第17話

 その建物は、地上よりはるか高い樹冠に、まるで幹から生え出しているようにある。


 高さや太さの異なる幾つもの枝の間を梁や板、柱を渡して建てられており、その造りは樹上にあるとは思えないほど頑強だ。その広さはカファ、カカル、ニウガド、そしてキセの人々と、彼ら共にいるキシュが入っても今だ余裕があるほどだった。


 カファの一族の長老や賢人たちが重要な話をする際に、この建物は使われる。木の幹に据え付けられた階段を上って辿り着くこの場所は、カファの幹の一族にとっても特別な場所であり、壁や柱には念入りに彫刻が施されている。岩で作られたキセの塚には見られない凝った装飾だった。


 キセの人々を迎えるための簡単な儀式を終えて、幹の上の建物に招かれた時にはすでに夜になっていた。


 本来ならば歓待の宴を催すのだが、それを省略してすでにカファの幹の一族の要人たちが集まっている。これは、自分たちへの関心を示すのか。それとも冷遇なのか。アシャンには判断がつかなかった。


 カファの人々だけでなく、キセの客人であるシアタカたち、カカルの人々、そしてニウガドの人々も同席している。彼らの同席が拒まれることを危惧していたが、この里を来訪している他の一族にも話を聞いて欲しいというアシャンの希望が通ったようだ。おそらく、エイセンと、そしてマスマが口添えしてくれたのだろう。これで、ほかの一族の人々にも話を聞いてもらえる。アシャンはひとまず安堵していた。


 灯火に照らされた薄暗い室内。アシャンたちがようやく沙海での出来事を語り終えた。部屋を沈黙の帳が覆う。


 樹冠の間を渡る風が鳴り、枝葉を震わせる。風と葉の音は大きく、建物の中に響いた。


「お前たちの語った東からの脅威の話は、今や、里中に広まっている」


 長い沈黙の後、おもむろに一人の男が口を開いた。初老のその男は、カファの一族の長老だ。


「あの大立ち回りのせいもあって、一族の者たちの間でもお前たちの話を信じる者が大勢いる。全く……、流言を広めて一族の者たちを惑わすとはけしからん奴らだ」


 カファの長老は苦々しげな表情でアシャンを見た。


「流言ではない。ウル・ヤークスの脅威は今も東にあり、刻一刻とキシュガナンへと近付いている」


 カナムーンの答えに、長老は視線を鋭くした。


「沙海の向こうから軍勢が来るだと? 戯言もほどほどにしておけ、鱗の民。かつて沙海を渡ってキシュガナンに攻め込んで来た敵などいなかった」

「その通りだ。キシュガナンの地に攻め寄るのは西や南からやって来る黒い人々だけだ。それも、我らは追い返してきた」


 壮年の戦士がそう言って頷く。カカルの一族だったが、昼間の戦いの場にはいなかった男だ。カカルの戦士長だという。


「それに、もし、万が一にでもウル・ヤークスとやらが沙海を渡って来ても、我らカカルが返り討ちにするだけだ」


 カカルの戦士長はそう言って笑う。隣に座るカカルのラハシはおずおずと口を開いた。


「私はキセのキシュから形を受け取った。今まで観たことのない、恐ろしいものが観えた。正直言って、カカルの戦士が勝てるのか、難しいと思うが……」

「そうだ。話した通り、ここにいるキセの客人シアタカは、ウル・ヤークスの戦士だった。彼の戦いぶりは見ただろう? そのシアタカが、自分と同じような戦士が大勢いると言っているんだ。ウル・ヤークスの軍がどれだけ強いのかは、想像できるはずだ」


 ウァンデが強い口調とともにカカルの戦士長を見る。その隣に座るジヤは、無言のまま目を閉じていた。戦士長は、仲間たちの無様な姿を思い出したのか顔をしかめる。そして、横目でジヤを見ながら言った。


「ふん……、ジヤすらも相手取る戦士が大勢いるとは信じられんがな……」


 戦士長はシアタカを忌まわしいものを見るように一瞥すると、アシャンとウァンデに顔を向ける。


「いいだろう。カカルの戦士を貸せというならば、貸す。ただし、我らの一族に、今年の交易の利益の三分の二を納めてもらおう。いいか、三分の二だ。そして、来年からその半分でいい。それならば、谷の長老たちも納得するだろう」

「私たちの話を聞いてたの!?」


 アシャンは思わず叫んだ。隣のウァンデから激しい怒りの感情が伝わってくる。それは、アシャンも同じだ。キシュガナン全体の危機を論じている時に、キセの一族を屈服させようとしている。こんな馬鹿な話はない。アシャンはカカルの戦士長を睨み、声を荒げる。


「山の向こうに、黒い雲が広がっている。冷たい風がこちらに吹いてくる。嵐は来るんです。それなのに、いかずちが光り、雨が降るまで何もしないというんですか!!」

「お前たちは、春の雨を嵐だと大袈裟に言い張っているだけだ。ことさらに危機を言い立ててようが、我々は騙されんぞ」


 カファの長老が顔をしかめると言う。


「しかし……長老、この娘の言うことに偽りはない。何より、キシュが恐れを訴えている」


 カファのラハシが厳しい表情で口を挟んだ。長老は舌打ちするとラハシを見やる。


「……全く、お前たちラハシはいつもそうだ。我々が分からないと思って、好き勝手なことを言う。キシュと意思を交わせるからといって、本当のことを言っているのかどうか、疑わしいものだな」

