第2話
隊商宿は、交易都市であるカラデアの縮図だ。
アシャンたちキセの一族が宿泊するウェイムウは、カラデアの中でも栄えている宿だ。土壁の母屋に囲まれた広い中庭では、沙海の周辺からやって来た宿泊客たちが思い思いに過ごしている。姿形、衣装、話す言葉。すべてが異なる人々が、この庭に集っていた。大きく育った木々が庭のあちこちに日陰を作り、憩いの傘を提供している。多くの者がその下でくつろぎ、荷造りをし、商売の準備をしていた。煮焚きのために鍋に火がかけられており、食欲をそそるものから鼻を摘まみたくなるものまで、様々な匂いが中庭のあちこちから漂ってくる。キセの一族も、中庭で食事の準備をしているところだった。
中庭の入り口が騒がしくなった。駱駝を引いたルェキア族の男たちが入ってきたのだ。五人の男たちはそれぞれ、荷を積んだ駱駝を引いている。
「中庭に駱駝をいれるんじゃあねえ!」
たちまち、あちこちから非難の声があがった。この宿では、荷駄獣を中庭に入れることは許されておらず、外にある厩舎に連れていくことになっていた。立ち尽くしているルェキア族たちは、客の一人に怒鳴られながらも厩舎に案内されていった。
「あいつらは素人か、まったく」
戦士が苦笑する。アシャンも同じように苦笑してそれを見送った。荷物に変わった物を積んでいたらしく、彼らの匂いにキシュが興味をもったが、アシャンは止めておいた。キシュも彼女らと共に中庭にいるが、キシュは厩舎に入れなくてよいことになっている。キシュガナンがカラデアに初めてやって来てからの付き合いであるこの宿は、キシュに対しても一定の理解があるのだった。
アシャンは、ルェキア族たちの姿が消えた後、視線をシアタカにうつした。あの鉛灰色の肌をもつ少年と狗人が来てから、シアタカはウル・ヤークスの言葉で少年と話しこんでいる。アシャンにとって、まるで今までのシアタカではない、別人になってしまったかのようだ。キシュを通して感じ取れる彼の匂いも変わってしまった。どこか、硬質な匂いになってしまったのだ。それは、出会ったばかりの頃の匂いに似ている。
「これから、どうしよう」
アシャンは、ウァンデに顔を向けると、呟くようにして言った。兄とともにシアタカを守ると言ったものの、それは結果としてカラデアから身動きが取れない状況を作り出してしまった。
「そうだな。いざとなれば、押し通るさ。だが、それも最後の手段だ」
ウァンデはアシャンに顔を向けると、微かに笑みを浮かべた。
「問題は、ウル・ヤークスの軍がカラデアにやって来るということだ。今はまだ、遠い場所での戦だ。誰も危機感をもっていないようだが」
言いつつ、中庭に視線を移す。カラデアに暮らすほとんどの者には、ウル・ヤークス軍の侵攻は知られていないようだ。商人たちも、いつものように商いを始めようとしている。
「そろそろ、戦の噂が立ち始めてもおかしくはない。そうなると、カラデアの奴らもシアタカたちを放ってはおけなくなるだろう。俺たちに強く身柄を要求してくるだろうな」
「シアタカは、殺される、ってこと?」
嫌な想像が頭をよぎり、思わず言葉が詰まる。
「そう簡単には殺さないだろう。もっと利用できることがある。ウル・ヤークスとの何かの取引に使えるかもしれんし、ウル・ヤークス軍について、色々と聞き出そうとするだろうな。もっとも、あいつが、味方が不利になるようなことを喋るとは思えない。そのまま、自分から死を選んでしまうような気がする」
「ああ……、そうだね……」
シアタカと出会った時を思い出す。それは決して友好的なものとはいえなかったが、あの時の彼は、死を望んでいたように思える。命令一つで死を選ぶような、そんな男だったことを忘れてしまっていた。
「シアタカにとって一番無難な道は、カラデアからウル・ヤークスへの使者になることだろうな。黒石が奪われそうになった時と同じように、追い返されることになる。まあ、戦が始まっている以上、そんな甘い処置にはならないとおもうがな」
ウァンデはそう言うとシアタカに視線を向けた。
「その時は、俺たちはシアタカを守るのか?」
戦士の一人が、ウァンデに問う。アシャンは、その声に僅かな非難の色を感じ取った。
「ああ。シアタカが俺たちの客人でいる限り」
ウァンデは表情を変えることなく頷く。そして、言葉を続けた。
