第4話
「我が呪眼が跳ね除けられたのは、久しくなかったことだ。昔を思い出すのう」
ヘダムが囁くように言う。
ユハは呆然と床にへたりこんでいた。
部屋の中を荒れ狂った力。それは、確かに己の中から解き放たれたものだ。
解き放たれた時に感じたのは、ユハにとって馴染みのある癒しの力とは全く異なる力だった。癒しの技は、事象を整え、繋ぎ、形にする、繊細な創造の力といえる。一方、先刻、己の体から解き放たれた力は、ひどく粗雑で、乱暴であり、形を成していないものだった。
しかし、一方で、その力はユハに喜悦と、なぜか懐かしさを感じさせるものだった。それがユハを動揺させる。
シェリウが、ユハの頬に両手で触れ、その瞳を覗き込んだ。
「ユハ、大丈夫? 意識はしっかりしてる?」
「だ……、大丈夫」
ユハは深く頷く。己を強く保て。動揺する自分を強く叱り付けた。姿勢を正し、上体を起こす。
「旦那様!! ご無事ですか!!」
悲鳴を聞きつけたのだろう。剣を佩いた屈強な男たちが部屋に跳びこんでくる。呆けた表情のナタヴは、表情を引き締めると、体を起こした。
ナタヴは、座椅子に座りなおすと、咳払いと共に手を上げて男たちを制する。
「老師ヘダムの余興に、皆が少し驚いたのだ。騒がせてすまんな」
「はい……、しかし……、旦那様……」
男たちは、部屋の中を見回して困惑した表情を見せた。皿やその上にあった菓子は四方に飛び散り、調度品は倒れている。この有様を見てしまっては、余興と言われて納得できないのだろう。
「儂が老師に愚かなお願いをしたせいだ。もう心配はない」
ナタヴは上げた手をゆっくりと振ると、男たちは一礼して部屋を退出した。
使用人たちが散らかった部屋を片付けて出て行くと、ナタヴはユハに顔を向けた。
「お前の力を試そうとして、老師にお願いしたのだ。驚かせてしまったな。もっとも、驚かされたのは我らも同じだったが」
そう言って苦笑する。
「力を……、試す、ですか?」
口を開いたシェリウの声には、微かに険がある。
「どうやら機嫌を損ねたようだな」
ナタヴは小さく笑った。
「当然です。人を呪眼の力で試すなど、失礼にも程があります」
シェリウは鋭い口調で答える。
「おい、シェリウ、そこまでにしておけよ」
さらに言い募ろうとするシェリウに、ヤガンは手をひらひらと上下させながら口を挟んだ。シェリウは、ヤガンを睨む。
「ヤガンさんは口出ししないでください。私たちがいくら一介の修道女だからといって、こんな無礼は許されません。私たちの魂を試すことを許されているのは、聖なる主、聖女王とその使徒たちだけです」
ああ……、これはまずいかもしれない。ユハは、徐々に熱さを増していくシェリウの声に、危惧を覚えた。普段のシェリウは実に冷静な人だ。しかし、本当に怒った時、彼女は我を忘れてしまう。滅多にないことだったが、ユハはそんなシェリウを知っている。今の彼女は、その時の様子によく似ていた。
「シェリウ」
ユハはシェリウの横に並ぶと、後ろから両肩に手を置いた。シェリウは我に返った様子で、ユハに顔を向ける。
「落ち着いて。……ナタヴ様も、悪気があったわけではないと思う。そもそも、身元を偽っていたのは私たちだよ。怪しまれるのは当然じゃない?」
ユハは微笑む。口を開きかけたシェリウの眼前で掌を見せる。
「私のために怒ってくれたのよね? ありがとう、シェリウ」
「ま、まあ……、あんたが納得してるなら、いいけど……」
シェリウは呟くように言うと、俯く。冷静さを失っていたことに気付いて、恥じているのだろう。
「皆さんも、私の力でお騒がせして、申し訳ありませんでした」
ユハは、この部屋にいる一同を見回して言う。最初に顔を向けたアティエナの顔に浮かんでいたのは羨望の表情のように思えたが、ユハと目が合うと、すぐに笑顔に変わった。幸い、ティムナも特に怯えたり怒っている様子ではない。そして、ヘダムという老人の感情は全く分からなかった。
「どうしてユハが謝るのよ……」
シェリウが呟くが聞き流す。
「その娘の言うとおりだ。こちらこそ、戯れに試すような真似をしてすまなかった」
ナタヴは深く一礼する。ユハは、そしてシェリウは、それに応じて同じように一礼した。
「お前は、癒しの技は非凡なもののようだが、他の術法については未熟なようだのう」
一瞬訪れた沈黙の中で、ヘダムが口を開いた。ユハに顔を向けて、吐き出す息のようなかすれた声で言う。
「は……、はい。基本的な術法は修めていますが、あまり得意ではありません」
沸き起こる畏怖の念を押し殺しながら、ユハは答えた。
「お前の中には、大河エセトワのごとき強い力が流れ、渦巻いておる。しかし、その出口は今、一つしかない。それ故に、出口を求めた力は、何かの弾みで殺到し、溢れ出すことになるだろう。まさに、先刻のようにな」
