第1話

 一行は渓谷の回廊を抜けた。激しく揺れる橇の上でうつらうつらとしていたシアタカは、目を覚ました。空気の性質が急激に変化したことを敏感に感じ取ったのだ。空気があきらかに湿気を帯びている。


 彼方に見える山々の稜線から、朝日が昇ろうとしていた。その光に、鋭さはまだ少ない。


 断崖に挟まれた広い下り坂が広がっている。荒涼とした岩だらけの坂道では、自然と急かされるように一行は早足になった。橇の振動はひどくなり、シアタカははっきりと目を覚ます。やがて、断崖の両壁は徐々に広がっていき、遂には緑が溢れる盆地の景色が飛び込んできた。


 まるで城壁のような岩山に囲まれた盆地は緑に満ちていた。起伏に富んだ土地は草や木々に覆われている。沙海の乾ききった白色に慣れた目には、朝日に照らし出された緑が眩しかった。盆地の中央を流れる川は豊かな水量を湛え、ゆっくりとだが力強く水が流れている。あちこちに池や沼も見えた。その中の一つは池と呼ぶにはあまりに巨大なものだ。その輪郭や堰が見てとれることから、貯水池なのだと推測できた。


 遠くには城壁に囲まれた街が見えた。周辺には集落が点在している。集落や、広大な農地は水路が縦横に張り巡らされており、小舟が行き来しているのが見えた。


 戦士の一人が歓声をあげた。他の男達もそれに応じて歓声をあげる。彼らは歌を歌い始めた。砂だけの死の世界から逃れることのできた喜びが、歌声となって響く。


 シアタカも上体を起こして景色を眺めていた。


「あれがカラデアか」


 シアタカの言葉にウァンデが頷く。


「キセの美しさには及ばないが、沙海のただ中にあってはまるで宝石のような美しさだ。砂塗れになってきたことが嘘のようだな」

「サラハラーンの方が美しいかな……」


 シアタカが呟いた。確かに、こんな緑溢れる景色はウル・ヤークスでも限られた地方でしか見ることは出来ない。しかし、それが必ずしも美しさに繋がるとは思えない。サラハラーンは砂漠の街だが、砂漠と隣り合った緑の輝き、整然とした町並み、青空の組み合わせが美しかった。何かが欠けているからこそ生まれる美しさもあるように思える。


「それは、お前の故郷の名か?」

「いや、俺は故郷を知らない。サラハラーンは俺が騎士になるための訓練を受けていた街の名だ」


 シアタカは頭を振った。


「故郷を知らない?孤児ってこと?」

「ああ、正確に言うと、俺は戦奴だったんだ。たぶん、幼い頃に家族は皆死んだと思う。気付いたら、戦奴として戦に出されてた」


 アシャンが哀れみとも同情ともつかない表情を向ける。シアタカは少し苛立ちを覚えた。そんな顔をされる覚えはない。


「幾つの時からだ?」


 ウァンデの問いにシアタカは首を傾げた。


「よく分からないんだ。八つの時には戦場にいたと思う。そのうち槍や剣を扱えるようになったら、戦の先頭に立たされてた。同年代の仲間は大勢いたけど、皆死んだんだ。俺だけ、生き残った」


 そのことに大した感慨はない。ただ、偶然と幸運によって生きているだけだからだ。


「まあ、正確な年齢は俺にも分からないんだ。幼い頃の記憶が曖昧で。でも、戦奴になってからの記憶は、よく覚えてる」

「それで、なぜ騎士になった?」

「俺を戦奴にした部族が、ウル・ヤークスに滅ぼされたからさ。ヴァウラ将軍が俺を救ってくれた。戦奴としてウル・ヤークスに逆らった俺を助命してくれた。しかも、騎士になれるよう取り計らってくれたんだ。そして、サラハラーンにある旗の館に入ることが出来た」


