第13話
道は、キシュガナンの人々の主要な往来の道であるという。しかし、ウル・ヤークスの街道のような、整備された平坦なものではなく、鬱蒼とした森林の只中を無理やり切り開いた、大きな石や土が向き出しの道だった。もし雨がふればあっという間に泥沼に変わるだろう。人々が行き来を止めればあっという間に草木に覆われてしまうに違いない。
ウル・ヤークスの乾いた大地とは生命の密度が圧倒的に違う。シアタカは感じる。木々の葉が風でこすれ合う音。濃密な土と草の匂い。名も知らぬ鳥や虫の鳴き声。それらはシアタカの五感やそれ以上の何か不思議な感覚を激しく刺激する。
前を歩くカナムーンの尾が優美な動きを見せる。この地に下りてきてから、カナムーンは心なしか生き生きしているようにも思えた。以前、カナムーンは、鱗の民は元々、水辺の民だと語っていた。乾き切った沙海よりも、キシュガナンの地がより向いているのだろう。
頭上の木々が陽光を遮り、昼でもなお薄暗い。峠道を登りきった所で、唐突に視界が開けた。
山々の間に、広い谷が広がっている。谷の中央には大きな川が流れており、それを中心として平地が広がっている。山々と比べて明らかに開拓されたそこには、畑や小屋が点在していた。川の向こう側で昇る煙が見える。焚き火で何かを燃やしているようだ。
「キセの塚だ」
ウァンデが言った。その短い言葉に、シアタカはウァンデを顧みる。
「塚? あの小屋がそうなのか?」
「いや、違う。向こうの山のほうだ」
ウァンデは苦笑すると、左手を向き彼方を指差す。ゆるやかな曲線を描いた谷の斜面だ。川を渡る必要はないが、ここから平野をしばらく歩かねばならないだろう。シアタカは目を凝らすが、そこには木々や岩が入り混じった山々しか見えない。
ウィトが驚きの声を上げた。シアタカはウィトに顔を向ける。
「どうしたウィト、何か見えたのか?」
「あの岩山です、騎士シアタカ。山肌に穴が開いています」
「岩山に穴?」
確かにここから見ると、白褐色の大きな岩山が見える。しかし、遠いために何があるのかよく見えない。遠目がきくウィトと自分とでは視力が違いすぎる。
「歩いていれば分かるさ。さあ、行こう」
ウァンデは笑うと、手で促した。
山道を谷へと下る。
谷を渡る風は肌に優しい。日差しも暖かく、山々の緑を輝かせている。
「カラデアや、サラハラーンに比べたら、ここには、何もないでしょ」
アシャンが自嘲を含んだ言葉で言う。
「いや……、それでもかまわない」
シアタカは答えると、目を細めた。それは、アシャンを気遣った言葉ではない。
これまでは、綿密な人の意思と知性によって設計された風景こそが、美だと教えられてきた。そして、シアタカはそれを信じてきた。しかし、今、彼の世界を感じる感覚は変貌している。無数の生命のせめぎあいから生まれる、無造作な風景に、美を見出すことができたのだ。
だからこそシアタカは、アシャンの言葉に、愛想などではない、感嘆の感情をもって答えた。
「気に入ってくれたら嬉しいな」
その答えに、アシャンは微笑む。
「ああ、とても良い所だ」
心から同意したシアタカは、しばらく谷の風景を眺めていた。アシャンが、そしてエンティノも並んで立つ。
「故郷を思い出すな……」
エンティノが呟くように言った。
「エンティノの故郷もキセの塚に似てるの?」
アシャンの問いに、エンティノは微笑んだ。
「こんなに暖かくはないけどね。冬が長い土地だから」
「冬かぁ……。寒くて雪が積もるんだよね?」
「そう。私の故郷は、ここからとても遠い、北の土地にある……。岩が剥き出しになったとても高い山々。深い森に、膝まで積もる雪。夜になると、鹿の鳴き声や狼の遠吠えが聞こえるの。真冬の雲のない夜は、月がとても綺麗なんだ……」
シアタカは、遠い目で静かに語るエンティノを見る。彼女が故郷を襲撃されて奴隷として売られたことは知っている。しかし、その時のことを詳しく聞いたことはない。エンティノが話すことはなかったからだ。今の彼女は、この谷の向こうに、幼かった頃の光景を見ているのか? シアタカは、こんな目をしたエンティノを見たことがなかった。
「何やってんだ、さっさと歩けよ」
