第18話

 議場を出たアトルは、ウルス人の元老院議員に声をかけられて立ち止まった。


 厄介な相手に捕まった。アトルは内心舌打ちをする。


 その男は裕福な地主であり、東部地方で大規模な農場を経営している。商売の関係上、シアートの商会とは懇意にしている相手だ。アトルは、彼の話が長いことを知っていた。人を待たせている今の状況で、好ましい相手ではない。しかし、彼との関係からいって、ぞんざいに接するほど礼儀知らずで良いわけがない。


 結果として、アトルは続けて話に加わったもう一人の元老院議員とともに三人で、廊下の端でしばらく世間話をすることになった。東部地方では穀物の流通が盛んになり、イールム王国相手の商売が好調なこと。沙海での戦が長引きそうなこと。砂糖の価格が徐々に上がっていること。諸々の話題は尽きない。


 やがて、地主の男は、取って置きの事柄を話すのだという風に前のめりになった。


「ところで……、聞きましたか。ナタヴ殿が最近、若い娘に御執心なのだそうですよ」


 彼は、そう言ってもう一人の元老院議員に笑みを見せる。


「ナタヴ殿もお若いですな。見習いたいところだが、残念ながら私など、体も懐もついてはこない」


 議員は、大袈裟な驚きの表情で応えた。


「何でも、その娘を屋敷に住まわせているとか。アトル君、ナタヴ殿が妾を囲っているというのは本当かね」


 地主の男は、アトルに顔を向けると好奇心を剥き出しにした表情で問う。アトルは苦笑すると首を傾げた。


「さあ、さすがに私もそこまでは……。ただ、ナタヴ様が変わらずお元気なのは間違いありませんよ」

「……いや、私はお孫さんの家庭教師を雇って住まわせていると聞きましたよ。ただ、異教徒の為に、大っぴらには出来ないとか」


 議員は、怪訝な表情で首を傾げた。


「ほう……、ナタヴ殿は熱心な教徒でしょう。可愛いお孫さんに異教徒の家庭教師などつけますかね?」

「確かに、それに関しては、私も妙な話だと思いましたね」 


 地主の呈した疑問に、議員も同意する。


 やはり、噂が風と踊ることを止めるのは難しいようだ。アトルは心中で嘆息した。ナタヴ邸には大勢の人々が関わっている。以前からユハたちは離れで暮らしてもらっていたが、見慣れない二人の娘を見かけた部外者がいるのだろう。あるいは、考えたくないことだが、内部の者の裏切りも考えられることだ。彼女たちの存在を隠し通したいが、客人を狭い部屋や地下室に監禁するわけにもいかない。


 己の中の欲望を噂話に仮託して密かに満足する。その程度の輩はそこから真実に辿り着くことはない。恐ろしいのは、冷静に幾つもの噂を集め、積み重ねていくような者だ。塵芥のように積もった噂を丹念に取り除き、組み合わせ、そこから真実の形を見出してしまう。小さな噂が切っ掛けで商売を大成させた商人の逸話は、シアート商人の教訓として語り継がれている。シアートの敵の中にも、そんな者がいるかもしれない。緊急に対策が必要だった。


「やあ、アトル、久しぶりだ。皆さんも」


 中年のシアート人の元老院議員が歩み寄ってくると、三人に話しかけた。


「おお、久しいですな。お仕事は順調ですか?」


 地主が笑顔とともに 彼を迎える。ウル・ヤークス中央地方の水運に大きな力を持つこの商人は、アトルとも親しい。


 シアート議員は、地主と東部地方の流通について話し始めた。東部地方は大河エセトワの下流域にあたり、支流が無数に枝分かれして広がっている。そのため、水運は重要な交通手段だった。地主の男も関心が高いのは当然のことだろう。嬉々としてシアート議員の質問に答えている。新たな商機を探っているに違いない。


