第3話
ウィトは、そびえ立つ黒い断崖を見上げた。傍らに立つラゴも同じように見上げ、黒い鼻をひくひくと動かしている。
「ここで匂いは消えているのか?」
ウィトは、ラゴに顔を向ける。ラゴは大きく頷いた。そして、大きく腕で円を描くと、複雑な手振りと荒い息を数回吐き出す。
「大勢がここで死んだ……」
ウィトは呻くように呟く。この突出して屹立する巨岩の他に、大小の岩が立ち並んだ岩場には、生命の気配など何もない。皆、ここで最期を迎えたのか?だが、だとしたら骸はどこにあるのだろうか。
「血の匂いがするのは、あの岩山の上なんだね?」
ウィトの問いに、ラゴは首を傾げた。手があちこちを指した後、自分の鼻を触る。
「ここだけじゃないのか……」
戦いが長引いたのならば、広い範囲に血の匂いが散らばっているのは理解できる。まずは、その痕跡を辿るしかないだろう。
「匂いの痕を辿ろう。一番激しい戦いの場所に、騎士シアタカはいたはずだ」
ウィトが言うと、ラゴは頷いた。
ラゴに導かれながら、恐鳥は起伏の激しい岩場を跳ねるようにして進んだ。鞍上から身体が放り出されないように太腿に力を込めながら、周囲に注意を払う。
シアタカたちと別れた戦場では、仲間たちの死体は放置されたままだった。すでにカラデア軍は立ち去った後で、すぐに痕跡を覆い隠してしまう沙海に残された僅かな手掛かりから、北へ向かったことが分かった。予定通り、カラデアへ援軍へ向かうのだろう。
戦場跡に残された死体の中に、シアタカはいなかった。埋葬できないことを詫びながら、ウィトは死者への祈りを捧げた。
その後、少数の部隊が南へ向かう痕跡を発見したのだ。援軍の中から人員を割いてでも逆の方向へ向かう必要ができたということは、生き残った部隊を追わなければならないということだ。ウィトはその推測に希望を託して、ここまでやって来た。
ラゴが一声鳴いた。恐鳥と駆竜の死体が、四体、地に倒れていた。しかし、カッラハ兵や鱗の民の死体は見当たらない。とはいえ、確かにここで両者の戦いがあったことは間違いないだろう。
右手には巨岩がある。ここから頂上へなだらかな坂になっていた。そちらにも、恐鳥の死体が転がっている。
「あの岩山へ、皆、追い詰められたのか……」
戦いの流れを想像して、ウィトが呟いた。あの岩山へ上れば、全ての結果が分かるのか。そして全てが終わるのか。希望を打ち砕かれてしまいそうな、不吉な予感が、これ以上進むことを躊躇わせてしまう。
恐鳥を止めてしまったウィトを、ラゴが振り返る。小さく悲しげな鳴き声を発した。
「ああ、分かってる。分かってるよ」
ウィトは溜息をつくと俯いた。結果がどうあれ、現実を確かめて、受け入れるしかない。そのために自分はここまで来たのだから。
ラゴが険しい唸り声を上げた。ウィトは、はっとして顔を上げる。
次の瞬間、恐鳥の足元に矢が突き刺さった。恐鳥が驚き、片足を上げる。ウィトは慌てて手綱を握った。視線を周囲にはしらせる。
「そこを動くな!」
鋭い、女の声が響く。ルェキア語だ。
「武器を触るな。武器を持てば直ちに射殺す!」
鞍に収めていた弓に手を伸ばしかけて、その動きを止める。ラゴも、唸り声を上げるが、その場で動かない。
「その肌の色は、東の遊牧の民だな。そして、狗人を連れている。それにその軍装、ウル・ヤークスの者か?」
岩陰から、何人もの人影が姿を現す。黒い肌のカラデア人と、鱗の民だった。
弓を構えたカラデア兵たちを背に、一人のカラデア人が岩陰から降りてくる。腰に剣を吊るして胸甲を身に着けた長身の女だった。黒髪を結い上げ、簡素ながら美しい髪飾りをつけている。カラデア人の年齢はウィトには分かり難いが、少なくとも二十代半ばに見える。その鋭い視線は、油断なくウィトを捉えていた。その後を続いて、大身の穂先を備えた槍を担いで、独特の意匠に彩られた服を着た鱗の民がゆっくりと歩んで来る。
「答えろ。言葉は通じているのだろう?」
カラデア人の女は、厳しい表情でウィトに言う。ウィトは睨み付けるようにして女を見返すと、口を開いた。
「確かに、私はウル・ヤークスの者だ」
「やはりそうか。ここでの戦いの生き残りか?」