「だが、そうなる前にあいつは動くだろうな。あの時も、シアタカは俺たちに面倒をかけることを嫌がっていた。あいつは、そういう男なんだろう。だから、このままここでじっとしていても事態が悪化するだけなのは、よく分かっているはずだ」
「カラデアから逃げ出すつもりかな」
「すぐに思いつくことといえば、それだな。あいつには、他に何か考えがあるのかも知れん。仲間もいることだしな」
「仲間か……」
アシャンは兄の答えを噛み締める。シアタカと自分の間にある見えない壁。ここ数日の間に、それを意識することは少なくなっていた。しかし、今はその壁を意識せざるを得ない。シアタカは、キシュガナンではない。ウル・ヤークスの仲間とともにいる彼は、やはりウル・ヤークスの騎士なのだ。
「どうしたアシャン。シアタカが構ってくれないから寂しいのか?」
ウァンデが、口元に笑みを浮かべてアシャンの顔を覗き込んだ。
「な、な、何言ってるのよ」
アシャンは思わず声を上げて仰け反った。
「キセの一族にああいう男はいないからな。気持ちは分かる」
「気持ちは分かるって……、意味が分からないよ」
アシャンは顔をそらす。ウァンデは小さく笑い声を上げるとアシャンの肩を優しく叩いた。
「まあ、いいさ。そのうち、自分で答えを出すときが来る」
「本当に意味の分からないことばかり言うのね」
アシャンは顔をしかめて見せた。ウァンデは笑みを浮かべたまま、焚き火で炙っている干し魚を裏返す。横で戦士や男たちが、鍋に切り刻んだ食材を次々と放り込んでいた。
「あいつがキセの一族になってくれればな……」
ウァンデの呟きを耳にしたアシャンは振り向いた。暗い表情で頷く。
「シアタカは強いものね。一緒に戦ってくれれば心強いよ」
キシュの繁殖期は近い。長老や賢者たちは皆、そう考えている。来るべき戦乱を前に、今は一人でも多く腕の立つ戦士が一族に必要だ。戦士である兄にとって、シアタカは仲間になってほしいのだろう。
「いや、そういう意味ではないんだがな」
ウァンデは、苦笑した。その反応に、アシャンは少し困惑する。今日の兄は、いつもと少し違うようだ。ウァンデはそれ以上何も言わなかったので、アシャンも口を閉じて、干し魚を炙ることに専念した。
「あ……」
微かな刺激臭。規則的に発せられる硬質な音。キシュが警告をうながしている。慌てて顔を上げると、中庭の入り口に屈強な禿頭の男が立っていた。忘れもしない。昨日、広場で揉めたヤガネヴという男だ。背後に一人だけ男を連れて、こちらに歩いてくる。
「兄さん、あいつだ」
アシャンはウァンデの肩に触れると、指差した。ウァンデはヤガネヴを見ると、舌打ちして立ち上がる。
ヤガネヴと連れの男がキセの一族の前に立つ。他の戦士たちも、表情を険しくして立ち上がった。
「ワハの戦士。性懲りもなく、薬草を奪いに来たのか」
ウァンデは、腕組みするとヤガネヴを睨み付けた。
ヤガネヴは、ウァンデを見て、一族の男たちを見回す。そしておもむろに頭を振った。
「いや、まずはそのことを謝罪するために来た。昨日は、見苦しい真似をしてすまなかった。隊商頭の娘にも謝らせて欲しい」
ウァンデは、片方の眉を上げると、振り返った。目が合ったアシャンは、おずおずとウァンデの傍らに立つ。
「蟻使いの娘よ。そして、蟻使いたちよ。ワハ王国の戦士ヤガネヴは、侮辱し、無法な真似をしたことを謝罪する」
ヤガネヴはそう言うと、自らの胸を拳で強く叩いた。
「分かった。謝罪を受け入れるよ」
硬い表情のまま、アシャンは頷いた。この謝罪に嘘を感じない。しかし、広場でのこともあり、すぐに気を許せるものでもなかった。
「感謝する」
ヤガネヴは、もう一度胸を叩く。
「ヤガネヴ、どうしてあの薬草が欲しいんだ?」
ウァンデの問いに、ヤガネヴは答えた。
「姉が病で苦しんでいるのだ。癒し手に聞くと、治すためにはタワの薬草が必要だという。そのために、あの時は冷静さを失ってしまった」
「お姉さんが……」
アシャンは思わず呟く。
「だが、そのことはもういい。手に入らない物に執着しても仕方がない。ここに来たのは、謝罪以外にもう一つ目的があったのだ」
「もう一つの目的?」
「ああ。そうだ」
ヤガネヴは頷くと、少し離れた場所で成り行きを見守っていたシアタカに歩み寄る。
「ウル・ヤークスの戦士、俺と闘ってほしい」
シアタカの前に立つと、ヤガネヴは穏やかな口調で言った。
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