第9話
あの日、アトルは奇跡を見た。
恐怖と苦悶の闇に沈んだあの場所で、その少女は希望の道標として輝いていた。
それは比喩などではない。文字通り、彼女は輝いていたのだ。
柔らかで暖かな淡い光。ユハはその身にそんな光をまとっていた。負傷者を癒す彼女を見て、アトルはその光を感じ取った。
重傷者すらも次々と癒していく彼女の姿は、まるで聖典の一節を描いた絵画のようだった。使用人たちが密かにユハを聖女と呼んでいることも理解できる。アトルでさえ、思わずそう呼んでしまいそうになる。
異国からやってきた客人たちの驚きも大きかった。ファーラフィですら、驚きを隠さずにユハの起こした奇跡を見ていたほどだ。事態が落ち着いた後の彼らの質問攻めにも、アトルはまともに答えることが出来なかった。彼自身、ユハはナタヴの毒を消した優れた癒し手としてしか認識していなかったからだ。元の雇い主であったヤガンは、賢明なことに、口を噤んでディギィルやファーラフィの問いを傍らで聞いているだけだった。というよりも、ヤガンもそこまでユハたちの素性を知っていたわけではないらしい。
異様なのは、ナタヴの様子だった。
ナタヴは、繰り広げられた奇跡の後、誰にも話を聞かれない場所にアトルを連れ出した。あの時のナタヴの表情は、長年の付き合いがあるアトルも初めて見るものだった。熱に浮かされたような様子のナタヴは、襲撃のことについてではなく、真っ先に、ユハについて話し始めた。彼女を褒め称え、そして、秘事を打ち明けたのだ。
今の大聖堂にいるのは、聖女王ではない。その言葉は、善き信徒としての信仰心を揺るがしかねないものだったが、続くナタヴの言葉を聞いて、アトルはそこに希望を見出すことができた。
当初、なぜナタヴがあの二人の修道女にこだわるのか理解できなかった。いくら命の恩人とはいえ、素性も知れず、聖王教会に追われているのだという娘二人を保護し、自分の館に逗留させる。この微妙な時期にあまりに危険だと思ったものだ。
若い頃、ナタヴは随分と色を好んだという。アトルは、彼に色欲という悪い病が再発したのかと邪推したほどだ。
しかし、打ち明けられた秘事を聞いて、全てを理解した。
彼女は、今のシアートに欠くべからざる人物なのだと。
そのナタヴは、アトルに後事を託してアタミラに帰った。
敵が本気だと分かった以上、シアートも本腰を入れて立ち向かわなければならない。真の敵を見極めて、迎え撃つ。そのために、ナタヴはあらゆる手段を使うだろう。
ナタヴは、眠りについたままのユハを守り、再びアタミラに連れ帰るように命じた。それはお前の命よりも大事なことだ、と言って。都の商人として生きてきたアトルにその覚悟を持つことは難しかったが、聖王教徒としての信仰心が力を与えてくれる。
五日前の惨劇、そして、その後打ち明けられた秘事。
アトルの見ている世界は大きく変わってしまった。しかし、そのことによって大きな決意と意欲も湧いている。この逆境を乗り越えることによって、ウル・ヤークス王国は新たなる栄光の時代を迎えるに違いない。この変貌の時代に、自分は大きな役割を演じることができるのだ。そう。聖典に記された賢人たちのように。
アトルは、隣で珈琲を飲んでいるヤガンに顔を向けた。
「ヤガン、君は本当に不思議な男だな」
突然の言葉に、ヤガンは面喰った様子でアトルを見る。
「どういう意味です?」
「イールムやエルアエルからの客人。そして、偉大な癒し手。君は、我々シアートの元に、様々な
「ウァナギムというのは誰ですか?」
「偉大なる聖人だよ。小さな村から旅立った聖女王の師として、友として、行き先を示し、様々な賢人、英雄を彼女の元に導いた」
ヤガンは杯を置くと、大きく肩をすくめた。
「異教徒の俺には過分な褒め言葉ですね。俺は何もしてません。すべては黒石が導いた運命の風のおかげです」
「ほう……、黒石というのは随分と力をもっているのだね」
アトルは笑みを浮かべると、からかうように言った。
「そんな奇跡をもたらす石ならば、戦を起こしてでも手に入れようとするのも納得できる」
ヤガンは、アトルの言葉に、真剣な表情になった。
「ウル・ヤークスは、黒石についてどう考えているのですか」
「元老院では交易についての議題がほとんどで、黒石については殆ど取り上げられることはなかったんだ。大きな魔力を持ち、聖導教団の研究を助けるだろう、という報告くらいだったな。おそらく、黒石を欲しがっているのは聖導教団だろう」
「聖導教団……。あの、気味の悪い魔術師が大勢所属している団体ですね」
そう言ったヤガンの表情に微かに怯えの色がある。アトルは頷いた。
