第2話
市場は、圧倒的な音と匂いに満ちていた。キシュの複数の感覚器官がとらえる膨大な情報が、アシャンの中に流れ込んでくる。こういう時に、ラハシは大変だ。キシュは世界を知ることに対して貪欲だった。ありとあらゆることを知ろうとする。当然のことながら、ラハシはそれに付き合わされることになる。故郷では味わえない音や匂いはキシュを刺激し、アシャンを刺激する。人が捉えられない様々な感覚を、アシャンは感じることができた。だが、人の身ではそれを完全に理解することは難しく、時に辟易させられる。
市場は人で込み合っていた。沙海の中心にあるこの街には、各地から様々な民が集ってくる。キシュから流れ込んでくる情報よりも、アシャンには様々な人々、その衣装に心奪われていた。漆黒の肌を黄金で飾った人々、褐色や、鉛灰色の肌を持つ人々、鱗の民、背に大きな翼をもった翼人、二足歩行する犬のような狗人などがこの場を行き来している。
こんな異形の人々を見ると、さすがに驚きが先立つ。キシュガナンとキシュに初めて会う外つ国の民も、こんな驚きを覚えているのだろうと、アシャンは想像した。
一度宿に入ったキセの塚の一族は、休むことなく荷を解いて市場に向かった。打ち合わせどおり、二手に分かれる。
本来ならば一週間近く滞在するのだが、今回の交易は二、三日の滞在で帰還することを決めていたる。カナムーンの忠告通り、ウル・ヤークスの侵攻の前に素早く商売を終えてしまおうと考えたのだった。
二手に分かれたうち、一方は商品を市で売る。もう一方はキシュの望む物を市で探す役割だ。当然ながら、ラハシはキシュとともに市を歩くことになる。ウァンデもそれに同行していた。市場は活気がある分、必ずしも平穏な場所ではないからだ。キシュは三匹がアシャンと同行する。三匹もいれば小群としてアシャンに意志を伝えることができる。
奇妙なのは、シアタカも同行を申し出たことだ。宿についてからは、シアタカも自由に行動していいと言ってある。街のどこへ行こうとも自由なのだが、シアタカは杖をつきながら共に歩いている。アシャンにはシアタカの本心は計りかねたが、少なくとも悪意は感じられなかったので、同行を認めたのだった。
「シアタカ、お前の刀があるだろう」
ウァンデはシアタカの刀を指差した。
「ああ、これが何か?」
「その刀は、キシュガナンがキシュと共に鉱山から掘り出す金属でできているんだ」
「本当か?」
シアタカは立ち止まると、鞘から半ばまで刀を抜いて、刃を眺めた。
「間違いないな。その独特の紅い色は、アリカリだ。一族の槍や剣もアリカリを鍛えて作るんだ」
ウル・ヤークスでは、この金属はアムカム銅と呼ばれていた。その色も呼び名の由来の一つだが、何より鍛えるまではまるで銅のような可塑性を備えているからだ。さらに、一度鍛え上げてしまうと、鉄を上回る硬度を誇っていた。
「そうだったのか。ウル・ヤークスではアムカム銅、いや、アリカリだったな、これはとても高価なんだ。沙海の果てで産するということしか知らなかったけど、まさかキシュガナンが掘り出してたなんて、思いもしなかったな」
「ここの市場で売った鉱石が、ウル・ヤークスで何倍の値になっているか、知りたいところだな」
ウァンデが笑みを浮かべた。アシャンが口を開く。
「だったらウル・ヤークスに直接売りに行ったらいいんじゃない?」
「お前もついて来るんだぞ?沙海の辺でへばっているお前が、ウル・ヤークスまで行けるのか?」
「それは嫌だな」
からかうような口調のウァンデに、アシャンは顔を顰めて見せる。沙海の暑さはアシャンにとって責め苦だった。この盆地の中も、沙海よりはるかに過ごしやすいとはいえ、耐え難い暑さだ。涼しい顔をしているシアタカが信じられなかった。
キシュがアシャンに注意を喚起した。興味をひく物を見つけたということだ。アシャンは足を止めると店先を覗き込んだ。ウァンデとシアタカも慌てて立ち止まる。
キシュがアシャンの背後から進み出た。並べられている商品に近付く。触覚が頻繁に動き、感覚が活発に活動している。
店主の男は、無言で客を眺めていた。背の高い黒い肌の男だが、衣装や顔立ちからするとカラデア人ではないようだった。
「これはギ・ムーか。これは甲冑魚の頭。それに大鰐の肝、こっちは巨竜の脊椎か……。これは何だろう。分からないな。なんだか奥に広がってる感じだなぁ……」
