第8話

 喚声が押し寄せてくる。


 兵士たちの壁は崩れ去り、勝利を確信した敵は、その叫びを一層大きくして傷を広げていく。


 地に満ちる絶叫と血の臭い。そして、死の気配。


 周りを取り囲む人々の不安と恐怖、動揺の表情。


 その全てが彼女の中に流れ込み、渦巻く。彼女は、その奔流に圧倒され、思わず目を閉じた。


「ここに踏みとどまってはなりません。早く逃げなければ」


 老人が言った。彼女は頷く。


 自分たちは敗北したのだ。兵たちは蹂躙され、あるいは恐怖に駆られて遁走している。彼女やその仲間たちは、優れた魔術の使い手ではあるが、この状況においては、逆転するための武器にはならない。死出の旅への道連れを増やすことはできるだろうが、ただ、それだけのことだ。


「我らがここで敵を食い止めます」


 黒衣の青年が、進み出た。


 仲間たちが、厳しい表情で彼を見て、彼女を見た。 


「逃げ延びてください。そして、俺と約束した、幸福の国を造ってください。俺は、この先に待つ偉大な国の未来と、何より、あなたの為に死ぬことができる。これほど光栄なことはない」


 黒衣の青年は、そう言って莞爾と笑った。


 そんなことは望んでいなかった。彼女はそう叫びたかった。彼女にとっての未来とは、傍らに立った彼と共に見る景色のことだった。しかし、今の彼女の立場は、それを許さない。今の彼女は、あまりに多くの命を背負ってここにいる。自分の言葉が彼を死へ送り出すのだと分かっていても、頷いて、命じるしかなかった。


 青年は、彼女の手を取り、自らの額に当てる。彼女は、ありったけの想いを込めて、彼を祝福した。そのもたらす力が、出来るだけ彼の命をながらえるようにと願って。


 皆、自分の元を去っていく。死ぬと分かっていても、自分は見送ることしかできない。


 青年に従う兵が、紅い紋様の描かれた旗を掲げる。彼と同じ黒衣を着た兵士たちが、雄叫びを上げた。白刃を手に、押し寄せる敵へと向かう。


 彼の後姿を目に焼き付ける。ずっと忘れないようにと。


 私は、一生後悔する。決して、自分を許さないだろう。


 そして、彼女は振り返らなかった。







 ユハは、頬を伝う涙の感触で目覚めた。


 指で触れ、涙を拭う。あの人は、誰なんだろう。夢で見た、優しそうな笑顔をみせた青年の姿がいまだに脳裏に残っている。出会ったこともないはずなのに、どうしてこんなに懐かしく、悲しいのだろう。


 窓から差し込む朝日がまぶしい。


 顔を傾ける。


 ここがどこなのか、分からない。大きな部屋の一室ではあるようだ。横たわる寝台は、寝心地が良い。見れば、すぐ側で、シェリウが壁に寄りかかったまま眠っている。


 ユハは、ゆっくりと上体を起こした。体の重さに、思わず眉をしかめる。まるで軋む音が聞こえてくるような気がするほど、体が強張っている。かけられていた毛布がずり落ちた。


