第5話
カラデア語を喚き散らす女が、手にした奇妙な干物を押し付けてくる。シアタカは圧倒されつつも女を押し退けて先へ進んだ。あの迫力は戦場にはない独特のものだ。むしろ白刃を連ねる兵士を相手にするよりも苦手かもしれない。長く暮らしていたサハラハーンの商人たちも活気溢れる人々だったが、押しの強さではカラデアの商人には敵うまい。この二日、市場を歩き回っていて、シアタカはそう結論している。
キセの一族は、今日も市場で商いに精を出している。シアタカは一人で出歩くことにしていた。
ふと目をやると、鱗の民が露天の主と何か話している。カラデア人の男は、笑顔で鱗の民の手を握る。視線を移すと、屋台の前で、鱗の民とカラデア人が共に食事をしていた。
やがて、人だかりが目に入った。人々の中心には、鱗の民が六人いる。鱗の民たちは、美しい宝石や金細工で実を飾り、羽飾りを鶏冠に差している。それらは見事な細工で、二本足で立つ蜥蜴といった姿が、身に付けた装飾品によって華やかな印象を与えている。
彼らは、歌っていた。鳥のさえずるような高く澄んだ歌声が、美しい旋律を歌う。重く腹に響くような低い声がそれを追う様に響く。
シアタカは立ち止まるとその様子をずっと眺めていた。その歌声は複雑な旋律と多様な音が重なり合い、まるで宙に音で彫刻を創り上げているように思えた。楽器を全く使っていないにも関わらず、声でここまで重層的な音を作り出せることに驚愕する。
軍楽隊の奏でる勇壮な音の塊とも、戦場で故郷を思う兵士の素朴な歌とも違う。教会で僧侶たちが歌う聖歌に近いものを感じたが、複雑さと美しさではこちらが圧倒している。
「あれは何をしてるんだ?」
シアタカは見物人の一人を捕まえて聞いた。
「鱗の民の歌い手さ。商人なんかと一緒にやってきて、市場で歌って稼いでる。大した歌声さ。そう思わねえか?」
男はにやりと笑うと、訛りのひどいルェキア語で応じた。
「ああ、そうだな……」
シアタカは頷いた。その美しさはこれまで聞いたことのないものだった。鳥や動物のような異様な声が、高度な知性によって緻密に組み立てられている。音楽には疎いシアタカにも、それは理解できた。
ただの大蜥蜴。
戦場に向かう前、どんな敵なのか分からないとシアタカへ不安を口にしたウィトに、傍らにいたサハラトが笑いながら断言した。シアタカはそれを思い出していた。
ただの大蜥蜴がこんな歌を歌えるのか。目の前の六人は、姿形こそ直立する巨大な蜥蜴だが、美しい歌を生み出すことのできる者たちだ。
鱗の民の歌に合わせて、カラデア人の聴衆が身を揺らしている。何人かの男女が、遂には踊り始めた。中腰になり、手を、足を大きく振り回して踊る。ウルス人の踊りと比べ、随分と激しい踊りだ。それを見た人々は、笑い声を上げてはやし立てる。手拍子も始まった。
その踊りと手拍子に合わせて、鱗の民の歌の早さが変わった。緩急が激しくなり、勢いを増している。踊る人々を煽り、さらに激しく踊るように仕向けているのが分かる。それに応じて、人々の手拍子は早くなり、さらに多くの男女が踊りに加わった。穏やかな狂乱が人々を駆り立てる。皆、この舞台で笑顔を見せていた。
そして、鱗の民の歌が終った。聴衆はしばらくの沈黙の後、手や足を打ち鳴らし、声を上げて賞賛した。鱗の民の前に置かれた籠の中に、次々と硬貨が投げ込まれる。
シアタカは思わず後退った。心が震えていることに気付いていた。それは、認めたくない感情だった。おもむろに、その場から離れる。杖を頼りに足下が覚束ないその様子は、まるで心を失った廃人のように見える。事実、彼は放心していた。
シアタカは、家屋の土壁にもたれると、大きく息を吐いた。