 旗の館とは、紅旗衣の騎士を育成する施設だった。


「ヴァウラ将軍はシアタカの親代わりということか」

「親代わり?考えたこともなかったな……」


 シアタカは意表を衝かれて目を瞬かせた。


「紅旗衣の騎士は、聖女王を自らの親と思っているんだ。俺達を育て、生かしてくださる、偉大なる存在だ。俺達紅旗衣の騎士は、聖女王に命を捧げるために生きているんだ」


 これは覚悟でもなんでもなく、当然のこととして頭にある。死にたくはないが、聖女王に死ねと命ぜられれば、息を止めるように死を選ぶだろう。


 アシャンは眉根を寄せるとシアタカを見やった。


「ちょっと理解できないな……」

「理解してもらおうとも思わないな」


 シアタカは冷たく言い放つ。アシャンはむっとしたようにシアタカを睨んだ。


「ともかく、ヴァウラという男はシアタカの恩人というわけだ。そうだろう?」

「そうだね」


 シアタカは頷く。恩人という言葉も妙に軽薄に感じるが、他に例えが見付からない。


「サラハラーンって、どんな街?」

「サラハラーンは、紅き砂漠の辺にある。大きな街なんだ。五万人は住んでいる」

「五万!」


 アシャンは驚きの声をあげた。ウァンデと顔を見合わせる。


「想像も出来ない人数だな」

「王都にはもっと人が住んでる。五十万人だったかな。もっといたかも」

「世界は広い」


 ウァンデは唸り声にも似た調子で言った。


「キシュガナンの民がどれだけいるのか分からないが、ウル・ヤークスには遠く及ばないな」

「サラハラーンの街は、きれいに舗装されてるんだ。広場や庭園には大きな噴水があって、見ていて飽きないよ。美しい聖堂、街路には木々が植えられていて、一年中花が咲いてる。特に、薔薇の庭園がいい。とても、美しい街だ」

「噴水か。水が噴出しているってことだよね。見てみたいな」


 アシャンが呟いた。


「そのうちカラデアにも造られるよ」


 シアタカが言った。こんなに水が豊富な土地ならば、技術者も設計が楽だろう。


「面白い皮肉だな」


 ウァンデが小さく笑う。何が面白いのかシアタカには分からなかった。


 キシュガナンは、カラデアの人々には見慣れた存在のようだった。カラデアに向かう道すがら、時折すれちがう黒い肌のカラデア人農民や鱗の民の兵士達は、キシュの姿を見ても驚きはしなかった。


 カラデアの城壁は、ウル・ヤークスの城壁と比べて優れたものとはいえなかった。日干し煉瓦を積み重ねて建てたものだが、城壁としては高いものではない。高度な建築技術を使っているわけではなく、戦呪による攻撃を防ぐための抗呪を施しているようにも見えない。攻城兵器や魔術師達によって容易に突破できそうだ。


 広く作られた城門では、カラデア人と鱗の民の兵士がいたが、街に入る人々を詳しく調べるでもなく、荷物を一瞥して通行税を徴収しているだけだ。


 ウル・ヤークスの軍勢が近付いていることを知らないのだろうか。全く緊張感が感じられない。沙海で繰り広げられている死闘が、ここにいるとまるで夢のようだ。


 カラデア人の兵士は、キセの一行を見ると笑顔を見せた。


「よう、そろそろ来る頃だと思ってたぞ、蟻使いども」


 兵士は一行を見渡すと、怪訝な表情を見せた。


「おや、大将は今回はいないのか?」

「ああ、父は死んだんだ。代わりに妹が隊商頭をしている。よろしく頼む」


 そう言うと、ウァンデはアシャンの肩に手を置いた。


「そうか、残念だな」


 兵士は悲しげな表情を浮かべると頷いた。


「娘さんが隊商頭か。立派なもんだ。頑張れよ」


 兵士はアシャンに顔を向けた。アシャンは緊張した面持ちで頷く。


「ところでこいつはどうした。それに、鱗の民の旦那を連れてるのはどういうわけだ?」


 兵士は橇に横たわるシアタカに視線を向け、次いで、カナムーンを見た。


「こいつは足を怪我して歩けないんだ。彼もそうだ。それに、伝令として太守に会わなければならないそうだ」


 ウァンデの説明に兵士は怪訝な表情をする。


「太守様に?」

「重要な話だ。長老達の使いと考えてほしい」


 カナムーンは上体を起こすと言った。兵士は真剣な表情に変わる。


「太守様まで使いを走らせようか?」

「お願いしよう。この身体だ。動けないので、運搬してほしい」


 兵士は頷くと、部下の一人に命じた。部下は街の中へと走り出す。


「キセの一族の方々。ひとまずここでお別れだ」

 

