第3話

「ああ、よく来てくれたわね」


 ふくよかなシアート人の女は、ヤガン、ユハ、シェリウの三人を見て、笑顔を浮かべた。


「ティムナ様、お招きいただいてありがとうございます」


 ヤガンが一礼する。ユハとシェリウもそれに続いた。 


「いえ、こちらこそ、あなた達を迎えることができて幸せに思うわ」


 ティムナは、笑顔でそう言うと礼を返す。


 三人は、ティムナと使用人に案内されて、館の中を歩く。


 ユハは失礼にならない程度に辺りを見回す。先日、エルムルアの儀が執り行われた館は、シアート人の集会所であったらしく、広いがひどく単純で簡素な造りの建物だった。それに比べてこの館は、さすがに名家の人々が暮らしているだけあって、凝った細工の調度品や装飾の施された柱などが見事だった。ウルス人の建物では見ることのできないその装飾を興味深く観察していると、パタパタと床を走る音が近付いてくることに気付いた。


「エールーア! フェウリーン! 良く来てくれたわね!」


 回廊の向こうから駆けて来たアティエナが、跳びつくようにユハを抱擁する。笑顔でユハを見つめると、続いてシェリウを力強く抱擁した。


「アティエナ! はしたない真似は止めなさい!」


 ティムナが顔をしかめて叱責する。


「ごめんなさい、お母様」


 そう答えるアティエナの表情は、言葉と裏腹で悪びれた様子はない。それを見て、ユハは思わず笑みを浮かべた。


「あの時は大騒ぎになって、ろくにお礼も言えなくてごめんね」


 アティエナは、ユハに顔を向けると言う。ユハは頭を振った。


「いいんです。それで、ナタヴ様のお加減はいかがですか?」

「お爺様は、お陰で元気になったわ。本当にありがとう」

「アティエナ。いい加減にしなさい」


 ティムナは、厳しい声とともにアティエナを見た。アティエナはさすがに表情を改めると、小さく頷く。


「行儀の悪い娘でごめんなさいね。さあ、こちらへどうぞ」


 ティムナは、ことさら丁寧な仕草で三人を一室に導いた。


 そこは、この大きな館の中ではそう広くない部屋だった。部屋の中央には見事な細工が施された背もたれのある座椅子が置かれている。その座椅子には老人が座っていた。老人は微笑を浮かべると、立ち上がって一行を出迎えた。


「ナタヴ様。本日はお招きいただき、感謝いたします」

「恩人を迎えるのだ。お前たちが礼を言う必要があろうか」


 ナタヴは大きく両手を広げると、頷いた。そして、己の席の対面に敷かれた絨毯を指し示す。


「さあ、何はともあれ、座って寛いでくれ。茶も運ばせよう」


 促された一行は、絨毯の上に座った。それを見届けたヤタヴは、部屋の隅に控えていた初老の使用人に合図した。使用人は、他の使用人から盆を受け取ると、ヤガン、ユハ、シェリウの前に進み出る。そして、盆をおろすとその上にあった三つの革袋を三人の前に置いた。美しい刺繍が施された革袋の紐を解いていき、三人の前で中を見せる。中には、金貨と銀貨がつまっていた。その輝きに、ユハは思わず息を呑む。


「これは……」


 ヤガンは呟くと、ナタヴに顔を向けた。


「さて、客人たちよ。これは儂の礼の証だ。まずはこれを受け取って欲しい」

「礼、ですか……」 

「そうだ。命の恩人に感謝の意を示すのは当然のことだろう」

「ありがたく受け取らせていただきます」


 ヤガンは一礼する。


「ただし、ヤガン。この金は三人にそれぞれ贈るものだ。この娘たちがたとえお前の使用人であろうとも、掠め取ることはならんぞ」


 ナタヴは、そう言うと、三つの革袋を指差す。ユハは、見たこともない数の金貨や銀貨に驚いていたが、自分の前に置かれた袋が他に比べて一回り大きい事に、今更ながら気付いた。