人の気配を感じたシアタカは、顔を上げた。カラデア人の男、三人がシアタカを取り囲んでいた。男の一人がカラデア語を喚きながらシアタカの襟首を掴む。シアタカが咄嗟に反応できずにいる間に、三人がかりで路地裏に引きずり込まれてしまった。
シアタカは己の不甲斐なさを呪った。気が抜けている証拠だ。
三人を振り払おうと力を込めるが、右足に激痛がはしった。一瞬姿勢が崩れる。その瞬間、シアタカの右頬に男の拳骨が叩き込まれた。続いて、別の男が腹へ膝を打ち込む。
男達は、笑いながらシアタカを壁に押し付けた。一人がシアタカの腰の刀に手を掛ける。
「それに触るな!」
シアタカは叫ぶと共に頭突きを繰り出した。硬いものと硬いものが衝突する音とともに、男は崩れるように倒れこむ。怒りの声と拳の雨が、シアタカに降り注いだ。容赦ない暴力によって骨の軋む音が聞こえる。顔を庇いながら身を沈めると、一瞬にして一人の足に手を伸ばした。無事な右腕でしっかりと太腿を固定し、左腕で軽く支える。怪我をしている右足の代わりに腰を壁に当てて体重を預けると、一気に男を持ち上げた。
男は、突然の浮遊感に、驚愕の声とも悲鳴ともつかぬ奇妙な声を上げる。シアタカは寝台の敷き布を干す時のように、抱えていた男の体を宙から振り下ろした。
鈍い音がして、男の体は頭から地面に叩きつけられた。一瞬で意識を失ったのか、男は数回身を捩っただけで動きを止める。
呆然として動きを止めたもう一人の男へ、シアタカは動きを止めずに飛び掛る。姿勢を低くして、相手の足を抱え込む。そのまま体重を浴びせかけるようにすると、長い足を持ったカラデア人は、そのまま刈り取られてしまう。右足が不自由な今、相手を捕らえてしまったほうが確実に仕留めることができる。しかし、複数の相手と戦う時には、危険な方法でもある。できるだけ、一対一の状況を作り出す必要があった。そして、素早く終わらせなければならない。
仰向けに倒れた相手に圧し掛かるようにして、素早く肘を顔面に叩き落した。肘の先から鼻が潰れる感触が伝わってくる。さらに三度、四度叩き込む。本来ならばここで短刀を抜いて止めを刺すのだが、殺す必要を感じなかったので、そこまではしない。代わりに、頭を抑えながら全体重をかけて左膝を側頭部に落とした。
シアタカは男が痙攣しているのを横目に立ち上がる。ほぼ同時に、最初に頭突きを喰らって鼻を潰された男が涙目で立ち上がった。そして、ようやく仲間たちの有様に気付いた。
男は、怒りと怯えの混ざった表情で腰の短剣に手を伸ばす。その瞬間、シアタカはその手を抑えていた。
「それを抜いたら、殺しあいだ」
シアタカは、眼前の男を見つめてゆっくりと言う。
「はした金で命のやり取りをしたいのか」
男は、大きく目を見開くと、息を飲み込んだ。
「いや、やめておく……」
男は、怯えた表情で頭を振る。
「それでいい」
シアタカは微笑む。同時に、鳩尾に拳を打ち込んでいた。低い唸り声とともに男が跪く。その男の顔面を鷲掴みにして、壁に叩きつけた。後頭部から激しく衝突すると、そのまま男は静かになった。
杖を拾うと、シアタカはその場を歩み去る。無数の拳を浴びて体中が痛みを訴えているが、他に仲間がいるかも知れない。早くここから立ち去る必要があった。
路地裏を進んでいくと、二人のカラデア人が行く手に立ふさがっていた。中年の男女だ。仲間か。思わず身構える。
「ちょっと待っておくれ、敵じゃあないよ」
カラデア人の女が、慌てた様子で両手を振った。
「今の喧嘩を見てたんだ。すっきりしたぜ」
男が笑顔を見せて言う。
「あいつらは、ここらでも鼻つまみ者のろくでなしなんだ。それなのに役人に賄賂を贈ってるから、好き放題やってる。誰も手を出せなかったからな」
「俺は身を守っただけだ……」
