第8話
沙海の夜は冷え込む。ラワナたちは最低限の荷物だけを駱駝に積んでカラデアを出ていた。報告を聞いて、迅速に出発する必要があったからだ。駱駝や牛の糞を乾燥させた燃料は嵩張るために、持って来ていない。その為、夜の寒さを毛布と酒でしのぐしかなかった。もっとも、それは覚悟していたことであり、彼らは寒さと星空を前向きに楽しむことにしていたのだった。
酒を舐めるように口にしながら、ラワナは部下の兵達と小さな声で話していた。話の内容は、戦争のことだ。カラデアの民の戦の経験は少ない。大きな敵となり得る沙海周辺の諸族、国々は、カラデアを重要な交易地として、さらには黒石がいる聖地として尊重しており、戦が起こることもない。これまで戦った相手といえば、略奪にやって来た遊牧民や野盗、魔物の群れといった程度で、大規模な戦争を経験してこなかったのである。
戦いの経験という意味ではカラデア兵も決して不足しているわけではないが、やはり、国と国との戦は規模が違う。カラデア軍は軍隊として機能するのか、そこに不安があった。
「奴らは、とても、強い」
マガラウという名の鱗の民が、たどたどしいカラデア語で言うと、鳥のさえずりのような音を発して締めくくった。一行の中でただ一人の鱗の民で、カラデアに来て日が浅い。
「斥候部隊が鱗の民の騎兵とあそこまで渡り合えるなんて、恐ろしい奴ら」
ラワナは吐き捨てるように言った。斥候部隊でありながら、不意打ちを受けてなお、鱗の民の騎兵部隊を突破、さらに追っ手を全滅に近い状態まで追い込んだのだ。斥候部隊があそこまで勇猛ならば、ウル・ヤークス軍はどれほどのものか。苦戦は免れ得ないだろう。
「それに、命知らずですね」
カドアドが暗い表情でぼそりと言った。右目に黒い石がはまっているこのカラデア人の青年は、黒石の守り手の一人である。彼は、戦いというものを知らない。戦場跡で掘り出した死体を見たことで、重い現実に突然直面したことになった。その為か、ここまでずっと彼の表情は強張ったままだった。
「そうね。死を恐れていない兵というのは怖い。カラデアの兵達がそこまで命知らずかと問われると、自信を持って頷けないわね……」
ラワナは口元を歪めると頷く。
「命知らず、の、兵士は、良い。悪い。どちらもある。鋭い剣しか、知らない戦士、剣が折れたとき、戦えない。全ての剣が、鋭い、とは限らない」
マガラウの言葉を聞いたラワナは、少し考えた後、口を開いた。
「兵の強さだけを頼りに戦いを考えていても、良くないということね」
「そう。戦は、戦士だけでは、できない。戦う土地、気候、必要な食料、戦を、後ろで支える者達、すべて含めて、戦」
「だとしたら、ここは、沙海。私たちの土地よ。私たちにも利がある」
「その通り」
マガラウはそう言うと喉を膨らませた。
「そう言われると、勇気がわきますね」
カドアドが笑みを浮かべる。
「私たちにあって奴らに無いもの。その中で一番大きいのは、あなた達、黒石の守り手なのよ。カドアドにはしっかりしてもらわないとね」
ラワナはカドアドに頷いて見せた。
「はい、頑張ります。それにしても、私たちにあって、奴らに無いものか……。だとしたら、私たちに無いもの、それを詳しく知りたいですね。彼は、話してくれるかな……」
カドアドは、カラデア人の一行から少し離れた場所にいる者達に視線を向けた。ラワナもそちらを見やる。
ウィトという名のウル・ヤークスの少年は、幸い暴れるようなことはなかったが、必要最低限のことを話したのみで、あとは黙りこくっている。仲間の死が余程こたえたようだった。一人のウル・ヤークス兵の死体を掘り出した時、少年は半狂乱になって全ての死体を掘り出そうとしたのだ。他の者達が必死に止めなければ、一日中地面を掘り返しただろう。その場を動こうとしないウィトを引きずる様にして、ここまでやって来た。
ウィトの横には、彼を守るようにして狗人が座っていた。ラワナはカラデアにやって来る狗人の諸族を知っていたが、狗人がここまで他の種族を忠実に守る姿を見たことがない。ウル・ヤークスという国は、どんな力で多様な種族を結び付けているのか。それを考えると空恐ろしくなってしまう。
「難しいでしょうね。無理矢理聞き出すのは気が進まないけれど……」
ラワナは小さく頭を振った。彼女は、力尽くを好まない。商人は利をもって弁をもって物事を進めるべき。そう父に教わってきたからだ。その信念は軍人となった今でも変わらない。
空いていた杯を取ると、そこに酒を注ぐ。そして、ウィトの元へ歩み寄る。ルェキア語で声をかけた。
「酒はいる?」
ウィトは、無表情な顔でラワナを見上げた。
「酒は飲まない」
ウィトは右手を振って断った。まだ左腕は動かすことはできないらしい。とはいえ、その傷は深くない。ウル・ヤークスの鎖甲は網目が細かく質の高い物で、鏃は深く突き刺さってはいなかった。
「それよりも、私をどうするつもりだ」
ラワナは腕組みすると、無言でウィトを見下ろした。