「もちろんです。私は、才のある者には正当な報酬を与えます」


 ヤガンは頷くと、ユハとシェリウを横目で見た。


「これはいただけません」


 ユハはナタヴを見つめて口を開いた。修道女として、当然のことをしたまでなのだ。寄付として金品を受け取ることもあるが、この金額は治療の報酬としてはあまりに法外だった。とはいえ、修道女としての良心が断る理由であることを口にすることはできないが。


「ありがたく頂戴しろ。これは正当な給金だ。あの時、お前は誰にも真似できない働きをした」


 ヤガンがユハに顔を向けると強い口調で言った。


「ヤガンの言う通りだ」


 ナタヴは頷く。


「あの……、私は何もしていませんが……」


 おずおずと、シェリウが手を上げた。


「黙って受け取れば良いものを。正直な娘だ」


 ナタヴはシェリウを見やり、笑う。指を一本立てて見せると、言った。


「儂は、怠け者には厳しい。働かぬ者には魚の骨すら与えぬ」

「では、なぜ?」


 シェリウは、首を傾げた。


「お前達は、西風と海鳥のごとく、別ち難いのだとアティエナが言った」


 立てた指はユハとシェリウを指差し、幾度か行き来する。その言葉に、ユハは思わずアティエナを見た。アティエナは、はにかんだ笑顔で頷く。


「お前たちは共に支えあってきた。アティエナはそう言うのだ。お互いに助け合ってきたからこそ、お前たちは強欲の病を患うこともなく、誠実の徳を備え、善き人でいるのだろう。ならば、お前も儂を助けてくれた力のひと欠片であるわけだ。儂が礼を言うのも当然のことだな」

「エールーア、フェウリーン、受け取ってあげて。受け取ってもらえないと、お爺様がすねてしまうわ」


 アティエナが笑いながら言う。ナタヴは苦笑しながら頷いた。


「分かりました」


 シェリウは、革袋を手に取ると、それを捧げ持ちながら一礼した。


「ありがたく頂戴します。エールーア、あなたも」


 シェリウはユハの顔を覗き込む。耳に馴染んでいない己の偽名に一瞬戸惑いながら、ユハは頷いた。


「本当に、ありがとうございます」


 ユハは深く一礼した。


「礼を言うのは儂の方だ。お前はただ受け取ればよい」


 ナタヴは鷹揚に頷いた。


「これで収まるべき物はすべて収まったわね。さあ、皆で楽しみましょう」


 ティムナは笑みと共に二度、手を打ち合わせる。


 それを合図として、使用人たちは、次々と皿を運んでくる。皆の前には、色とりどりの果物や菓子に満ちた皿が並んだ。続けて、良い香りを漂わせる茶も置かれた。  

 

 菓子を口に入れたユハは、その甘さに目を見開いた。こんなにたっぷりと砂糖がきいた物を食べたことはない。その様子が可笑しかったのか、アティエナがくすくすと笑う。シェリウはと言えば、頷きながらも特に驚いた様子はなく菓子を食べていた。


「本当に、あの時二人がいてくれて良かった」 


 アティエナはそう言って笑う。


「そうね。一時はどうなることかと思ったわ」


 ティムナは大袈裟な安堵の表情とともに、胸を撫で下ろす仕草をしてみせた。それを見て、再びアティエナが笑い声をあげた。


「あれから、お加減はいかがですか?」


 ユハの問いに、ナタヴは笑いながら頷いた。


「お前の指示通りに薬湯を用意して服用したお陰で、すっかり調子が良くなった。医者や癒し手も、儂が毒で死に掛けたといっても信じようとしない」

「よかったです」

「実に……、実に優れた癒しの技だな、エールーアよ」 


 ナタヴは顎に手を当てると、身を乗り出して、覗き込むようにユハを見る。その顔から笑みは消えていた。


「いくら信仰篤いとはいえ、とても一介の村娘の知識と技とは思えん」


 ユハの表情が強張る。ナタヴは、ユハを見据えたまま言葉を続けた。


「調べさせたが、お前たちの出身だという村は存在しなかった。そして、お前たちの名はアルティニ人のものではない。その名は、ハウラン人たちが名乗るものだ。お前たちは、一体何者だ?」