戸惑いながら、シアタカは答える。
「ああ、分かってる。あんたみたいな地元の人間じゃあない、商売に来てる人間にやられたんだから、あいつらもどうにもできない。だからこそ、痛快だったんだ」
男はそう言って頷いた。
「左腕と右足を怪我してるのかい。それなのにあの三人を叩きのめすなんて、大したもんだよ」
女が感心した様子でシアタカの上から下まで見た。
「殴られたせいで血も出てる。やっぱり三人相手にすると只ではすまないねぇ」
「油断していたからな」
シアタカは小さく溜息をつく。そもそも、きちんと警戒していれば、付け入る隙を与えずに、戦いになることもなかっただろう。無力な獲物に見えたという時点で、油断しきっていたということだ。
「とりあえず、あんたの怪我を治そう。放っておくと、色男が台無しになっちまう」
男の言葉にシアタカは首を傾げた。
「あんたは癒し手なのか?」
「いや、黒石に癒してもらうんだ。俺の女房は太守様の館で働いてるからな。すぐに中に入れてもらえるさ」
男は女を省みる。女も笑顔で何度も頷いた。
「黒石に癒してもらう?」
太守の館の中に黒石があることは知っていたが、それが怪我の治療とどうつながるのかが分からない。
「正直言って、癒してもらえるとは限らないがね、人によるんだ。だけど、あんたは善い人だ。きっと黒石はあんたを癒してくれる」
「俺は善い人なんかじゃないよ」
女の言葉に、シアタカは思わず苦笑した。そんなことを言われるのは初めてだった。
「あんたの腰には立派な刀がある。だが、そいつを抜かなかっただろう。それだけでも善い人だよ」
女は刀を指差して笑った。
「ま、とにかく、太守様の館に案内するよ。ついておいで」
女が手を動かして導く仕草を見せる。
「あんたは……?」
シアタカは男を振り返る。
「ちょうどいい機会だ。ちょいとゴミを掃除しないとな。ちなみに言うと、俺は善人じゃあないんだ」
そう言って太い棒を手に取った男は、獰猛な笑みを浮かべた。
商売に一段落ついたアシャンは、大きな疲労感を覚えて大きく溜息をついた。商売をするというのは、体の疲れだけでなく、頭がひどく疲れるということを実感している。元々故郷にいた時から、アシャンはあまり喋ることが得意ではなかった。感情が昂ぶると、頭の中が混乱して言葉がまともに口から出てこないのだ。同じ年頃の娘たちが早口で楽しそうに会話しているのを羨ましく思ってはいたが、どうしても同じように喋ることはできなかった。
それは優秀なラハシの証だと父は慰めてくれた。ラハシはキシュの思いが分るように、頭の中に道が出来ている。人とキシュの思いは全く違うのだから、道の形も全く違う。その道が、お前の言葉が出てくるのを少し邪魔しているんだ。父はそう言った。ゆっくりと、落ち着いて言葉を導き出せばいい。皆は、お前の言葉を待ってくれるだろう。
キセの塚では彼女は限られた人間と話していれば良かった。彼らは皆、アシャンを知っていたし、彼女も彼らを知っていた。しかし、故郷より遠く離れたカラデアでは、彼女のことなど、誰も知らない。ここでは彼女は、アシャンではなく、キセの一族の隊商頭なのだった。
隣では、ウァンデと男たちが酒を片手に談笑している。商売の話や、戦の話、それに、男の話だ。こうなると、アシャンにとっては退屈でしかない。隊商でたった一人の女は、除け者でしかなくなる。
市場の通りに視線を彷徨わせていたアシャンは、見覚えのある男を見付けた。
「シアタカ!」
右手を大きく振って呼ばわると、シアタカは、辺りを見回した後、アシャンを認めた。
「ああ、アシャン」
シアタカは、一緒に歩いていたカラデア人の女に話しかけた後、杖を突きながら歩み寄る。その顔は腫れており、傷だらけだった。