アシャンは独り言を呟きながら、山と積まれた品を、一つ一つ手にとってキシュの触覚に向ける。キシュの分析した情報は、瞬時にアシャンに伝わる。その情報に基づいて、アシャンの知識の中からその名を導き出すことができた。
アシャンはキシュの小群と話し合い、キシュに必要な品を幾つか選び出した。
店主はにやりと笑みを浮かべる。思わず怯んでしまうような凶悪な顔だった。
「嬢ちゃん、なかなか面白い物選ぶじゃないか。どれも高いぜ。なんせ、森や川で命がけで獲った物ばかりだからな」
男は訛りのひどいルェキア語で言った。
「た、沢山買うんだから、安くしてよ」
アシャンは、意を決すると言い返す。父に、商売の秘訣は退かないことだと聞いた覚えがある。
「蟻使いは金を持ってるて噂だぜ。けちけちするなよ」
「いい加減な噂で、判断しないでよ。こ、こっちは、はるばる沙海を渡ってきてるっていうのに」
アシャンはつっかえながらも言い切った。
「それは俺だって一緒だぜ。南の森から沙海を渡ってここまで来てるんだ。高く売らないと商売上がったりだ」
二人はこの調子で言い合った。半ば喧嘩腰の言い合いだが、アシャンは素早く言い返せないために分が悪かった。ウァンデは、沈黙したまま、腕を組んで見守っている。
結局、男にやや有利な条件で、商談は成立した。
「だから向いてないって言ったのに……」
商談の結果に、アシャンはぼやく。
「まあ、誰でも最初はそんなものだ。これから覚えていけばいいさ。明日は上手くやればいい」
ウァンデはそう言うと首を傾げてみせた。仕方がない時に兄がよくやる仕草だ。
三人とキシュはさらに何軒かの店をまわった後、広場に向う。ここで仲間と合流する予定だった。すでに陽は天の頂点を過ぎ、下りはじめている。
広場は、市場とはまた異なる雰囲気を持っていた。芸人があちこちで芸を披露し、果汁酒、砂糖水、砂糖菓子を売り歩く売り子が、歌うように客を誘っている。
正面には巨大な石造りの建物があった。鮮やかな青い彩瓦に覆われたその館は、太守が暮らしているらしい。門前にはカラデア人や他の種族の者たちが群がっている。
「兄さん、あの人たちはどうして太守の館の前で並んでるの?」
アシャンはウァンデを振り返る。
「ああ、太守の館には、黒石が祀られているんだ」
「黒石?」
「この街の守護者だそうだ。カラデアの生みの親らしいぞ」
ウァンデは大して関心がない様子で答えた。アシャンは、カラデアの生みの親という言葉に興味を持ったが、ウァンデはそれ以上そのことについて話すことはなかった。
仲間はすぐにやってきた。キセの塚の一族が運んできた商品、キシュの産する蜜、カフと呼ばれる繊維、そして鉱山から掘り出したアリカリの鉱石、これらはキシュガナンの地でしか産することがない物だ。カラデアの商人たちは、キシュガナンの民を待ちかねている。素早く捌こうと思えば、すぐにでも売切れてしまう物ばかりだった。
「急いだ割には高く売れたよ」
仲間の言葉にウァンデが頷く。
「アシャン、初仕事はどうだったんだ?」
「あまり、上手くいかなかった」
仲間の問いに、アシャンは眉を顰めて見せた。
「ま、アシャンは外つ国は初めてだ。慣れるまで時間がいるだろう」
「商談をまとめただけでも大したものさ」
男達は笑顔でアシャンの肩を叩く。アシャンは男達の荒っぽい励ましに、強張った笑顔で応じた。
仲間と話していたアシャンは、ふとシアタカの様子に目がいった。シアタカは一人、所在なげに広場の端に腰を下ろしている。
アシャンはしばらく躊躇った後、シアタカの横に腰を下ろした。
「少しはキシュに慣れた?」
アシャンはシアタカを見る。初めの頃のシアタカのキシュに対する態度は、まさしく父が言っていた通りの反応だった。逆に、カラデアの人々の反応が思っていた以上に乏しくて、拍子抜けしたほどだ。
「まあ、まだかな。俺にはまだ大きな蟻にしか見えないんだ」
シアタカは申し訳なさそうに言う。悪い人ではないな。アシャンはそう思う。初対面の印象は最悪だったが、話していると、人に気を遣う人間だと感じられた。ラハシというのは、相手の心の動きを、微かにだが感じ取ることができる。そのため、嘘を見抜くことも得意だ。ラハシとしてシアタカを観察すると、あの獣のような動きとは対照的な、繊細なものが感じ取れた。
「父さんも言ってた。外つ国の民は、キシュを怖がるって」
「そりゃそうだろう。今でも、知恵を持ってるなんて信じられないよ」
「私は子供の頃から一緒だったから。親、兄弟、友達みたいなものかな」
