第12話
「風の匂いが変わった」
カナムーンが鼻先を天に向けたまま言った。同じように天を向いたラゴが、同意のつもりだろう、一声鳴く。
「気付いたか。風が水を含んできただろう? 故郷の匂いだ」
ウァンデは嬉しそうだった。アシャンも喜びを隠していない。キシュの触覚も、これまで以上に細かく動いている。
故郷というのは、そんなに人を幸福にするものなのだろうか。ウィトにとって、幼い頃の記憶は不毛の赤い砂漠の天幕だ。確かにあの土地でウィトは生まれ育ったが、そこに残されたのは悲しい記憶だけだ。そして、シアタカに救われてサラハラーンに暮らすようになった。あの街で、初めて自分は生きていると感じることができた。もう一度サラハラーンに戻りたいが、シアタカは帰るつもりはないだろう。もし自分が再びサラハラーンにもう一度戻れたとして、同じように幸せを感じるのだろうか。あの街を故郷として感じるのか。ウィトには分からなかった。
山は登るに連れて気温が下がっていった。やがて、時折白い霧も漂い始め、斜面にはまばらに草木がしがみつくようにして生えている。
その日、一行はついに山の頂上を越え、道は下り坂に変わった。一行は坂を下ることなく、下界を臨む頂上で野営することにした。あとは、起伏の激しい山々を歩くことになるという。
何日も坂を登ってきた一行は、疲労と安堵からか、口数も少なく体を休めている。枯れ木や枝を使って焚き火を熾して、それを囲むようにして暖を取っていた。日が暮れ始めた山の頂上は、ひどく冷えた。カナムーンは、座り込んだ駱駝に身を預けている。やはり蜥蜴だから寒さに弱いのか? ウィトはその姿を横目で見ながら思った。
ウァンデが言うには、雨季には頂上には雪が積もるという。確かに、この寒さならば納得できる。ウィトは外套の頭巾をかぶると、砂漠とはまた質の違う、湿気を帯びた寒さに備えた。
エンティノの足の傷は、サリカが毎晩施す癒しの術で、完治した。これで一行は何の障害もなくキシュガナンの地へと下ることができる。あとは、この休息でどれだけ体力を回復できるかが問題だ。
ウィトは、忙しく夕食の支度をした。とはいえ、切り詰めた粗末な物に変わりはない。残りも少なくなっている。キシュガナンの地で何も手に入らなければ、すぐに食料は底をついてしまうだろう。アシャンが手伝いを申し出たが、ウィトはそれを断った。
つつましい夕食を終えた一行は、寝支度を始める。
やがて、西の山々の向こうへ日が沈んだ。
月が昇り、世界は暗黒に沈む。
この頂上から望む西の土地は、沙海とは随分異なる。槍の穂先のような稜線が無数に連なり、起伏に満ちた果てのない陰影を生み出している。暗い水面に沈んだ岩々を思わせる光景だった。振り返った先に広がるのは、月光を浴びて夜でもなお白く淡く輝く沙海だ。その砂原はまるで無限に広がる滑らかな一枚の白い絹布のように見え、キシュガナンの地の、隆起し波打つ大地が生み出す暗い景色とは対照的だった。
皆が眠りについて、ウィトとラゴが最初の見張りになった。彼らは、皆が焚き火を囲んで眠っているくぼ地よりも少し高い岩の上で焚き火を熾し、周囲を見回している。キシュも野営地の三方にたたずみ、警戒にあたっていた。あの蟻たちはいつ眠っているんだろう。ウィトはふと思った。
眠っている一人が、身じろぎすると起き上がった。顔をこすりながら、こちらに歩いてくると、ウィトやラゴと共に焚き火に向かって座る。眩しげに目を瞬かせているのはアシャンだった。
ウィトは無言で彼女を見やり、視線を焚き火に戻した。
ラゴがアシャンに向けて優しげな鳴き声を発する。アシャンはラゴに顔を向けると微笑んで頷いた。
「なんだか眠れなくて」
アシャンはウィトを見て言った。ウィトは答えることなく小さく頷く。
「うぅ……、寒いね。沙海の夜も寒かったけど、やっぱり山の上は寒いなぁ」
アシャンは身を震わせると己をかき抱くように両手を交差させて肩を握る。ウィトは小さく溜息をつくと、口を開いた。
「あんまり喋ると、目がさえて眠れなくなるぞ」
「どうせ次が見張りの順番だし、起きてるよ。そのうち、眠くなるでしょ」