 頃合だな。


 アトルは気を察すると、口を開いた。


「皆さん。私は人を待たせているので、これで失礼いたします」

「ああ、アトル殿。それではまた」


 気もそぞろといった風で、地主と議員はアトルに片手を上げた。シアート議員が、アトルに小さく笑みを見せる。アトルも頷いてみせると、歩き出した。


「アトル様が捕まっていたので、助力をお願いしました」


 隣に並んだアトルに仕える書記官が小声で言った。


「すまない、助かったよ」


 アトルは苦笑する。


「議事も長引きましたし、かなりお待たせしていますからね」

「そうだな。まずはお詫びを言わなければならない」


 早足で歩きながら、アトルは頷いた。


 アトルは、議事堂の一画に割り当てられた執務室へと入った。


 椅子に座っていた僧服を着た女が、立ち上がるとアトルを迎えた。老女ながら、伸びた背筋と機敏な動きは年齢を感じさせない。 


「ムアム様、大変お待たせいたしました」

「いえ、アトル様。本日はお急がしい中、ありがとうございます」


 ムアムは、アトルの言葉に微笑むと一礼する。


 アトルも席に着くと、使用人がすぐにアトルに茶を出し、ムアムの物を新しく取り替えた。


 使用人と書記官が退出し、アトルが茶を一口飲んだ後、ムアムはおもむろに口を開く。


「日頃、シアートの商会の方々には多大な寄進をしていただき、感謝しております」


 ムアムは両手を負わせると、小さく頭を下げた。


「そして、アトル様には、先日、救貧院に高額の喜捨を頂いたとか。お陰で、貧しき者が飢えずにすみます」

「元老院議員として、そして、聖王教徒として当然のことをしたまでですよ」


 アトルは微笑むと右手を小さく上げる。


「まことに、アトル様は聖王教徒の見本と言うべきお方ですね」

「そのような面映いことを仰らないでください。私より敬虔な善き聖王教徒は、五万といるでしょう。私はただ、富める者としての義務を果たしただけです。そこまで褒めて頂けるようなことではありません」

「残念ながら、その義務を果たさない方々もまた多い。信仰こそが何より魂を救うものであるのに、世の人々は、栄達や財物こそが魂を救うのだと勘違いしております」


 ムアムは小さく嘆息すると頭を振った。


「だからこそ、ウル・ヤークス建国よりその献身と信仰によって皆を支えてこられたシアートの方々に、私は深く敬意をはらっているのです」

「それは光栄です。皆にも聞かせましょう。きっと喜ぶはずだ」


 アトルは深く頷くと、ムアムを見つめた。


「それで、今日はどういった用向きでこちらに? 喜捨の礼を仰るためにわざわざ議事堂に来られたとは思えませんが」


 ムアムは、アトルの視線に微笑で応じると、両手を広げて僅かに身を乗り出した。


「今、シアートの民は、険しき荒野を歩んでいると聞きました」


 アトルは、一瞬の動揺を表に出すまいと、膝の上の拳を強く握った。


「それは、どういう意味ですか? 幸い、私の商いは順調ですし、他の者も、浮き沈みはありますが、上手くやっているようですが……」


 怪訝な表情を作り、首を傾げる。ムアムは、笑みを浮かべたまま言う。


「正直に言って、私も詳細は知りません。しかし、近頃、元老院でシアートの議員の方々の立場が危ういものになっていると聞き及んでいます。一部のウルスやカザラの民、それに軍の者が、シアートの方々を目の敵にされているとか……」


 ムアムは、広げた手を組むと、笑みを大きくした。


「そして、ナタヴ様や、その他のシアートの方々が、大きな争いに巻き込まれたと噂を聞きました。何でも、その場は阿鼻叫喚の有様であったとか。まことに恐ろしい話です」

「ああ、ナタヴ様の別荘を流賊が襲撃したことですね。どうやら大袈裟に話が伝わっているようだ。幸いなことに、撃退することができました。死者もおりませんでしたよ」


 アトルは平静を装い表情を変えることはない。


「そうですか。それは不幸中の幸いです。しかし、それが本当にただの流賊だったと、信じておいでですか?」


 首を傾げるムアムに、アトルは即答しない。ムアムは彼の答えを待つことなく言葉を続けた。


「今、シアートの民は恐るべき悪意と災いに取り囲まれている。それを私は確信しています。私は、聖王教徒として、それを見過ごすわけにはいきません。教会は、シアートの民に救いの手を差し伸べるべきだと思っています。」