「何を言う、長老! 我々を侮辱しているのか!」


 ラハシが憤然として床を叩いた。


「長老。曇る目で行く先を見ていると、一族を災いの道へ導くことになるぞ」


 エイセンが身を乗り出すと長老を睨み付ける。


「キセの客人たちを見ろ。まるで鷲獅子のような猛き戦士たちだ。あんな戦士たちが、東の地で列を成して獲物に喰らいつく時を待っている。それを、黙って待っていろというのか」

「何が鷲獅子だ。外つ国の珍しい人間を集めて連れ歩いているだけだ。鱗の民と黒き人々の旅芸人一座と変わりがない」

「旅芸人一座だと? どうやら、あんたの目は曇っているどころか腐り落ちたようだな!!」


 エイセンは、長老の眼前に指を突きつけた。長老は、仰け反りながら怒りの声を上げる。それをきっかけに、エイセンと長老、そしてラハシまでもが加わって言い争いを始めてしまった。カカルの戦士長が微かに口元に笑みを浮かべてその様を見ている。


 私は何て愚かだったんだ。アシャンは絶望を感じてうつむいた。誠意と信実をもって話をしても、それは相手に届くことはない。自分の言葉が皆を動かすことができると思い上がっていた。


 アシャンは暗澹たる思いでウァンデを見た。視線に気付いたウァンデは、肩をすくめると小さく息を吐く。怒りと失望と、そして諦念が伝わってくる。


 向かいに座るマスマと目が合った。マスマは頷くと口を開く。


「仕方がないわ、アシャン」


 マスマはそう言って小さく手を振った。


「人は、自分が見える物しか信じることができない。たとえば、私がまじないを操ることができる、と言っても信じない者がいるでしょう。だけど……」


 三体の“羽虫”がまるで空中に湧き出るようにして、マスマの前に現れた。その姿は、人の掌ほどの大きさの蜂に似ている。しかし、碧、紅、紫の宝石のように、その体は半ば透明だ。長く太い六脚と直立して浮遊する姿はどこか小さな人を思わせる。


「綺麗……」


 灯火に照らされてきらめくその姿を見て、アシャンは思わず呟く。


「……こうやって、目に見える形にすれば信じる。そして、これが何かの詐術や奇術だったとして、たとえ偽りであろうとも、信じたい者は容易く真実だと思い込む。人は、見たい物しか見えないのよ」 


 三体の“羽虫”は部屋の中を華麗に舞う。その場にいた者たちは皆、呆気に取られてその幻想的な姿を見つめた。


「ラハシはキシュを通して風の匂いを観て、水の味に触れる。まじない師は、世に満ちる力の流れを感じ、精霊が踊る様を知る。しかし、常人にはそれらを感じることはできない。全てのことを目に見える形としてしか理解できない。雷鳴が轟き、大粒の雨が降り、烈風が吹きつけ、木が折れる音を聞くまで、嵐がきたことを理解できない」


 羽虫を肩にとまらせたマスマは、この場にいる人々を見回した。 


「あなた達が危機を危機として理解できないのは仕方がないわ。あなた達は、その場にいなかった。あの軍勢を見なかった。だけど、私たちラハシは、キシュを通して、観てしまった。それを、観なかったことにはできない」

「そ、その通り、……だ、御使みつかい。あれは、恐ろしい、て、テ、敵だ。カカルの一族……だけでは、か、勝てない。ほか、他の一族、と手を結ぶひ、必要がある」


 目を見開いたジヤが、頷くと言った。


「ジヤ、お前まで何を言う!」


 カカルの戦士長が慌てて彼に顔を向けた。ジヤは、大きく首を傾げると、答える。


「機を誤ると、し、シ、死ぬことになる。今は、ヤリ、槍を繰り出す時、だ。あ、相打ち、覚悟で、で、戦わなければ、か、勝てない相手だ」


 傍らのカカルのラハシも大きく頷いた。


 マスマが、大きく両手を広げる。 


「昔、我らの祖は、はるか東の地を戦で追われた。そして、苦難の旅の末、この地に辿り着いた。それから長い年月の後、東方より再び、我らを追って災いが迫っている。それは、我らの祖がのぞんだ苦難にも劣らぬもの」


 マスマの力強く厳かな口調は独特な声色で発せられている。アシャンは、それが社の御使いが儀式の時に発する声だと気付いた。


「キシュガナンは、今、一つにならねばならぬ。この地に散った小さな群れは、集い、大きな群れとしてこの災いに抗さねばならない」


 この場にいる者たちは、皆、沈黙してマスマを見る。ニウガドの社の御使いへの敬意から、皆、恭しい態度だ。


 マスマは立ち上がると、アシャンへと歩み寄った。見上げるアシャンに頷いてみせる。 


「アシャン、そなたは、その心を、お社様やしろさまに、そして、大いなる母に、じかに届けねばならない。その赤心を形として示すのだ」


 ゆっくりとその場に膝を折ると、アシャンの瞳を覗き込むようにして見つめる。そして、微笑んだ。


「『導くもの』よ、ニウガドの社に来なさい。あなた方をニウガドの社の一族の客人として迎えるわ」

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