アシャンが笑顔で答える。ウィトは舌打ちした。
「それで見張りの最中で居眠りしたらどうするんだ」
「シアタカに起こしてもらおうかな」
おどけた口振りのアシャンは、見張りの時に相棒となる者の名を口にした。
「お前は……、そこまで騎士シアタカに頼るつもりなのか」
ウィトは、腹立たしくてアシャンを睨み付ける。眠っている者たちに配慮して、声を抑える程度にはまだ自制できているが、笑顔を浮かべるアシャンに対して怒りが沸々と湧き起こってきた。満たされた者がもつ余裕は、ウィトの心を激しく刺激する。
「ご……、ごめん、冗談のつもりだったんだ……」
アシャンは、その視線に怯んだ様子で、謝りながらうつむく。
怒りは収まらない。ウィトは唸るように言葉を続ける。
「お前のせいだ。お前のせいで、騎士シアタカはすべての名誉を失って、こんな所を歩いている」
ウィトの言葉に、アシャンは顔を上げた。そして、真剣な表情で口を開く。
「そうかもしれない。でも、私はきっかけに過ぎないと思う」
「きっかけ?」
「シアタカの心の奥底には、暗くて冷たくて恐ろしい何かがいる。それが、シアタカを苦しめてる。きっと、シアタカは、私がいなくても、その苦しみのせいで紅旗衣の騎士をやめたんじゃないかな……」
アシャンは、そう言って己の胸元を掌でおさえた。
「どうして何もかも分かったようなことを言えるんだ。騎士シアタカのことなんて、何も知らないくせに」
この訳知り顔で言う娘に対して、怒鳴りそうになる自分を何とか抑える。
「観えるからだよ」
アシャンははっきりとした口調で答えた。
「観えるだって? そんな適当なことをよく言えるな、この嘘つきめ」
押し殺した、怒りに満ちた声が溢れ出す。
「嘘なんかじゃない」
アシャンは激しく頭を振った。
「本当に私は観えるんだ、ウィト。信じてよ」
「信じられるものか」
悲痛な表情を浮かべたアシャンから顔をそらす。
ラゴが、喉の奥で声を鳴らした。聞いたこともない奇妙な鳴き声に、二人は思わずラゴを見る。
ラゴは胸や鼻を指しながら複雑な手振りをする。そして、最後に天を指差しながら顔を上げた。
「何て言ってるの?」
アシャンは、ウィトに顔を向けた。ウィトは、アシャンを見ることなく答える。
「『深く息を吸い、風の匂いをかぎ、空を見上げろ』。どういう意味だ?」
「キシュみたいなことを言うんだね」
アシャンは嬉しそうに笑う。その口振りから、彼女がラゴの言葉を理解していると感じて、思わずアシャンに顔を向ける。
「意味が分かるのか?」
「うん。落ち着けって言ってるんだよ。そうだよね?」
アシャンの言葉に、ラゴは大きく頷いた。
ウィトは、馬鹿馬鹿しくなって大きく息を吐いた。アシャンに何が観えようともどうでもいいことだ。シアタカが彼女を大切に思っていることは変わらないのだから。少なくとも、怪しい魔術で彼を篭絡したわけではなさそうだが、アシャンの存在が、シアタカを変えてしまったことは確かだ。
「分かってもらえないかもしれないけど、本当に観えるんだよ」
アシャンは、懇願にも似た表情でウィトに言う。
「まだその話を続けるのか。もういいいよ」
「ううん、良くない。ウィトには分かって欲しいんだ」
溜息とともに答えたウィトに、アシャンはさらに言い募る。ウィトは口を噤んで彼女を見た。
「私は、その人の中にあるものを、感じることができるんだ。もちろん、とても曖昧なものしか感じることができないけれど、シアタカの中にあるものは、はっきり分かる。その暗くて冷たいものは、とても強くて、怖いほどなんだ」
その視線は、一瞬、眠っているシアタカに向けられたが、すぐにウィトを見据える。
「でも、私は観ることしかできない。ウィトの目がとても良いことや、ラゴの鼻がとても良いようなもの。決して、シアタカを救う力なんかじゃない。誰かを救えるような力じゃないんだ……」
話しているうちに泣き出しそうな表情を浮かべたアシャンは、うつむいた。
「もし、お前の話が本当なら、すごい力じゃないか。目がいいとか、鼻が利くとか、そんなもの比べものにならない」