「……教会がシアートを守る、と仰いたいのですか?」


 アトルは微かに目を細めるとムアムを見つめた。ムアムは静かに頷く。


「もちろん、教会は世俗に関わらぬように努めています。ただ、我らの言葉を聞いてくださる方々も多いのです。我らが世俗への憂慮を伝えれば、当然ながらそれを気にする方々も多いでしょうね。教会の為に、具体的に動いていただけることでしょう。古くより、シアートの方々は護教の民として聖王教徒を守ってきた歴史がある。今度は、教会がシアートを守る番でしょう。……ただし、問題となる点があります」

「問題……、ですか?」


 警戒の鐘の音が頭の中で激しく鳴る。これからが本題だ。彼女にとって、シアートの守護など、前置きに過ぎない。アトルは、そう確信する。


「ナタヴ様が、一人の娘を客人として迎えていますね? その娘は、教会が引き受けます」


 アトルは、何とか表情を変えることなく堪えることができた。僅かな沈黙の後、怪訝な表情を浮かべて言う。 


「客人? ナタヴ様を訪ねてくる客は多い。当然ながら、女性もです。申し訳ありませんが、家中の者でもない私には、一体誰のことを言っているのか分かりませんね」

「ウルス人の娘ですよ。連れの娘が一人いるはずです」

「ああ、そういえば、先日ナタヴ様の甥一家が碧の岸辺より来訪されたと聞きました。その一家には姉妹がおられるとか。それと勘違いされたのでは?」


 表情を変えることなく、アトルは答えた。  


「その娘は、特別なのです。最近、あなた方も、それを知ったはずですよ」


 アトルの答えを気にした様子もなく、ムアムは言葉を続ける。その瞳は強い力を宿し、アトルを捉えて離そうとしない。


「シアートの方々がその娘を匿っていても何の利益もありません。むしろ、大いなる信仰の道の妨げとなるでしょう」

「信仰の妨げ……、ですか。その娘は、一体何者なのですか?」

「聖王教徒の信仰、そして、ウル・ヤークス王国の繁栄のために必要な者です」


 聖王教会は、ユハの秘めた力について確信を抱いている。アトルは悟った。教会は、分かたれし子として、ユハを特別視している。その力を大いに利用するつもりだ。


 ナタヴが自分に語ったことを鑑みれば、ムアムの申し出は断るべきだろう。しかし、相手は教会だ。いずれ、彼らとはどこかで対立する。アトルはそう予測している。しかし、その対立も出来るだけ小さく、穏やかなものにしなければならない。ここで教会の申し出を断って決定的に対立してしまうのはあまりに早すぎる。教会への返答について、ここでアトル一人が結論を出して良いとは思えなかった。


「私の知らないことに、答えることはできません。一度、ナタヴ様にお伺いを立てたいのですが」


 アトルは、困惑の表情を作ると、ムアムに言う。


「勿論ですよ、アトル様。是非、ナタヴ様とご相談なさってください」


 ムアムは、微笑を浮かべて頷いた。




 

 アタミラから戻ったヤガンは、なるべくアトルとは会わないようになった。事態の深刻さが増していることによる様々な危険を逃れるためだ。一方で、書簡のやり取りが増えることとなる。


 間を繋ぐのはハトゥシィ人に変装したラハトだ。彼が、アトルやその他のシアートの人々との連絡を取り次いでくれている。ラハトの変装は見事で、仕草や言葉の訛りまでハトゥシィ人らしい。しかし、普段の彼を知っているだけあって、付け髭をつけた顔を初めて見た時、ヤガンは笑いが止まらなかった。


 ヤガンは元々、ウル・ヤークスの文字はある程度読み書きできたのだが、ここ最近の書簡のやり取りで著しく上達した。おかげで、他の顧客とのやり取りも上手くいっている。一度など、契約書の細かな不備を指摘できたほどだ。ただ、ウル・ヤークスの人々が聖典や教典から引用することについては、理解できずに苦労することが多かった。


 デソエが陥落したという報せは、ウル・ヤークス在住のルェキア族に大きな衝撃を与えた。そして、危機感からか、これまで以上に一致団結することになる。アシス・ルーに滞在するルェキア族の同胞たちは、援助物資や義勇兵として、カラデアに駆けつけると息巻いていた。沙海の東の窓口であるアシス・ルーには、腕の立つ傭兵あがりや、命知らずの“沙海渡り”が何人もいる。ヤガンはアシス・ルーに暮らす同胞たちとも密に連絡を取り、カラデアの援助を計画していた。