先に坂を下っていたハサラトが、呆れた様子でシアタカたちを振り返った。
「感傷にふけってたのよ。うるさいな」
我に返ったエンティノは、ハサラトを睨み付ける。
「感傷だぁ? よくそんな言葉、知ってたな」
ハサラトが笑い声を上げた。
「この野郎、馬鹿にしたな!」
エンティノが槍を掲げると駆け出す。
「おっと、おっかねえのが来た」
ハサラトがおどけた表情で逃げ出した。
アシャンがそれを見て笑う。シアタカも、つられて笑みを浮かべた。
平野に降り立ったキシュが、柑橘類を思わせる強い刺激臭を発した。近くを歩いていたラゴが、その匂いを嗅いだせいなのか、悲鳴のような声をあげる。
「何か、危険があるのかね?」
カナムーンが微かに擦過音を発しながらアシャンに顔を向けた。
「違う違う、群れからはぐれた小群が、自分の位置を原群に知らせているんだよ」
その声に警戒を感じ取ったアシャンは、慌てて手を振った。
「キセの塚の他のキシュに知らせているということですか?」
サリカの言葉に、アシャンは頷く。
「風が塚のほうに吹いてるからね。自分たちが帰ってきたことを知らせてるんだ」
「なるほど、キシュの声なのですね」
サリカは感心した様子で何度も頷く。
「ウァンデ、それにアシャンじゃないか、帰ってきたのか!!」
畑仕事をしていたキシュガナンの人々が、驚きの声とともに続々と一行の元へ集まってくる。
「何とか帰ってこれたよ。他の皆はもう帰っているのか?」
ウァンデの問いに、人々は頷く。
「ああ、無事に帰ってこれた。アシャンが恐ろしい奴らにさらわれたと聞いていたが……、無事でよかった」
皆は、笑顔でアシャンの肩を叩く。大勢に肩を叩かれて、アシャンの体は右へ左へと翻弄される。正直に言って止めて欲しかったが、皆の好意を感じて為すがままになった。
「まあまあ。皆、アシャンは疲れている。そこまでにしてくれないか」
ウァンデはその大きな体をアシャンと人々の間に捻じ込んだ。皆、頷くとアシャンから離れた。
「ところで、こいつらは何だ?」
皆の視線がシアタカたち異邦人に向けられる。キシュガナンの言葉が分からないウル・ヤークスの者たちは、黙って成り行きを見ている。カナムーンはキシュガナンの言葉を知っているが、口を挟むことはない。
「ああ、アシャンを救い出す時に力を貸してくれた客人たちだ」
ウァンデは振り返ると一行を手で示した。
「へえ、鱗の民か……」
「狗人もいるぞ」
「すごいな、金色の髪の女だ」
「灰色の肌の人間なんているんだな」
「こいつは、鎖を編んだ鎧をきているのか」
「細い槍だな」
人々は一行を見ながら賑やかに言葉を交わす。彼らにとって鱗の民や黒い人々は、時折この地を訪れる馴染みあるものだったが、狗人を見た事のある者はほとんどいない。エンティノのような白い肌に金色の髪、ウィトのような鉛灰色の肌などは、初めて目にするものだった。
エンティノを見れば、微かに眉間に皺が寄っている。見世物になっているような状況が気に入らないのかもしれない。
「みんな、長老たちに色々と話さないといけないことがあるんだ。急いで帰りたいから、行かせてくれないかな」
取り囲まれてしまった現状に焦れたアシャンは、強い口調で言った。
「ああ、そうだな、アシャン」
人々は頷くと一行に道を開ける。彼らは歩き始めた。
歩むに連れて、それは存在感を増していく。
そびえ立つのは、巨大な岩山だ。白褐色の壁のような滑らかな斜面には、岩肌に張り付くように張り出した回廊や階段がまるで彫刻のように刻まれ、無数の穴が穿たれている。そして、その中でも特に巨大な穴が岩肌にぽっかりと大きな空間を生み出している。そこには、石積みの建築物が幾つも建てられていた。
穴からは炊事のためか、煙が漏れている。巨大な穴や階段を、人々やキシュが行き来していた。
「あれは……、岩山に穴を掘ったのか?」
ハサラトは、驚きの表情で問う。
「そうだ。先祖が代々、キシュの顎と酸、それに、
ウァンデが自慢げに答えた。
「気が遠くなるな」
ハサラトは頭を振る。