「う……」


 その微かな音に反応したのか、シェリウは身震いすると、小さな声とともに目を覚ました。目を瞬かせ、窓の外に目をやり、そしてユハを見る。


「おはよう、シェリウ」


 ユハは微笑む。 


 シェリウは、大きく目を見開き、そして、無言でユハを強く抱きしめた。その力強さに戸惑いながら、ユハも、同じように抱き返す。


「……よかった。もう目覚めないのかと思った」


 囁くようなシェリウの言葉に、ユハは驚く。


「え……? 私、そんなに眠ってたの?」


 シェリウは、ユハから体を離すと、彼女を見詰めて頷いた。


「五日間も眠ったままだったのよ。揺すっても叩いても目を覚まさなかったんだから」

「五日間!」


 ユハは驚き、納得する。五日も眠っていれば、ここまで体が固くなるはずだ。そして、疑問が湧く。そもそも、どうして自分は五日間も眠っていたのか。


「五日間……。あれ……、私、五日前に何をしてたっけ……」


 ユハは、記憶の空白に戸惑い、額に手を当てる。シェリウが強張った表情でユハの顔を覗き込んだ。


「ユハ、覚えてないの? 自分が何処にいたのか、何をしていたのか、思い出せない?」

「ちょっと待って……、私、戦場にいて、負けそうになって……、あの人を見送って……」

「な……、何言ってるの、ユハ?」


 困惑し、狼狽したシェリウがユハの肩を掴む。その指にこもった力は強く、痛みすら感じさせた。その痛みが、未だ霞がかかっていたような思考を覚醒させる。


 襲ってくる巨大な魔物……。怒り。恐怖。苦痛。大勢の怪我人……。


「べ、別荘! ここは別荘なの?」


 ユハは顔を上げてシェリウを見た。シェリウは安堵の吐息を漏らすと、小さく頷く。


「そう、ここはナタヴ様の別荘よ。あんたが眠ったまま起きなかったから、ずっとここにいたの」

「あの魔物は……」

「あんたが滅ぼしたでしょ。やっぱり覚えてないのね」


 シェリウが心配そうな表情で言う。ユハは頭を振った。徐々に、あの時の記憶が蘇ってくる。


「大丈夫、思い出してきたから……。私……、怪我をした人たちを癒した……」

「そう、そうよ! あの魔物のせいで怪我をしたシアートの人たちを癒したのよ。あんたの癒しの力は、すごかった」


 シェリウが、微笑むと頷いた。


 あの時、自分に満ちていた力を思い出す。それは、魂の奥底に眠っていた力を汲み出したものだ。ヘダムの導きに従って抑制することが出来ていた力だが、決してそれを呼び出して操ることが出来るようになったのではない。いわば、溢れ出てこないように蓋をしただけの状態だったのだ。しかし、あの時、自分は確かにあの力を操っていた。だからこそ、あんな大勢の人々を癒すことが出来たのだ。残念なことだが、今、その力を汲み出すことは出来ない。いつもの自分に戻ってしまった。なぜあの時自分は力を操ることが出来たのか。それはユハには分からなかった。


「あの時の自分は、いつもの自分じゃなかった……」


 ユハの呟きにも似た言葉に、シェリウは首を傾げた。


「あの癒しの力は、老師ヘダムの教えのおかげだと思ったけど」

「うん……、そうなんだけど、あの時のような癒しの力を使うことは今は無理だと思う。どうしてあんなことができたんだろう。私にも分からないな」

「確かに、あの時のあんたはいつもと違ったわね。何か、怖いくらいだった」

「怖い?」


 思いもしない言葉に、ユハは問い返す。シェリウはおどけた表情で頷いた。


「あたしに、手伝って、て言った時のあんたは、修道院長よりも威厳があったな。そりゃあ、言うことを聞くしかないわよね」

「威厳? 私に? 大袈裟だなぁ」


 ユハは苦笑する。そして思い出す。自分はあの時、あの妖魔の爪に串刺しにされたのだ。慌てて服をめくりあげて腹を見る。傷跡は一切残っていなかった。


「傷が……、残ってない」

「あんたが自分で癒したでしょ」

「そうだよね。……やっぱり、全部思い出したわけじゃないみたい」 

「本当に、いつもの自分じゃなかったみたいね」


 シェリウは溜息をつくとユハの髪を撫でた。


「時が経てば、全部思い出すかもしれないわね。本当に、あの時はどうなることかと思ったんだから……」


 シェリウの目に涙が滲んでいる。


「シェリウ……」

「ユハ、今度はあんな無茶はしないって約束して。もしあんたに何かあったら、あたし、修道院長に叱られちゃうでしょう」


 涙を滲ませたまま、シェリウは微笑んだ。ユハは、シェリウの手を握ると、頷く。


「分かった。今度からは、気を付ける。だから、シェリウ、馬鹿なことをしそうになったら、私を止めてね」

「正直言って、止める自信が無くなってきたけどね」


 シェリウは溜息をつくと肩をすくめた。


「シアートの人たちは皆、帰ったの?」


 ユハの自信なさげな表情を見ることに抵抗を感じて、ユハは話題を変えた。気を取り直した様子のシェリウは答える。


「あの騒動が落ち着いてから、ほとんどの人が帰ったわ。あんなことになったから、色々と大変だったみたい。屋敷の外でも、戦いがあったしね……。外で戦っていた人たちを癒したことは覚えてる?」

「うん、何となく……」


 おぼろげな記憶を探りながら曖昧な表情で頷く。あの時、どれだけの人の怪我を癒したのか、自分でも正確には思い出せない。あの時の屋敷は血の臭いと苦悶の呻きに満ちていて、熱にうなされて見る悪夢のように感じられる。