 自分たちの嘘が発覚してしまった。その事実に、ユハの頭は真っ白になってしまった。咄嗟に何も答えることができない。ナタヴは、背もたれに体を預けると、腕組みしてユハとシェリウに鋭い視線を向ける。


「お前たちが善き信徒なのは分かる。しかし、身の上を偽る者を信用することは難しい」


 ユハとシェリウは顔を見合わせると、頷きあった。正体を追求されるかもしれない。その可能性は大いにあると考えていた彼女たちは、その時が来たならば、真実を明かすしかない、と話し合っていた。


「私たちは、イラマールという村からやって来ました」


 ユハは、衿巻スカーフをおろす。シェリウがそれに続いた。露になった二人の短い髪を見て、アティエナが驚きの声を上げた。その声は、ユハの良心に鋭く突き刺さり、痛みをもたらす。


「本当は、アルティニ人ではありません。イラマール修道院の修道女です。皆様に偽りを述べたことをお詫びいたします」

「名は?」

「私はユハともうします」

「私はシェリウです」


 二人は、深々と一礼した。そして、アティエナに顔を向ける。 


「アティエナ様、本当にごめんなさい」

「ううん、いいの。驚いたけど……、納得できた」


 アティエナは小さく頭を振った。


「ヤガン、お前は知っていたのか?」


 ナタヴは鋭い視線をヤガンに移した。ヤガンは頷く。


「はい。知っていました。申し訳ありません」

「どうして黙っていた?」

「正直に言えば、エルムルアの儀に出るためにこの娘たちの力を借りたかったのです。何しろ、家にいるルェキアの女では心許なかったので」


 対して悪びれた様子もなく、ヤガンは答える。


「なるほど、道理で儀法に詳しいわけだ。では、なぜ信仰篤い修道女が身元を偽り、アルティニ娘の振りをしていたのだ?」

「私たちは追われているからです」


 シェリウが口を開いた。


「追われている? 誰にだ?」

「……教会に」

「教会? 聖王教会、ということか?」

「はい。聖王教会。聖導教団。月輪の騎士……」

「何とまあ、お前たちは余程の大人物のようだな」


 彼女が並べた名前を聞いて、ラタヴは呆れた様子だったが、すぐに口元に笑みを浮かべて身を乗り出す。


「それで、なぜお前たちはそんなに多くを敵に回して逃げ回っているのだ?」

「知ってはならないことを知ってしまったからです」

「知ってはならないこととは何だ?」

「それは、教会の秘事であり、お教えすることはできません」


 シェリウの答えに、ラタヴは鼻で笑った。


「今更、そんな答えが通用すると思っているのか?」

「知らない方がラタヴ様の、そして皆様のためなのです。これを知ることによって、その身に累が及ぶかもしれません」

「随分と脅すのだな。それ程の重大な秘事だというのか」

「はい。聖王の信徒ならば、知らないほうがよいことです。知らないことで、善き信徒のまま平穏にくらすことができます」


 強い光を宿した瞳で見つめるシェリウの言葉に、ナタヴの表情から笑みが消えた。その視線はユハにも向く。ユハは、口を噤んだままナタヴの視線を受け止めた。善き信徒ならば、知らない方が良い。今、大聖堂にいる聖女王が偽者であることを。もちろん、それが間違っていることだとは思っていたが、真実を知らせてわざわざ迷いの道へ連れ込む必要はない。そして、自分たちはもう嘘をつくことはできないのだ。