「どうするつもりだ、と聞いているんだ」
ウィトは強張った表情で質問を繰り返す。ラワナは鼻で笑うと口を開いた。
「捕虜の癖に態度が大きいわね。もう少ししおらしく出来ないの?」
ウィトは、ラワナの視線に抗うように睨み付けながら、立ち上がった。
「私は捕虜である前に紅旗衣の騎士の従者だ。へりくだるような真似はしない」
ラワナは、ウィトの鋭い視線を受け止める。その横にいたラゴが、小さく鳴き声をあげると地面に寝転がって尾を振った。
それを見たラワナは苦笑すると、その場に腰を下ろす。
「悪かったわね。ちょっとからかっただけ」
そう言って、笑顔のままでウィトを見上げた。ウィトは困惑した表情を浮かべて立ち尽くす。ラゴが、もう一度鳴いた。それを聞いたウィトは、大きく息を吐き出すとおもむろに腰を下ろす。
「紅旗衣の騎士の従者って言ったわね。だとしたら、あなたの主人はどこにいるの?」
「あの……、砂の中だ」
ウィトは言葉を絞り出す。
「それは……、悪いことを聞いたわね……」
ラワナは、あの時のウィトの狂乱を思い出す。己の主人が埋まっているならば、納得もできるというものだ。
「あなたはどうして生き残っているの?」
その質問はこの少年には酷だろう。そう思ったが、ラワナはあえて聞く。ウィトはその問いに顔を歪ませた。
「騎士シアタカは、私を生き残らせようと、撤退する後衛に逃れさせた」
ゆっくりと、答える。
「従者思いの主だったのね」
「立派な方、……だった」
ウィトは、過去形にするのをためらったあと、ようやく語尾を結んだ。
「私の夫はね、今、デソエに向かっている援軍を指揮してるの」
ラワナは深く頷くと口を開いた。
「私も、妻として、軍人として、夫を支えるために戦場に行くつもりだった。でも、夫に止められたのよ」
ラワナは微笑む。
「私たちの間には、二人の子供がいる。その子供たちの世話をしてくれ。それが妻の務めだ、って言われてね。今まで一緒に戦うことを止める人じゃなかったのに」
ウィトは、無言のままラワナを見詰めている。
「あの人は、この戦いが厳しいものになると分かっているのだと思う。だから、私を連れて行きたくなかったのでしょうね。ひどいものよね。置いていかれた方は、どれだけ心配しても足りないのに」
「でも、子供たちに母親は必要だ」
ウィトは、呟くように言った。
「あなたが戦場に行けば、子供たちも置いていかれることになる」
ラワナは、その言葉に、深く頷いた。
「そうね……。私はひどい母親なんだと思う」
「あなたはカラデアに残った。だとしたら、子供の側にいるべきだ」
ウィトは言った。その声はどこか寂しげに聞こえた。
「ラワナ様、こちらへ!」
カドアドがカラデア語で呼んだ。ラワナは振り返ると頷いて、立ち上がる。
「邪魔をして悪かったわね。暖かくして眠るのよ」
ラワナはそう言い残すと、カドアドの元へ戻る。
「どうしたの、カドアド」
「デソエから、連絡が来ました」
カドアドが足元を指差す。
砂の大地を蛇が這うように、砂が紐状に盛り上がり、線を描いていった。その線は、長く続き、一定の規則を持って連なっていく。それは、カラデア文字によって構成された、文章だった。黒石の守り手たちは、沙海の砂の上を通じて、文章のやりとりをすることができる。これを、
「昼間に一戦を交えて、今は守りを固めている、か」
カラデア人で文字を読める者は多くない。しかし、ラワナとカドアドは必須の教養として文字を読むことができた。
「戦いの状況はどう?」
ラワナの問いに、カドアドは頷いて両手を砂に押し当てて目を閉じた。やがて、目を開くと、答えた。
「今は両軍とも落ち着いているようですね」
黒石の守り手は、沙海の音を聞くことができる。それは、正確には聞いているのではない。ラワナは、黒石の守り手に詳しく説明をされたが、真に理解したとは言い難い。しかし、概要は理解している。彼らは、黒石の吐息である白砂の上を意識を走らせることができるという。そして、それによって遠く砂の上でおきた物事の感覚を掴むことができる。ただし、あくまで衝撃、音を中心とした情報であり、何が起きているのか、見ることはできない。
「ウル・ヤークスもまだ本気で攻めてはいないということね」
「お互いに様子を見たということなのでしょうか」
「そうね」
ラワナは頷く。
砂の上に、再び文字が浮かび上がる。黒石の守り手は、同じ守り手がいる場所を察知して、そこに砂を操って文字を描くことができた。それも、あくまで白砂の上だけのことだったが、距離を気にすることなく連絡をとることができる。
「援軍もそろそろ到着するようです」
文字を読み取るとカドアドが言った。
「明日ね……」
「はい」
援軍が到着すれば、いよいよ、本当の戦いが始まる。ラワナは、勝手だとは思いながらも、自軍の勝利よりも何よりも、夫の無事を祈らずにはいられなかった。
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