ウィトは首を傾げた。アシャンの言う力は、まじない師や魔術師が使う術や、呪眼のような特別なものだ。どうしてそこまで自分を貶めるような言い方をするのか理解できない。
アシャンは顔を上げた。意を決したようにウィトを見つめる。
「私は……父さんを殺したんだ」
「殺した?」
その剣呑な言葉に、驚きの表情を浮かべる。アシャンは小さく頷くと言葉を続けた。
「私は、キセの塚の皆に、優れたラハシだと認められていた。私も、それを誇りに思っていた。私は優れた力で皆を助けることができる。そう思っていたんだ。そして、ある日、キセの塚は他の一族に襲撃された。私は、止められていたのに、父さんの力になろうと飛び出した。私の力が戦いの……、父さんの役に立つ。そう思ってたんだ……」
アシャンは口を噤むと、外套の胸元を強く握った。微かに震える手は、その布を強く引っ張る。アシャンは、おもむろに口を開くと声を絞り出した。
「でも、駄目だった。戦場は……、とても……、とても恐ろしい所で、私は何もできずに怯えて竦んでいた。怖くて……、本当に怖くて、キシュと心を通わせることすらできなかったんだ。そして、父さんは……、私を助けるために死んだ」
ウィトは、アシャンの目に滲んだ涙を見つめた。彼女は決して満たされた者なんかじゃない。自分が勘違いしていたことに気付いて、ウィトは舌打ちした。
「私の力なんて、小さな、何の役にも立たないものなんだ。大好きな人を助けることなんてできない。それを理解していなかったから、馬鹿なことをして、大切な人を殺してしまった……」
アシャンの目から涙が溢れ出る。ウィトは両手を広げた後、その掌をゆっくりと合わせた。アシャンはその仕草に戸惑ったのか、目を瞬かせる。
「『救いは、聖なる言葉によっては為されない。その言葉に導かれし善き心によって為される』。母さんが好きだった聖典の一節だ」
合掌したまま、ウィトは口を開いた。
「お前は言っただろう。騎士シアタカを助けて欲しいって。騎士シアタカが変わってしまう。それも良くない方向へ。お前はそう感じた。それは、私には分からなかった。騎士エンティノたちも……、きっと分からなかったのだろうと思う。私には、騎士シアタカは偉大な紅旗衣の騎士としか思えなかった。でも、本当は、騎士シアタカも救いを求めていたんだな……」
沙海の果てでの戦いの後、エンティノは泣いていた。その時の気持ちは、ウィトにも理解できるような気がしていた。
「そうだね……。きっと、シアタカは自分が救いを求めているなんて思っていないだろうけど」
「それが分かったのは、お前の力があるからこそだ。それがなければ、私たちには分からなかった。きっと、キシュガナンに魔術をかけられたと思い込んだまま、騎士シアタカに斬り殺されていただろうな。お前だけが分かった。お前の力は、騎士シアタカを救えるんだ」
言いながら、思わず自嘲の笑みを浮かべる。彼女の力は自分たちの命も救ったのだ。認めたくはないが、それは事実だ。そして、それはシアタカのために救われた命でもある。
「そうかもしれない……。でも、やっぱりきっかけにすぎないよ。ウィトのお母さんが言ったように、善き心を持った人がいなければ、人は救われない」
アシャンは弱々しく頭を振った。
「だから、エンティノや、ハサラトが……、そしてウィト、あなたがいてくれるから、シアタカを救うことができる」
頬に涙の痕を残したままのアシャンは、ウィトを見つめると深く頭を下げた。
「ありがとう、ウィト」
「私が騎士シアタカにお仕えすると決めたんだ。だから、お前に礼を言われる筋合いはない」
なぜか動揺してしまった自分を叱り付けながら答える。
「そうだね。だったら、私もお礼が言いたいから勝手に言うよ。本当にありがとう」
月光を浴びて涙の痕を
「ふん、勝手な奴だ」
頬が紅潮しているのを見られたくなくて、顔をそらす。
「……お前のことを憎むのは止めた。好きにはなれないけど」
暗い山々を見ながら、ウィトは呟くように言った。
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