ヘダムは右手をゆっくりとめぐらせて部屋の中を示した。
「その力は……、私の意図しない時に暴れだす、ということですか?」
「そうだ。お前が大きな危険や恐怖を感じた時、その力はお前を守るために瀑布となるであろう。その力は、お前の意思と関わりなく、ただ恐怖と生への欲求に追い立てられて顕現することになる」
ユハは愕然として沈黙した。大聖堂の地下で、己の身に満ちた力を思い出す。あの時、自分に宿った大いなる力を操ることに、何の不安も疑問もなかった。しかし、それはあくまで助けられている、という安心感に支えられていたことだ。今の自分は、己の中に恐ろしい力が眠っていることに気付いてしまった。
「私は……、どうすれば良いのでしょうか……」
恐れも忘れ、ヘダムを見つめる。
「お前は、己の中にある力に気付いた。今、入り口に立ったのだ。戸をくぐり、前に進むためには、これから、内観の法によって、己の魂を磨くしかないだろうのう」
ヘダムの言葉に、ユハは深く頷いた。先刻の、部屋の中を荒れ狂った力。それが自分の中にあることを知った以上、それを操る術を学ばなければならない。そのことを決意する。
「さて、これからのことだ」
使用人たちが新たに運んできた茶を飲んだ後、ナタヴはユハとシェリウを見て口を開く。
「お前たちを賓客として我が館に迎えたい。アティエナもそれを望んでいる。館に逗留し、我が孫に、聖なる教えについて教示してやってくれんか?」
「教示だなんて……。私はまだ未熟な修道女にすぎません」
ユハは、慌てて頭を振った。博学なシェリウはともかく、自分が誰かに何かを教えるなど、とんでもないことだ。
「それに、私たちが居なくなると、ラテンテさんが困ります」
「ラテンテとは誰だ?」
「当家の家事を取り仕切っている者です」
ヤガンが答えた。ナタヴはヤガンに視線を向けると、頷いた。
「確かに、家中の働き手が突然二人居なくなれば困るだろうな。ヤガン、儂が良い使用人を紹介しよう」
「いえ、そこまで甘えるわけにはいきません。ルェキアの中から人を手配いたします」
ヤガンは片手を上げると答えた。
「我らの手の者を懐に入れて、
ナタヴは口の端を歪めると、からかうように言う。ヤガンは両手を大きく広げると、大袈裟な表情で頭を振った。
「いえ、そのような大それたこと、私はいたしません。私は、様々なお客とお付き合いがあります。そこに、シアート人とあまりに親しくしていると思われてしまうと、後々の商いに差し支えありますので。それだけのことですよ」
「まあよい。用心深い者のほうが、取引相手としては信用できる」
ナタヴは小さく頷いた。
ヤガンさんも大変だな。ユハは二人の遣り取りを見ながら思った。商人というのは、こうやって偽りと真実の綱引きをしながら生きていかなければならないのだろう。それは、ユハには難しいことだった。アルティニ人として身元を偽って過ごしている間も、常に心に重荷を背負っているように感じていたのだ。相手の内心を推し量り、それに合わせて己の言葉の辻褄を合わせていく。そんなことはとてもできそうにない。自分がその立場なら、取り繕う端から崩れていき、すぐに何もかも駄目にしてしまうだろう。
「ユハ、シェリウ。ラテンテのことは気にするな。お前らはナタヴ様のお世話になれ。ルェキア族の商人の元にいるよりも、そのほうがいい」
ヤガンは言いながら二人を見た。
「私たちはイラマール修道院に帰るつもりです。ヤガンさんの所で働いていたのも、路銀を稼ぐためでした」
シェリウは、ヤガンと視線を合わせた後、ナタヴに顔を向けて言う。
「出来るだけ急いでアタミラを出たいのです。アタミラに居れば、私たちに関わった方たちに迷惑をかけてしまうかもしれませんので」
「路銀ならば今、手にしたではないか。ハヴァースで一年遊んで暮らしても釣りが出るほどだ」
ナタヴは、ユハたちの前にある革袋を指差した。ハヴァースという土地は、ユハも名前だけは聞いたことがある。避暑地や療養の地として知られた地方だ。富裕な者の別荘も多いという。そんな土地で一年間何もせずに暮らすことができるという。目の前の革袋に詰まった金貨、銀貨がどれだけの量なのか、改めて知らされて気後れするほどだった。
「だが、たとえ充分な路銀を手にしたとして、どうやってアタミラを出る?」
ナタヴの問いに、シェリウは一瞬答えに詰まった。
「どうやって……、それは、出る時に考えます」
「よく考えたほうが良いぞ。円城の中を行き来するのは、今のお前たちの立場ならば、むしろ容易い。ヤガンの使用人として、信用ある鑑札に守られて、疑われることなく行き来できている。お前たちを探す者たちも、まさか円城の中、こんな近くに居るとは思ってはいないのだろうな」
