘事だ。しかし、我が一族の一員として、お前も知らなければならない。お前はやがて、アトルとともにシアートを導くことになる。その前に、お前には真実を知っておいて欲しいのだ。そして、善き信徒として信仰を守ってほしい」
「……はい。分かりました御爺様」
厳しいナタヴの言葉に、アティエナは緊張の面持ちで頷いた。
そして、ナタヴは語り始めた。
百年以上昔、『背教者ニアザロ』の呪いを受けて、聖女王は深い眠りについた。そして時が過ぎ、今に至るまで聖女王が目覚めることはない。聖導教団の魔術師も、聖王教会の僧侶も、誰も聖女王を目覚めさせることはできなかった。聖女王が眠りについてから何十年の後、王国各地に奇妙な人々が現れ始めた。強い魔力を帯びて、様々な奇跡を起こす者たち。聖導教団と聖王教会は、その力が聖女王の持つ力と同じ性質だと気付いた。眠りについた聖女王から力の欠片が流れ出し、母の胎内にいる子供に宿っている。聖導教団はそう結論した。そして彼らのことを分かたれし子と名付けた。
「欠片を持つ者は数多く生まれてきた。砂粒のような小さな欠片を微かに瞬かせた者から、お前のようなとてつもなく大きな欠片を宿し奇跡のような力を振るった者まで。聖導教団と聖王教会は、そんな分かたれし子たちを引き取り、捕らえてきた」
ナタヴはユハを見つめ、言う。
「教会は、分かたれし子を器、あるいは鍵として考えてきた。しかし、聖女王陛下を目覚めさせる鍵として、分かたれし子は誰も役に立たなかった。器としては、その欠片の大きな者だけが、その役割を果たすことができた。しかし、それも完全ではない。聖女王陛下の力、そして魂の全てを汲み取り、受け止めることのできる子はおらず、また、その力を受け続けていてもその者の魂が耐え切れずに砕け散ってしまうのだ。今、大聖堂にいる写し身も、そうやって魂が砕けてしまった者だ。ただ、その欠片は大きく、今だ聖女王の似姿として人々の前に姿を現すことができる。だが、いずれ限界が来るだろう」
「私はただの
ユハは、残酷な真実に呆然としていた。分かたれし子。聖女王の力の欠片を宿した存在。聖王教徒としてこれほど光栄なことはないように思える。しかし、聖導教団と聖王教会の前では、弄ばれ、使い捨てられる、まさしく一欠けらにすぎないのだ。
「あんたは
シェリウはそう叫ぶと、ユハの肩を掴むと強く揺さぶった。見詰めるその目には涙が滲んでいる。
「あんたはユハだ! 十五年間イラマール修道院で育った修道女ユハ! それ以外の誰でもないのよ!」
「シェリウ……」
「修道院に来たばかりの頃、あたしは誰も信じられなくて、皆、敵に見えてた。周りに酷いことを言ってた。あんたにもね」
「ああ……、死ね、って言われてびっくりしたな」
ユハは、当時を思い出し表情を緩めた。出会った頃のシェリウは実に怖い少女だった。修道院の人々は皆、厳しくも穏やかで優しい人々であったので、こんな刺々しい人間がいるのだと驚いたものだ。シェリウも、涙を滲ませたまま微かに笑みを浮かべる。
「それでもあんたは、あたしに辛抱強く付き合ってくれた。あたしがまた人を信じることができるようになったのは、あんたのお陰なのよ。あたしはあんたに救われた。他の誰でもない、ユハに救われたの」
シェリウは、肩を掴んでいた両手でユハの頬を優しく包む。
「修道院長にユハを守れって言われて、嬉しかったんだ。今度はあたしが恩を返す番だと思った。命に代えてあんたを守る。あたしはそう誓ったのよ」
「ありがとう、シェリウ。……でも、命に代えて欲しくないな。シェリウが死んでしまったら、私は耐えられないもの」
ユハの言葉に、シェリウは深く頷いた。
「そうね。あたしも死にたくないな。あんたとイラマールに帰らないといけないから」
「うん、そうだね……」
男の咳払いに、二人はそちらを向いた。ナタヴが口を開く。
「ユハよ。シェリウの言う通りだ。そなたは分かたれし子であり、そして修道女ユハだ。そなたの徳は、そなた自身の善き心より湧き出たもの。修道女ユハに力の欠片が宿っているからこそ、大きな意味がある」
ユハを見つめるナタヴの瞳には、炯炯とした光があった。その瞳の力に、思わず息を呑む。
「聖導教団と聖王教会は、分かたれし子を器と考えた。実に浅はかな考えだ。儂の考えは違う。分かたれし子は、聖女王の空位を補う存在であるべきなのだ」
「それは……、まさか、ユハが聖女王の代理を務めるということですか?」
シェリウが驚きの声を上げた。
「そうだ。ユハよ。そなたは、眠りにつく聖女王の代わりとして、大聖堂に立たなければならん」
「そ、そんな! 私は、そんなことを望んではいません! 私は、ただの修道女なんです。聖女王陛下の、か……、代わりを務めるなんて、そんな、畏れ多いこと、無理です!!」
ナタヴのあまりに大それた言葉に、応えるユハの声は悲鳴にも似たものだった。
「望む、望まない、ではないのだ、ユハよ」
ナタヴはゆっくりと頭を振る。
「聖王教徒は、聖なる秩序のために、己の役割を果たす義務がある。農民は農民の、牧童は牧童の、漁師は漁師の、商人は商人の務めを果たし、皆で聖なる秩序を織り上げる。修道女であるお前たちは、よく分かっていることだな?」
ユハは、ナタヴの眼光に圧倒されながら頷いた。
「力のある者、才覚を備えた者は、それを、世のため、民のために
この人の考えを覆すことはできない。ユハは悟った。篤い信仰心と確固とした信念が一つとなって今のナタヴを突き動かしている。シアートを襲う苦境と、ユハという大きな欠片を宿した分かたれし子の存在が、絶対的な必然としてナタヴに運命を確信させたのだろう。ユハは、絶望的な気持ちになって小さく溜息をついた。
そしてナタヴは、娘たちを残して部屋を去った。
ユハとシェリウ、そしてアティエナは、それぞれの思いに沈黙したまま、互いの顔を見合う。
やがて、アティエナが口を開いた。
「私は……、あなたを何て呼べばいいの? 聖女様? それとも……、聖女王陛下?」
アティエナは、今にも泣き出しそうな、途方にくれた様子でユハを見つめる。
「アティエナ様。あなたが言ってくれましたよね? 私はお菓子が大好きな普通の娘。ただのユハです。聖女や、聖女王陛下の代理なんて、そんな立派な人間じゃないんです」
ユハは微笑む。アティエナも、その笑みを受けて表情を和らげた。
「私は、ユハを、シェリウを尊敬しているの。あなた達は、偉大なる徳を備えた、信仰篤き善き修道女」
アティエナは胸の前で手を組むと、頭を下げる。そして顔を上げると言葉を続けた。
「だけど、御爺様の言っていることは違うと思う。……ユハの居るべき場所は、大聖堂じゃないわ」
確信に満ちたアティエナの表情。
ユハは、その言葉に力付けられて、深く頷いた。
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