 今ヤガンがしたためているのは、沙海やルェキア族の情勢、その他諸々の情報についてだった。シアート人にとって、西方の砂の海の情勢は、自分たちの運命を左右する大きな要素となっている。ナタヴやアトルからすれば、出来るだけ詳細な情報が欲しいに違いない。


 ナタヴの語ったウル・ヤークスの秘事。これから彼らが選ぶべき道。沙海からやって来た異教徒であるヤガンにとって、それはとても長く不思議な物語のようだった。シアートの人々の抱く危機感と沙海の民の抱く危機感は異なる種類のものだが、道の先にある同じ結果を目指している以上、協力するしかない。


 これから嵐がおこる。


 嵐は、地平をすべて覆い尽くし、薄暗い、白い盲目の世界にしてしまう。そこに巻き込まれた者はただではすまない。息すらできず、風に翻弄され、砂塵に身を削られてしまうだろう。その嵐の只中で、ただその危機をじっとやり過ごすか、命の危険を覚悟しながらなお、歩くのか。シアートの人々は、そしてヤガンは歩くことを選んだ。


 あの二人の娘を思い出す。


 ただの娘だと思っていたユハは、シアートの人々にとって、そしてウル・ヤークス王国にとって重要な人間だった。ナタヴに詳しい話を聞かされたが、異教徒であるヤガンには完全に理解できたとは言い難い。ナタヴはユハを、聖なる存在として熱く語っていた。あの力を見せられた後でも、ヤガンにはその実感は湧いて来ない。ヤガンにとってユハは、よく働く陽気な少女でしかなかったからだ。ユハがあの時見せた力は、恐ろしく、どこか彼女とは乖離して見えた。まるで、ユハの体を使って、全く別の人間が魔術を使っているように思えたのだ。ヤガンが感じた恐怖は、そこから来ている。


 これからユハは、その嵐の中心として、否応なく巻き込まれることになる。あの優しい少女の顔を思い出して、哀れに思う。己の意思とは無関係に、彼女は人々に崇められ、あるいは憎まれることになる。あの娘は、これから自分に降りかかる無数の期待や悪意に耐えることができるのだろうか。


 書き終わった書簡を乾かしながら、ヤガンは振り返る。


「なあ、ラハト」

「なんだ、旦那」


 背後で壁に寄りかかっていたラハトは、ヤガンに顔を向けた。


「ユハとシェリウは元気なのか?」

「分からない。会う機会もないからな」


 ラハトの答えはにべもない。


「そりゃそうだな」


 ヤガンは頷くと、書簡を丁寧に丸めていく。ユハたちは、ナタヴの邸宅で厳重に守られている。ただ書簡を届けているラハトが会えるはずもない。背中越しに、問いを続けた。


「ラハト、お前、色々と見えない物が見えるって言ってたよな。初めて会った時、ユハの力も見えていたのか?」

「普通の娘じゃないことは分かっていた。ただ、あんな力の持ち主だとは思わなかった」


 ラハトは、ヤガンの問いに淡々と答えた。


 ヤガンは手を止めると、再び振り返った。ラハトをじっと見つめる。


「普通の娘じゃないことが分かっていたのに、俺の所に連れてきたのか?」

「……ああ。そうだ」


 ラハトは、僅かな沈黙の後、頷く。ヤガンは、ラハトと初めて出会った時のことを思い出す。何体もの屍とともに、血まみれで死にかけていた男。厄介ごとが嫌いなはずの自分が、なぜかその男を助けた。鎖に繋がれる生き方から逃れるために命を懸けたのだとラハトは言った。だとすれば、今のユハの状況は、ラハトにとって本意ではないだろう。 


 ヤガンは、封をした書簡をラハトに手渡す。ラハトはそれを受け取ると、鞄の中にしまった。


「お前……、ここにあいつらを連れて来たことを後悔してるんじゃないのか?」


 部屋を出ようと身を翻したラハトの背に、ヤガンは声をかける。


「行ってくる」


 ラハトはヤガンの問いに答えることなく、一言告げると部屋を出て行った。

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