女は頷きながら、ウィトの背後に視線を送った。
「いや、違う。生き残りを探して、ここまで来た」
「他に仲間はいるのか」
女の問いに、ウィトは一瞬の逡巡の後に答えた。
「いる。私は斥候だ。私の後から、二百の兵がやってくる」
「カドアド、本当なの?」
女は、振り返ると大声で聞いた。
「偽りです、ラワナ様。砂から音は伝わってきません!」
岩陰からのぞく男が叫び返す。
「ウル・ヤークスの者、無駄な嘘はつかないほうがいいわ」
ラワナと呼ばれた女は、鋭い視線のままに口元に笑みを浮かべた。ウィトは舌打ちすると顔を背ける。どうやら、相手には腕の良い術師でもいるようだ。
「たとえ蜃気楼を使っても、我らを騙す事はできない。武器を捨てて、大人しく降りなさい。そうすれば命をとらないわ」
「降伏はしない」
ウィトは頭を振る。実際のところ、恐ろしくてたまらない。味方はラゴしかいない。敵の数ははっきり分からないが、不利な状況であることは間違いない。勝てるとは思えなかったが、あの時、敵の包囲を抜けたときの経験が、ウィトに僅かな勇気をくれる。
「勝てると思っているの?ウル・ヤークスの兵は、己の武勇に余程自信があるのね」
ラワナが呆れた様子で首を傾げる。
「勝てるとは思っていない。だが、やらなければならないことがある」
「やらなければならないこと?」
「ここで戦い、傷付いた同胞を探す」
ここまで来たのは、その為なのだ。その前に敵に降伏したならば、ここに来た意味は失われてしまう。
ウィトの答えを聞いたラワナが、笑みを浮かべた。
「お前の仲間は皆、ここで死んだわ。我が兵も一人しか生き残らなかったけれどね」
ラワナの冷徹な答えが、ウィトに突き刺さった。
「嘘だ!」
絶望と激情が短い叫びとなって飛び出す。
「嘘ではないわ。死体はこの近くに埋められている。確かめたいなら、一緒に掘り出してみる?」
ラワナの答えが、ウィトの理性を打ち砕いた。
「貴様っ!」
ウィトは腰の刀を抜き放つ。次の瞬間、矢がウィトの左肩に突き刺さった。身に着けている鎖甲も、鋭い鏃を完全に防ぐことはできない。矢を肩に受けた衝撃と驚きで、ウィトは鞍上から転がり落ちる。恐鳥は鳴き声を上げて、その場から二、三歩離れた。
ラゴが唸りながらウィトに駆け寄った。武器は構えずに、牙を剥き出しにしてラワナを威嚇する。
「ごめん、ラゴ……」
苦痛に呻きながら、ウィトは顔を上げる。これまで生きてきた中で、矢を体に受けたことなどなかった。そのため、痛みと恐怖で混乱している。身体が細かく震えてまともに動けそうになかった。
「頭は冷えたようね。これで自分の立場が分かったでしょう」
ラワナは、剣を手に、ウィトに歩み寄った。その横には鱗の民が立っている。
「お前が仲間思いなのは分かった。だけど、無駄に争って死んでしまっては、何もかも無意味になるのよ」
ウィトは、歯を食いしばってラワナを見上げる。
「本当に、皆、埋まっているのか?」
ラワナは一瞬悲しげな表情を浮かべるが、すぐに表情を消した。
「生き残った者の報告が正しければね。ウル・ヤークスの兵はここで、最後の戦いを迎えた」
ラワナはそう言って空いている左手をゆっくりと大きく回した。
「勇敢に戦ったみたいね。カラデアの兵も一人しか生き残ることができなかった。私達は、報告を受けて、確認するためにここまでやって来たの。まさか、生きたウル・ヤークスの兵に出会うとは思わなかったけれど」
「そうか……」
やはり、皆、死んでいた。騎士シアタカでさえも。急激な脱力感が体を襲い、ウィトはうなだれた。
「大丈夫?」
ラワナの声がなぜか優しく聞こえる。
「降伏する。だが、お願いがある」
うなだれたまま、ウィトが言った。
「何?」
「祈りを、亡くなった同胞に祈りをささげたい」
皆に約束した。それだけは果たさなければならない。それを果たせば、己の体を運命に委ねることができる。
「構わないわ。作法は違うと思うけれど、私達も祈りをささげましょう」
ラワナは、柔らかい口調で答えた。
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