「どうしたの、その顔?」
アシャンは驚きの声をあげる。
「いや、何でもないよ」
シアタカは首を振った。
「何でもないわけないよ」
「何でもない」
シアタカは語気を強めて繰り返した。アシャンは、その口調に怒りを覚えて口を噤んだ。そもそも、心配をしてやる必要などないのだ。
「派手にやられたな」
ウァンデが笑う。
「それで、勝ったのか?」
シアタカは無言でウァンデを見た。
「やられたのか。まあ、その身体なら仕方がない。恥じることはないさ」
戦士の言葉にも、シアタカは反応しない。ようするに、喧嘩に負けたから悔しいのか。子供みたいだな。アシャンは口元に微笑を浮かべた。
「で、あっちのカラデア女は誰だ?商売女でも買ったのか?」
笑いながら戦士が聞く。
「そんなんじゃない。黒石に案内してもらうんだ」
シアタカは、眉根を寄せると言った。
「黒石?カラデアの守護者っていう……」
「ああ、そうらしいね」
「どうしてシアタカが黒石の所に行くの?」
「怪我を治してもらえる、らしい……」
シアタカの言葉は自信無さげに小さくなっていった。
「私も行きたい!」
アシャンは思わず身を乗り出す。その勢いにシアタカは仰け反った。何しろ、兄にしろ男たちにしろ、商売と食い物くらいにしか興味を持っていない。商人たちと声を嗄らしながら取引をしながらも、自由に歩き回っていたシアタカを羨ましく思っていたのだった。
「それは、俺が勝手には決められないな」
シアタカは困ったような表情で、振り返った。腕組みしていた女はそれを見てこちらに歩いてくる。
「この娘も一緒に行きたいって言ってるんだが……」
「ああ、大勢で詰め掛ける訳じゃないなら、構わないよ。ただ……」
女はキシュを見やって言う。
「家畜とは一緒に入れないよ、蟻使い」
女の言葉に、アシャンはむっとして黙り込む。シアタカはその表情を見て慌てたように口を開いた。
「キシュが付いて来る必要はないだろ?なあ、ウァンデ」
「そうだな。キシュは置いて行けばいい。もう今日は仕事は終えたんだからな」
「え、それじゃあ……」
「行って来い。見聞を広めるのも隊商頭の仕事だ」
ウァンデは笑みを見せるとアシャンの肩を軽く叩いた。
そうして、アシャンはシアタカと共に太守の館への道を歩いている。
「黒石は万人を受け入れるんだよ。だから、誰でも黒石に触ることはできるんだ。でもこの前、それを良いことに黒石を持っていこうとした奴らがいたんだよ。夜だったから、詳しくは知らないけれど、大騒ぎになったんだ」
歩きながら、女は二人に向かって話す。
「黒石は大丈夫だったんだな」
「まあね。でも、大勢、人が死んだんだ。生き残った咎人たちを国に送り返したんだけど、どうなることやら」
「そんなことをするのは、どんな奴らなの?」
「確か、ウル・ヤークスって言ってたねぇ」
「へぇー、ひどいことをする奴らもいるんだね。ウル・ヤークスかぁ」
アシャンはそう言ってシアタカを見やった。シアタカは頬を引き攣らせながらも無言だ。
「そんな事があったのに、今でも黒石に触れることができるのね」
「ああ、誰も拒まない。これが黒石の意志だし、教えだからね。野蛮人が奪いに来ようと、それは変わらないのさ。太守様としては頭が痛いだろうけど」
女はそう言って笑った。
やがて、鮮やかな青い彩瓦に覆われた館に辿り着く。女が入り口に立つ兵士と二言三言言葉を交わすと、群がる人々を背に、あっという間に門をくぐる事ができた。アシャンは、石造りの建物の巨大さに感心しながら見上げる。ひんやりとした空気が、心地よかった。
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