「私たちは決して聖女王の教えには背いていません。何の証も示すことはできませんが、この命にかけて誓います」


 シェリウはそう言って両手を広げた後、ゆっくりと合わせる。ユハもそれに倣った。


「いかがですか、老師ヘダム」


 ナタヴは傍らに顔を向けて呼びかけた。つられてそちらを見たユハは、そこに先刻までいなかったはずの人の姿を認めて思わず驚きの声をあげた。 


 座椅子に座っているのは老人だった。髪の毛も、眉毛もない。頭骨にひび割れた皮を貼り付けただけのような、痩せこけた容貌だ。身にまとったゆったりとした藍色の長衣からのぞく手足も、同様にひどく痩せていた。


 いつの間にその座椅子に座ったのだろうか。部屋の扉はユハたちの背後にあり、入ってきたならば気付かないはずがない。いや、そもそもそこに座椅子があったのか。その記憶すら曖昧だ。これまでこの部屋にいて、ヤタヴの傍らのもう一つの座椅子を見逃すことなどありえなかった


 ヘダムと呼ばれた老人は、灰褐色の瞳でユハたちを見やる。 


「この娘たちの言うことに偽りはなかろう」


 ヘダムはかすれた囁くような声で言うと、口元に薄く笑みを浮かべた。


「善き信徒のまま平穏にくらすことができる、か。面白いことを言うのう……」


 ユハは、その老人から強い力を感じ取ってたじろいだ。


「この娘には魔術が施されている。大した惑わしの術だのう。だが、我には通じぬよ」


 ヘダムの目が、ゆらめいた。一切の色が消え、まるでそこに何もないように澄み切った透明になった。同時に、老人がまとっていた力が自分に向けられていることを感じ取る。


 ユハは、思わず立ち上がった。その強い力に恐れを感じて後ずさる。


「いかなる鎖も我らを縛ること能わず!! 我らの主は聖なる御子のみ!!」

 

 ユハの前に飛び出したシェリウは、ヘダムの視線を遮るように印を組んだ両手を突き出して、聖句を唱える。


「教会の魔術を修めておるのか。若いのに大した力だのう。惑わしの術も、お前の力なのだな」


 ヘダムは、微かな息の音だけをもらして笑う。視線を逸らさなければ。ユハは強く自分に言い聞かせるが、見えない手に捕らえられてしまったように身体が動かない。思わず、苦悶の呻きをもらす。それは、シェリウも同様だった。シェリウの魔術も、ヘダムの力を阻むことが出来ないでいるようだ。


「老師様、どうして二人にひどいことをするのですか」


 悲鳴のようなアティエナの叫び。


「アティ、あなたは黙っていなさい」


 厳しい表情のティムナが、腰を浮かせたアティエナの肩を押さえる。


 ユハたちを捕らえたその力は、渦巻き、はるか深淵までひきずりこむ。その力に、二人は思わず両膝をついた。崩れ落ちそうになる体を両手で支える。しかし、顔だけはヘダムから逸らすことが出来ない。


 ヘダムの透明だった目が、暗黒に染まっている。


 全身に四方八方から力が圧し掛かる。その重い力は、肉体だけではなく、魂までもが押し潰されてしまいそうなものだった。引きずりこまれ、押し包まれ、ひき潰されてしまう。恐怖と絶望が心に満ちる。


 そして、やがて落ちていくその先は、光すら届かぬ暗黒と静寂の世界。


「や……やめてくださいっ!!」 


 絞り出されたユハの叫びは、力となって弾けた。


 紫電が奔り、風が起こる。女たちの悲鳴が響いた。


 ユハは大きく喘いでうつむいた。己の身を呪縛していた力が消え失せている。


 顔を上げる。


 座椅子から転げ落ちて呆然としているナタヴの隣で、ヘダムが微かな笑い声とともに灰褐色の瞳でユハを見ていた。


 



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