 カナムーンは一行に顔を向けると、喉を鳴らした。鳥の鳴き声のような、美しい高音だった。


「残念だな。あんたとの旅は愉快だった」


 ウァンデはカナムーンの肩を軽く叩いた。他の数人の戦士も背や腕を叩く。カナムーンはカラデア兵たちの肩を借りて橇から降りると、近くの岩に腰を下ろした。


「助けてもらった礼をしたい。宿泊している宿を教えてもらえれば、後でそちらに伺おう」

「ありがとう。私達はウェイムウに泊まるつもりよ」


 アシャンは宿泊する宿の名を告げた。


 シアタカは迷った。ここでカナムーンを行かせてしまっては、自分がウル・ヤークスの捕虜として捕らわれてしまうかもしれない。


 カナムーンがシアタカに顔を向けた。


「シアタカはキセの客人だ。キセが望まない限り、シアタカのことを話すことはない」


 まるで心を見透かされたようで、シアタカの表情は強張った。


「俺達のしきたりをよく分かっているな」


 ウァンデがにやりと笑う。


「我々は、交易の相手をよく研究して、その風習に従う。これが交易を成功させる秘訣だ。犬も馬も、泉を知る駱駝に従う、といったかな?」


 見知らぬ土地ではその場に詳しい者に習えといったウル・ヤークスの格言である。


「それに、シアタカには命を救ってもらった恩もある」

「それはお互い様だ。あの時も言っただろう」


 シアタカは小さく頭を振る。己の失態を無い事にして、人に恩を売ることはできない。


「それでは、シアタカも私に恩を感じてほしい。私の願いを聞いてくれるか」

「何だ?」


 カナムーンの口から願いという単語が出たことを以外に思い、シアタカは首を傾げた。


「この街にいる間は、紅旗衣の騎士であることを忘れてほしい。そうすることで、私もキセの客人がウル・ヤークスの騎士であることを忘れることができる」

「それは……」

「勿論、紅旗衣の騎士に戻ることも自由だ。だが、それはカラデア出てからだ。ウル・ヤークス軍に戻れば、シアタカは騎士だ。そして、私もシアタカを敵として迎え撃つ」

「ああ……」


 シアタカの口元が微かに緩んだ。


「分かった。俺も、カナムーンに恩を感じている。だから、約束しよう」

「約束だ」


 カナムーンはそう言うと喉を大きく膨らませた。この唐突な反応にも、そろそろ慣れてきたな。シアタカは思わず苦笑した。


 大きな音が近付いてくる。皆が振り向くと、御者に操られ、水牛が荷車を引いてやってきた。鱗の民の兵士が随伴している。


「迎えが来ましたよ」


 カラデア兵が言う。鱗の民の兵が歩み寄ると、跪いてカナムーンに鳥の囀りのような小さな声を発する。カナムーンも似たような声で応えた。やがて、カナムーンは水牛に引かれた荷車に載せられた。


「ではまた会おう」


 カナムーンは片手をあげて言う。皆も手を上げて応えると、カナムーンを見送った。


「ウァンデ、そろそろ立ち上がりたいんだ」


 シアタカは上体を起こした。


「大丈夫なのか?」


 ウァンデはシアタカを疑わしげに見やる。


「痛みはまだあるけど、杖をつけば歩けると思う」

「強がっていないか?」

「強がってはいないよ。調律の力で少しずつ傷が癒えてるんだ」


 シアタカは、表情も変えずに足を叩いて見せた。


 調律の力は、人体の治癒能力も上昇させる。調律の度合いや力にもよるが、シアタカの場合、小さな傷ならば一晩で消えてしまう。さすがに足の傷は一晩で癒えることはないが、状態は改善に向かっている。足と腕の骨折も、骨が接合を始めているはずだ。