ナタヴは笑みを浮かべ、両手を軽く挙げると言葉を続けた。
「しかし、アタミラから出るとなれば別だ。最近、外城の城門や港に妙な動きがある。見慣れぬ者たちが組織的に城門や港を監視しているというのだ。それは、我らが馴染みある密偵の類とは毛色の違う者たちでな。奴らが何者なのか、何を監視しているのか、我々には皆目見当がつかなかった。しかし、今、お前たちの話を聞いて、腑に落ちた。その者たちは、二人の修道女を探しているのだとな」
「つまり……、私たちがアタミラを出ようと城門や港に近付けば、捕まってしまう、ということでしょうか」
「そういうことになるな。お前たちは、いわば国の中枢にいる者たちに追われている。頭に
からかうような口調のナタヴ。ユハとシェリウは、顔を見合わせた。シェリウの表情は暗い。そして、自分も同じような表情をしているだろう。自分たちは甘かった。そう思わざるを得ない。一先ず逃げ延びたことに安心してしまい、事態の深刻さを深く考えていなかったのだ。
「しかし、儂に任せれば、二人の娘をアタミラから逃すことなど
「『その者は、まず荒野の恐ろしさを語り、そして汝を易き道へと誘う』。実にありがたいお話ですが、どうしてそこまでしていただけるのですか? 何か、大きな代償が必要なのではないですか?」
シェリウの鋭い問いが発せられる。ユハは、シェリウが引用した言葉を聞いて身が縮む思いがした。その言葉は、修行僧を誘惑する悪霊についてのものだったからだ。その口調も相まって、侮辱していると取られかねない。
「なるほど、修道女殿は、儂を悪霊扱いするわけだな」
「失礼しました。そのような意図はありませんでした」
苦笑するナタヴに、表情も変えず、シェリウは一礼した。
「いや、前にも言ったが、用心深いほうが取引相手としては信用できる。甘言にすぐに飛びつかぬことは、良い資質だ」
ナタヴは笑みを浮かべたまま頷く。そして、ユハに視線を移した。
「優れた癒しの技をもつが、身元を偽ったお前たちを、儂は不審に思っていた。しかし、お前たちの話を聞いて考えが変わった。お前は、正体が露見する危険を犯して儂を救った。黙って見ていることもできたというのにな」
そう言うと、ナタヴは己の胸を拳で叩いた。そして言葉を続ける。
「お前は、己の正体が露見する危険があると分かっていながら、しかし苦しむ者を見捨てなかった。聖王教会の僧として、苦しむ者を救う。その教えを守ったのだ」
「私は、そんな立派なことを考えていたわけじゃありません。自分の正体についても何も考えていませんでした。ただ、助けないと、そう思っただけなんです」
ユハは、ナタヴの言葉が面映くて頭を振った。自分が随分と誠実で思慮深い人間のように勘違いされているようだ。
「つまりは、そういうことだ」
ナタヴはその答えを聞いて、ユハをゆっくりと指差した。
「保身を考える者ならば、儂を助けず、ただ傍観していただろう。功利を考える者ならば、儂を助け、黙って報酬を受け取り、あるいはその立場を利用しようと企んだだろう。しかし、お前は違った。苦しむ者を見て止むに止まれずに動き、儂を救い、そして報酬を受け取ろうとしなかった。それこそが、慈悲と誠実の徳を備えた証だ」
ユハを見つめるナタヴの瞳に込められた力は強い。しかし、ユハは、炯炯とした光をもつ瞳の奥に何か冷たく醒めたものを見たように思った。
「儂は、我が名誉にかけてお前を守る。そうでなければ、我が身が受けた慈悲に報いることができない。お前を守り、然るべき所へと送る。それが、儂に与えられた使命なのだ」
ユハは、ナタヴの言葉から強い決意と確信を感じ取った。そして、ナタヴは表情を緩めると、息を呑んで成り行きを見守っているアティエナを一瞥する。そして、再びユハに顔を向けた。
「何より、アティエナがお前たちと過ごしたいと願っている。アタミラを離れたいと考えるお前たちの希望も分かるが、少しの間、アティエナと友誼を結んではくれまいか」
ユハはアティエナを見た。アティエナは、緊張した面持ちでユハを見つめる。
シェリウを顧みる。シェリウは、小さく頷くと口を開いた。
「ユハが決めて。私はユハと共に在るわ」
囁くようなその言葉に、ユハは決意する。ナタヴに向き直ると、一礼した。
「ナタヴ様のお言葉、ありがたく受け取らせていただきます。こちらでお世話になろうと思います」
ユハの答えを聞いて、ナタヴは笑みとともに大きく頷いた。
「決まりね! よろしく、ユハ、シェリウ!」
満面の笑みを浮かべたアティエナが、
「アティ!」
ティムナの、娘の無作法を咎める鋭い声が響いた。
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