「ユハ、あれを見て」


 シェリウは、寝台の側に置かれた台を指差した。そこには、色とりどりの花や、果物が多く置かれている。


「あんたに贈られたものよ。早く目覚めるように、って。皆、あんたにお礼を言いたがっていたのよ。だけど、眠ったままだったからね……」


 そう言った後、シェリウは複雑な表情を浮かべた。困惑して、苛立ちを覚えているように見える。ユハは思わず尋ねた。  


「どうしたの、シェリウ。怒ってるの?」

「ああ、ごめん。今更だけど、ナタヴ様があんたをここに招待した理由が分かってきたんだ」


 ユハの問いかけに、シェリウは溜息とともに答えた。


「理由?」

「そう。ナタヴ様は……」

「シェリウ、お茶を持ってきたわ……、ああ、ユハ!」


 シェリウの言葉は、甲高い少女の声で遮られた。


 アティエナがこちらに駆けてくる。


「アティエナ様」


 微笑むユハを、アティエナは抱擁した。そして、体を離すとユハを笑顔で見つめる。


「よかった。とても元気そう」


 喜びを全身で表現するアティエナが眩しく感じて、ユハは目を細める。


「アティエナ様。お茶を」


 アティエナの背後から、使用人の娘が声をかける。アティエナは、振り向くと頷いた。そしてユハに再び向き直る。


「起きたばかりで喉が渇いてるでしょう? お茶を持ってきているから、飲んでね」

「ああ、ありがとうございます」


 答えるユハの前に、使用人の娘は素早く茶を用意した。

 

「さあ、どうぞ」

「いただきます」


 ユハは娘に一礼すると、茶を受け取った。口をつけると、一口飲む。良い香りと甘さを伴った潤いが、体に染み込んでいくようだった。思わず、大きく息を吐き出す。次の瞬間、お腹が小さく音を発した。顔に血が上る。


「ああ、お腹もすいてるのね。仕方ないわ。ずっと眠っていたもの」


 アティエナはシェリウと顔を見合わせると、笑う。


「少し待っていてね。何か食べる物を用意させるから」

「はい……」


 気恥ずかしさをごまかすために、うつむき加減に茶を飲んだ。


「ユハ、本当にありがとう」


 一息ついたユハに、アティエナが真剣な表情で言った。


「そんな。当然のことをしただけですよ」


 ユハは答える。アティエナは、そんな彼女を見詰めて、目を伏せた。


「あなたを守るために当家に来てもらったのに、危ない目に合わせてしまった。ユハ、どうか、私を許してください」


 アティエナは、両手を組むと、深く頭を下げた。ユハは、慌ててアティエナの肩に手を置く。


「アティエナ様、そんな風に謝らないでください。あんなことが起きたのは、アティエナ様のせいじゃないもの」


 ユハの言葉に、アティエナは顔を上げた。涙をたたえた目で自分を見るアティエナに、頷いてみせる。


「私を許してくれる?」

「許す、許さないもありません。アティエナ様。あなたには何の罪もないのですから」

「……本当に、ありがとう」


 アティエナは、再び、そして強くユハを抱擁した。


 きっとこの人は、ユハが眠っている間、ずっと自分を責めていたに違いない。ユハは、彼女の誠実さが嬉しくて、自らもまわした腕に力を込めた。


 二人が笑顔で頷きあった後、使用人の娘が進み出ると口を開いた。


「私もあなたに救われました。御慈悲を感謝いたします。聖女様」 

「せ、聖女?」


 恭しく言う彼女の言葉に、ユハは思わず驚く。


「はい。あなたは、偉大な癒し手。慈悲深き聖女です」

「そ、そんな、いくらなんでも大袈裟です!」 


 ユハは必死で否定する。


 聖人、聖女はその功績や力によって聖王教会が認定するものだ。自分で勝手に名乗って良いものではない。自称聖人がどんな目にあうのか、ユハはよく知っている。良くて懲戒。破門、異端審問という恐ろしい運命も待ち構えている。たとえ好意から出た言葉だとしても、僧職にある身としては、決して受け入れることが出来ない呼称だった。


 娘は、真剣な表情で答える。


「でも、皆、言ってます。あんな凄い癒し手なら、きっと聖女に違いないって」

「そのような呼び名は、教会が決めることです。信徒が勝手に呼ぶことは許されていないんですよ。もし僧が自分で名乗っていると誤解されてしまえば、その僧に何の落ち度がなくても、処罰されてしまうかもしれません」


 シェリウが顔を顰めて言う。そのたしなめるような口調に、娘は恥じ入ったように一礼した。


「申し訳ありません。あの……、とても感激してしまって、何も考えずにそのような愚かなことを言ってしまいました」


 彼女が自分を尊敬の念とともにそう呼んでくれたことは、とても嬉しく思える。そのため、恐縮する娘を見て、自分も申し訳なく思えてくるのだった。


「いいのよ。あの時のユハは、本当に聖典に出てくる聖女様みたいだったもの。そう思っても仕方ないわ。でも、本当のユハは、そんな立派な人じゃないのよ」


 アティエナが、明るい表情で娘に頷いて見せた。そして、ユハを見る。


「ユハは、お菓子が大好きな、普通の女の子なの。……ね?」


 からかうような笑みとともに、彼女は首を傾げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る