「とても歴史の古い組織だ。ウル・ヤークスが建国される前からこの地に存在していた。古の魔術を研究しているという。といっても、我々は、彼らが何をしているのか、殆ど理解していない。時々、その魔術によって恩恵がもたらされるくらいだな。そして、その恩恵を最も受けているのは、軍だろう」
「軍……。つまり、戦に協力しているということですか」
「ああ、そうだ。沙海への遠征にも、聖導教団は同行している。おそらく、君の同胞は、聖導教団の魔術師にも苦しめられているはずだ」
ヤガンの顔が歪んだ。恐怖と、そして怒りか。アトルは彼の苦悩を察しながら、言葉を続ける。
「だからこそ、ヤガン。我々は一刻も早く戦を止めなければならない。敵があそこまで手段を選ばないのならば、我々もそれに対抗しなければ敗北するだろう。これまで以上に、力を貸して欲しい」
「勿論ですよ。我々は……、同じ船に乗る、ですね?」
「ああ、そうだ。共に風を受け、海に乗り出すのだ。渦巻く海も、荒れ狂う嵐も、瑞々しい葡萄の房も、そして彼方にある希望の地も、我らは共に望む」
おそらくヤガンには理解できないであろう教典の引用とともに、アトルは彼を見つめた。ヤガンは厳しい表情で深く頷く。
「そして、最後に勝利するために、我々に欠かせないものがある。それは……、ユハ殿だ」
「ユハが? あの娘がどうして必要なのですか?」
ヤガンは、アトルの言葉に驚きの表情を浮かべた。
「それは、今教えることはできない。しかし、いずれナタヴ様から詳しく話があるだろう」
「あの癒しの力ですか?」
「いや、それだけではないよ。確かに、あの癒しの力は素晴らしいが、それはユハ殿の本質の一つの要素にすぎない」
アトルは、微笑むとヤガンの問いを否定した。ヤガンは息を吐くと小さく頭を振る。
「私には恐ろしく感じました。あの癒しの力は、尋常なものじゃない。まるで、黒石の祝福だ。あんな黒石のような力を人が持っているとは信じられません。まさか、ユハにあんな力があるなんて思いもしませんでしたよ」
「彼女を恐ろしく感じたのならば、ある意味で、それは正しい」
ヤガンの直感に感心しながら、アトルは頷いた。
「どういう意味です?」
「その恐ろしさも、ユハ殿の秘めた本質だからだ。すまないが、今は、これ以上のことは言えない。アタミラに戻り、敵に備えよう。その時、ナタヴ様が全てを教えてくれる」
「分かりました。その時を楽しみにしておきますよ」
ヤガンはおどけた表情で、大袈裟な手振りで両手を挙げた。
「アトル様。ユハ様がお目覚めになったようです」
部屋に入った使用人の男が、アトルに告げる。
「そうか。……良かった」
アトルは、安堵の溜息をついた。
「イラマールに帰ろう」
シェリウは、ユハの耳元で小声で言った。
アティエナは、使用人とともに部屋を出て行った。ここにいるのは二人だけなのに、そこまで用心深く振舞うシェリウに驚く。
「ここから、イラマールに帰るってこと?」
「そうよ。もう、アタミラの監視の目はない。河からは離れているけど、街道を繋いでいけば良い」
同じように小声で問うユハに、シェリウは頷いた。
「でも、挨拶もせずに帰るなんて、ナタヴ様に失礼だよ」
「ユハ……」
シェリウは厳しい表情でユハを見つめた。
「このままだと、あんたは巻き込まれてしまう。もう、片足を突っ込んでるけど、まだ間に合うわ。私たちは、一刻も早く、ここから去らないといけない」
「確かに酷い目にあったけど、そんなに急がないといけないの?」
「ユハ、あんたは分かってない」
シェリウは頭を振る。
「あんたは、シアートの人たちの今の状況を、あくまで部外者のつもりで考えている。でも、違うの。このままだと、あんたも当事者になってしまう。それどころか、この争いの渦の、中心に立たされることになるのよ」
「それは……、どういう意味?」
ユハは、彼女の言いたいことが理解できず、首を傾げる。
「ナタヴ様は、教会の隠している秘事について知っていると思う」
「聖女王陛下が、偽者だってことを?」
シェリウの言葉に、ユハは驚きの声を押し殺しながら聞く。
「そうね。きっと、それ以上のことも。多分、このままだと、この国で何か大変なことが起こる。ナタヴ様は、それに備えるつもりなのよ。そして、その為に、……ユハ、あんたが必要なの」
「どうして私なんかを必要とするの?」
自分のような一介の修道女がシアートの長老にどうして必要とされるのか。ユハには理解できない。確かに、癒しの技は優れているかもしれない。しかし、それだけでこんな一人の娘を国の大事で必要とするだろうか。シェリウは逡巡の表情の後、何かを断ち切るかのように大きく頭を振り、ユハを見つめた。
「……あんたが、分かたれし子だから」
「分かたれし子?」