見れば、キセの塚から大勢の人々、そしてキシュがこちらにやって来る。すでに、アシャンの傍らにいるキシュたちは、原群のキシュと様々な情報のやり取りを始めていた。行き交う複雑な匂いと音を意思として感じ取りながら、迎えに出てきた人々を見る。彼らも、キシュの知らせによって、アシャンが戻ったことを知っているのだろう。
弦楽器や打楽器が激しい音を鳴らし、歌と踊りとともに人々が一行を出迎える。
だが、すぐにシアタカ達に気付いたのだろう。隊商の一員だった戦士たちが、大声で演奏を止めさせた。戦士たちは怒りの声を上げて、大槍を手に一行の元に駆ける。
「ウァンデ! なぜこの裏切り者を連れている?!」
ウァンデが大きく手を広げ、進み出た。
「シアタカの罪は償われた! 命を懸けてアシャンを救ってくれたんだ! 嘘だと思うならば、キシュに聞け!」
「信じられん!」
「ウァンデ、お前もウル・ヤークスの
戦士たちは鋭い視線とともに大槍を構えている。ウァンデは戦士たちを睥睨しながら叫ぶ。
「そんな馬鹿なことがあるか! シアタカは、それに彼らは客人だ! キセの塚は礼を持って客人を迎える。切っ先を突き付けて出迎えるなんて戦士にあるまじき非礼はよせ!」
殺気立った戦士たちの様子に、エンティノとハサラトの表情が消えた。そこに微かに殺意を感じ取って、アシャンは狼狽する。自分たちの分からない言葉で怒鳴られながら槍を向けられては、警戒するのは当然だ。幸いなことに、シアタカは未だ平静を保っている。戦士たちに触発された紅旗衣の騎士たちが武器を構えてしまっては事態は悪化してしまうだろう。最悪の場合、多くの死人がでることになる。もしシアタカが刀を抜いたら……。想像してアシャンは震えた。
「頭を冷やせ、戦士たちよ!」
鋭いルェキア語の響きが、戦士たちの言葉を遮った。その男の声に、戦士たちは口を噤む。
不安げに推移を見守っていた人々の中から、一人の老人がキシュを一頭伴って進み出る。
その老人は、杖をついているが、しっかりとした足どりだ。その目は白濁して光を宿していないが、大小の石が転がる大地を危なげなく歩いている。
「長老!」
アシャンは、喜びのあまり、思わず叫んだ。
「良くぞ戻ったな、アシャン」
長老は顔を微かに左右させながら、まるで見えているようにアシャンに歩み寄ると、その肩を優しく叩いた。
「怪我も病もない。健やかなようだ。うん、何より、何より」
長老は満足気に頷くと、シアタカたちに顔を向ける。
「キシュに聞いた。キセの塚の愛し子を遠方より守り届けてもらい、感謝する。はるか東の地より来た客人たちよ」
長老は訛りの強いルェキア語で言う。
「いや、そもそもアシャンを災いに巻き込んだのは私のほうだ」
シアタカの答えに、長老は笑みを浮かべた。
「災いの主はお前ではない。尖兵にすぎないお前が謝る必要はないぞ。それよりも、アシャンを救い、味方になってくれたことが、何よりも大きなことだ」
言いながら、シアタカの前に立つ。シアタカは、困惑した表情で長老を見ている。盲いた目でどうして自分のところまで歩いてこれたのか驚いているのかもしれない。
長老はシアタカの肩を叩くと、大きく頷いた。
「良き戦士だな。なるほど、ウァンデも認めるはずだ。それに……、妙な匂いもするな。まじないが体に混じっているのか? まったく、外つ国の者は実に興味深い」
シアタカから一歩離れると、顔を少しだけ上げながら、左右に振る。
「これはまた、大勢の
長老はそう言って小さく笑い声をあげた。
「長老……、彼らを客人として認めていただけますか?」
ウァンデの問いに、長老は大きく頷く。
「もちろんだ、ウァンデよ。救い手たちを客人として迎えない理由はない。キセの者は、恩義を知る者だからな。そして、何よりもキシュが喜んでいる」
答えた長老は、一行を取り囲んでいる戦士たちに顔を向ける。戦士たちは小さく一礼すると、構えていた槍を立てて引き下がった。アシャンは、思わず安堵の溜息をもらす。
「さて……、大いなる旅を終えた者たちよ」
長老はアシャンたちに向き直った。
「お前たちは旅塵にまみれ、疲れきっている。塚に悪しきものをもちこんではならない。まずは川で身を清めるがいい。その後で、我らが塚に迎えよう」
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