「身体に施した呪いの力か。大したものだな」


 ウァンデは呻くように言うと、頷く。


「こいつを使え」


 戦士の一人が、沙海を渡る際に使っていた半ば竿のような杖を手渡した。


「すまない」


 シアタカは杖に縋ると、無事な足で素早く立ち上がった。体重をかけなければ、歩くことも出来そうだ。思わず安堵の溜息を漏らした。


「アシャン、キシュにも礼を伝えて欲しいんだ。ここまで運んでくれて感謝してると」


 シアタカの言葉に、アシャンは頷いた。


「歩けそうか?」

「何とかね」


 シアタカは、笑顔を見せた。


「確かに、戦士がいつまでも橇に引かれているのは見苦しいな」

 

 戦士が笑った。


 通行税を払った一行は、城門を通過した。


「アシャン、あそこで愛想よくしておかないと駄目だぞ」

「分かってるけど、愛想笑いは苦手よ」 


 アシャンは口を尖らせた。


「苦手とか得意とか、そういう問題じゃないんだ。やらなければならないことだ」


 ウァンデの強い口調に、アシャンは渋々といった表情で頷いた。


「お父さん、前の隊商頭だったんだな」


 シアタカが聞いた。アシャンは逡巡の表情を見せたが、おもむろに頷いた。


「うん。父は立派なラハシだったの。でも、戦いで死んでしまった」

「それで父の跡を継いだのか。他に、隊商頭になる人はいなかったのかい」


 十代半ばの少女に隊商を率いさせるというのも、大胆な人選だ。シアタカから見て、彼女は手練の商人には見えない。シアタカの疑問に、アシャンは顔を顰めて見せた。


「私も、そう思った。私みたいな娘が隊商頭は無理だって。私より経験のある人が多いし、ラハシも他にいるから」


 アシャンは、ゆっくりと、噛み締めるように言葉を口にする。


「だったら、なぜ?」

「皆とキシュが私を推薦してくれたから。父の娘だから、贔屓目で見たのかもしれないけど」

「キシュが隊商頭を選ぶのか?」


 シアタカは思わず聞き返す。


「そうよ」


 きょとんとした顔で、アシャンはシアタカを見る。


「キシュは、そんなことまでできるのか?」

「そんなことって、当たり前じゃない。キシュは一族の長を選ぶ時にも意見を言うんだよ。隊商頭は小群を沙海に導く役割なんだから、キシュが意見を言うのは当然だよ」 


 シアタカとしては巨大な蟻にしか見えないキシュがそんな知能をもっているのか、人を率いる、指揮するといった概念を理解しているのか、そういったことを聞きたかったのだが、アシャンは異なる意味として受け取ったらしい。


 アシャンは、キシュが高度な知能を持つという前提で話している。それは明らかに家畜について話をしている様子ではない。


 シアタカは傍らのキシュに目をやった。絶えず小刻みに触覚を動かしているこの大蟻が、一族の長や隊商頭の人選に口を挟んでいるなど、想像がつかない。


「キシュとはどうやって話す?まさか喋りはしないよな」

「キシュが人の言葉を喋るわけないでしょう。これまで一緒にいて、キシュが喋った?」


 アシャンは呆れたようにシアタカを見やった。


「いや、喋ってない、と思う」

「キシュは音と匂いを出す。それがキシュの言葉なの。あと、ラハシはキシュと心を通わせることができる。だから、一族の誰よりもキシュと話し合えるんだ」

「心を通わせる?」


 それは不思議な言葉だった。人と全く異質な存在が、心を通じて会話できるという。シアタカには想像もつかない感覚だ。


 シアタカは、アシャンとその横に並ぶキシュをいつまでも眺めていた。

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