聞いたことのない言葉に、ユハは問い返した。シェリウは、決意に満ちた表情で頷くと、居ずまいを正す。そして、おもむろに口を開いた。
「そう。あなたは、分かたれし子。聖女王陛下より分かたれし偉大なる力の
シェリウはまるで聖典の一節を読み上げるように、厳かな口調で言った。
告げられた言葉の意味を理解できなくて、ユハは目を瞬いた。聖女王の力の
暫くの沈黙の後、ようやくユハは口を開いた。
「……シェリウ、もっと詳しく教えて」
シェリウは深く頷いた。
「勿論、教える。でも、今は一刻も早くここを去らないといけない。このままだと、逃げられなくなる。きっと、ナタヴ様は、あんたが分かたれし子だと知っているわ。だから、絶対にあんたを逃がさない。これから起こることに、あんたの存在が必要なのよ」
「私を、……分かたれし子を利用して、何かをするってこと?」
「それはあたしには分からない。でも、ナタヴ様はあんたをいいように使ってやろうなんて考えていないと思う。あの人は、多分、自分のすることがあんたの為になると信じている。そんな気がする」
「私の為……」
ユハは呟く。ナタヴは、ユハの中に何を見ているのだろうか。彼女はただイラマールに帰りたいだけだ。しかし、ナタヴは良かれと思って、ユハにそれ以外の何かを用意しようとしている。それは私には必要ない。彼にそう説明したかったが、それももう難しいだろう。
「ユハ! お待たせ!」
重苦しい沈黙に沈んでいた部屋に、朗らかな少女の声が響く。二人は弾かれたように顔を上げた。
「どうしたの? 顔色が悪いけど、大丈夫?」
アティエナは、二人を気遣う。その手に盆を持ち、そこには湯気を立てた麦粥が載っていた。
「無理もない。あんな恐ろしいことがあったのだからね。今になって恐怖が蘇っても不思議ではないよ」
傍らに立つアトルが言った。
「そうですね。ユハは、一人で頑張ってくれたから、怖がる暇もなかったものね」
アティエナは笑みを浮かべ頷いた。そして、ゆっくりとユハの前に盆を置く。
「お腹がへったでしょう? いきなり重たいものを食べるのも良くないから、まずは麦粥からお腹に入れてね」
「ありがとうございます」
ユハはアティエナに一礼した。ユハがここを去り難い理由の一つに、アティエナの存在がある。彼女の友誼を置き去りにして突然去ることが、ユハには躊躇われてしまうのだ。
アティエナとアトルは、二人の前に座る。そして、アトルはユハを見つめて言った。
「ユハ殿……。一度ならず、二度までもシアートを重大な危機より救ってくださり、本当に、ありがとうございます」
深々と頭を下げる。
「いえ……、きっと、あの時、あそこに私がいて、ああなったことは、決められていたことなんだと思います」
あの惨劇を体験し、シェリウの話を聞いた今、なぜかそんな思いがある。
アトルは、ユハを驚いた表情で見やった後、小さく頷いた。
「アトル様。私たちはここからイラマールに向かいます」
シェリウが、身を乗り出すと強い口調で言った。
「もう行ってしまうの?」
アティエナが悲鳴のような驚きの声をあげる。その声は、ユハの心を棘のように刺した。
アトルは、二人を見やると口を開く。
「道中は危険です。アタミラでしっかりと旅支度をし、護衛をつけましょう。それに、ナタヴ様が恩人であるあなた方に別れの挨拶をすることも許してくださらないのですか?」
微笑むと、首を傾げる。傍らのアティエナが、顔を輝かせて何度も頷いた。
「そうです……、そうですよね、アトル様。ユハ、シェリウ、そうしていって。あなた達が危ない目にあうなんて絶対嫌だもの」
「私たちは、十分にお世話になりました。これ以上、ご迷惑をおかけするわけにはいきません」
シェリウは、二人の言葉を断ち切るように言う。
「迷惑などとは思っていませんよ」
アトルはその言葉を受け流すように、ゆっくりと頭を振った。
「私はナタヴ様より、あなた方をお守りして、アタミラまでお連れするように厳命されています。こんな所であなた方を放り出すような粗略な扱いをしてしまえば、ナタヴ様に叱られてしまいますよ」
「でも……」
言い募ろうとするシェリウを手で制して、アトルは深く頷く。
「大丈夫ですよ。シアートの兵は、ユハ殿を敬愛し、忠誠を誓っています。命を懸けてあなた方を守り、その盾の輪の中に、決して何者も近付けません」
そう言って背後を振り返る。部屋の入り口から、廊下に佇む兵士たちの姿が見えた。
「遅かった……」
シェリウが呟く。
本当に、この人たちは、私を手放すつもりはないのだ。ユハは悟り、愕然とした。
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