「どんな感じなんだ?その……、キシュと意志を通わせるというのは」
アシャンはしばらく考え込んだ。子供の頃から当たり前のようにやってきて、しかも一族の者もそれが当然と考えてきたため、このような質問をされたのは初めてだった。
アシャンはおもむろに口を開いた。一つ一つの言葉を選び、形にすることを心がける。そうしなければ、シアタカに説明することはできないだろう。
「キシュは、人と全然違う。キシュは群れだからこそキシュだし、群れのことを第一に考えているの」
アシャンは、言いつつシアタカを見た。シアタカは真剣な表情でアシャン見詰めている。言葉を頭の中でまとめながら、続けた。
「キシュは、常に欲しているの。大きな欲望は、自らの一族を繁栄させることなんだけど、そのために色々なことを知りたがるし、食べてみたがるんだ」
「それならただの蟻じゃないか?」
「確かに、人とは全く違う。でも、そこには大きな意志と知恵があるのよ。人は、個人個人が違う、ばらばらな存在でしょ。でも、キシュは大きな群れが一つになってキシュになる。キシュが一匹だけなら、ただの大きな蟻かもしれないけど、群れになると、それはキシュなんだ」
言葉に伝えるのは難しかった。これまで当然のこととして意識していなかったことを、言葉にするのは難しい。
「想像も出来ない話だなぁ。群れで一つの存在か」
シアタカは嘆息した。
アシャンは理解して欲しくて言葉を探したが、これ以上言葉が見付からなかった。キシュの存在は、言葉で理解するのではなく、感じるしか他にない。
「シアタカ、言ってたよね。聖女王が命じれば死ねるって。私にはそれが理解できないんだ。キシュも大いなる母を守るために命を懸けるけど、それは頭を殴られないために腕で守るようなものだし。大いなる母とキシュは、等しくキシュの群れでしかないの。それに、私達ラハシも、大いなる母が死ねと言っても死にはしないな。絶対にそんなことは言わないと思うけどね」
「でも、キシュは家族、なんだろう?」
「そうね。でも、シアタカの言っている事とは違うと思う。キシュは家族だけど、主じゃない。キシュガナンに主はいないの。キシュを守るために命を懸けるけど、それはキシュの命じる死じゃない。キシュガナンとキシュは対等に、助けあってるんだ」
「ますます分からなくなってきた」
シアタカは首を傾げた。
「まあ、もう少しキシュと付き合ってみてよ。少しは分かるようになるかもね」
「そうかな」
シアタカは苦笑した。
戻ってきた戦士がアシャンとシアタカに砂糖水を差し出す。
二人は礼を言って受け取った。
「ウル・ヤークスの戦士、カラデアの感想はどうだ?」
「ああ、初めて見る物がたくさんあるな。面白い」
シアタカと戦士の会話を横で聞きながら、アシャンは砂糖水を口に含んだ。強烈な甘味が身体に染み込んでくるようで、思わず顔を顰める。
甘いけど、キシュの蜜ほどおいしくはないな。アシャンは舌の上で甘さを転がしながら考えた。その甘さはひどく単純で平板な形をしていて、キシュの蜜のような、丸さと鋭さを兼ね備えた複雑な形をした味ではない。染み入る甘さを味わっていると、キシュがその感覚を共有しているのを感じる。どうやら初めて味わうらしい。父はカラデアでは砂糖水を飲まなかったようだ。
アシャンは目を閉じた。父は、ここで何を見て、何を食べ、何を話し、何を感じたのだろう。キシュはそんなことは教えてくれない。彼らはラハシの行動や思考など、記憶していない。それでもアシャンは、キシュの記憶を探らずにはいられなかった。そこから何か手掛かりを得られるような気がしていた。
「アシャン、アシャン」
アシャンは、肩を揺さぶられて我に返った。眼前に、しかめ面のウァンデがいる。
「またキシュの所に行ってたな?父さんに戒められていただろう」
ウァンデが親指をアシャンの額に当てた。
「ごめんなさい、でも……」
「でも、は、無しだ。帰ってこれなくなるぞ」
それでも、いい。きっと父さんもそこにいる。大いなるキシュの元に。
「キシュの元に向かうことが出来るのは、全てを終えた名誉あるラハシだけだ。お前はそうじゃない」
ウァンデはアシャンの心中を見透かしたように言う。
「宿に戻るぞ」
黙りこくってしまったアシャンの肩を、軽く叩いた。
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