第8話

 沙海を、キシュと人々は行く。


 一行は、まるで山のような巨大な砂丘を乗り越えていた。足下で次々と崩れていく砂を掻き分けるように、斜面を登っていく。


 シアタカはようやく頂に立った。随分と息があがっている。それはキシュガナンの民も同様だった。


 シアタカは一息つくと、頭をめぐらせた。砂丘からのぞむ彼方には、巨大な岩山の鋸の歯のような稜線が沙海を横切っている。白い砂漠を黒い線が切り裂いているように見えた。


 一瞬吹き付けた強風は砂塵を含み、その痛みに顔をしかめた。


 砂丘の頂上で振り返る。キシュガナンの民は、兵たちの埋葬を手伝ってくれた。掘っても掘ってもその端から崩れていく沙海の大地に、何とか兵たちの遺体を埋めることができたのだが、その際に、キシュは驚異的な勢いで穴を掘ってくれたのだった。カッラハ兵と鱗の民を並べて埋葬することに少し抵抗感もあったが、この状況では諦めるしかない。あの場所に再び戻る。シアタカは決意している。ただ一人生き残った自分は、再びあの地を訪れて、祈りをささげる義務がある。


 登りきった後は、降らなければならない。急な砂の斜面を転げ落ちないように降って行く。


 シアタカは、横を歩くキシュに目をやった。六本の脚を使い、危なげなく斜面を降って行く。甲殻に覆われた巨大な生き物が歩く姿が、一瞬嫌悪感を呼び起こす。


 まるで悪夢からそのまま飛び出してきたような姿だ。これまで各地で戦を経験しているシアタカは、様々な奇妙な生き物や種族を見たことがある。だが、これほどの異様な者達に出会ったことはない。巨大な蟻もどきと生活を共にするなど、想像も出来ないことだ。


 キシュガナンの民は、いとも容易くキシュを操っているように見える。キシュはキシュガナン達から着かず離れず、まるで規則的な陣形を組んでいるかのようだ。キシュガナンは大きな合図を出すこともなく、キシュと歩いている。手綱や棒の類も使っていない。それでいながら、キシュは一定の間隔を崩すことなく、キシュガナンと歩調を合わせていた。


 アシャンという少女が操っているのかと思えば、そうでもない。時折親しげにキシュを撫でたりもするが、それだけのことだ。槍や杖で地面を軽く叩いたり、腰の袋から薬草のようなものを撒くキシュガナンもいたが、それだけであそこまで整然とした動きを保てるとは思えない。


 足元の砂が崩れる。シアタカは姿勢を崩してよろめいた。片腕を吊っているために咄嗟に立ち直れない。半ば倒れこんだシアタカを、一匹のキシュが支えた。


 シアタカは表情を強張らせてキシュから離れた。大顎を何度も開閉するキシュは、自分を嘲笑しているように見える。例え犬でも、飼い主の身体を支えるなどということはしない。


「キシュに礼を言ってよ」 


 背後からのアシャンの声を無視して歩き出す。悪夢のような大蟻の群れと蛮族の前で失態を演じたことが悔しかった。


 目の前を鱗の民が歩いている。細長い尾が、左右に優美な弧を描いていた。人の言葉を操る、蜥蜴の化け物だ。人の形をしながら人ではない種族といえば、狗人がいる。狗人は人の言葉を話さないが、豊かな感情を持ち、人に似通った心を感じることができる。しかし、この鱗の民は、巧みに人の言葉を操るというのに、そこに心を感じることができない。


 得体の知れない大蟻もどきを連れた蛮族と、敵である鱗の民。己の周りに味方はいない。今向かっているカラデアも、鱗の民の支配下にある。例え今生かされていたとしても、この後命があるとは限らない。むしろ、生き延びることは難しいだろう。噂によれば、鱗の民は敵対する者を崇拝する精霊に生贄として捧げるという。虜囚の辱めを受けた上に、残忍きわまりない殺し方をされるだろう。


 どうすれば生き延びることができるのか。逃げるしかない。だが、沙海に囲まれたこの地では、どこにも逃げ場はない。


 カリリ、と奥歯が硬質な音をたてた。


 一行はようやく砂丘を降り終えた。砂丘を降りて見ると、彼方に見えた岩山は、まるで巨大な城壁のようだった。


「あの山を抜ければ、カラデアだ。あと一晩はかかるだろうが」


 ウァンデはシアタカを振り返った。シアタカは頷いてみせる。


 あと一日。シアタカは腰の刀に目をやった。ここで血路を開けば逃げ延びることが出来るかもしれない。水袋を一つ奪えば、この一行から逃げてカラデアに潜み、ウル・ヤークスの軍を待つことが出来る。


 シアタカは目を細めるとカナムーンの背中を見つめた。隙だらけだ。刀の一突きで行動不能にできるだろう。続けざまにキシュガナンの男から水袋を奪う。調律の力を発動させなければならないだろうが、一度ならばしばらくはもつだろう。戦士の二、三人とキシュの脚を斬っておけば、追っては来ないはずだ。


 戦いに備えて集中力が高まっていく。細めた目が大きく開き、全身の筋肉が波打ち始める。


「妙なことは考えないでね」


 背後から囁くようなアシャンの言葉が発せられた。シアタカは不意を打たれて身体を強張らせた。


「妙なこと?」


 見抜かれたのか?シアタカは狼狽を隠そうとして、ことさら無表情を装いゆっくりと振り返った。アシャンは静かな色を帯びた瞳でシアタカを射貫く。


「その刀を、抜くつもりだったでしょう。すごい殺気が匂ってきたもの」

「何を言ってるんだ?」

「キシュが、ずっとあなたを見張っていたのよ。これだけの群れなら、あなたのすごい殺気にすぐ気付く」


 シアタカは困惑してアシャンとキシュを見比べた。二匹のキシュが、アシャンの傍らでさかんに触覚を動かしている。この大蟻が何を見抜けるというんだ?だが、機先を制されたのも事実だ。


 誰か合図した様子もないはずだが、周囲のキシュがシアタカを囲むように集まってきた。その様子に男達も気付いた。自然と隊商の歩みが止まる。


「アシャン、どうした」


 ウァンデともう一人の戦士が厳しい表情で立った。戦士はシアタカを睨みつけると、これ見よがしに大槍を地面に突き立てる。


「シアタカがキシュの気に障ったみたい」


 アシャンは冗談めかして言う。シアタカに分かるようにか、ルェキア語による答えだ。ウァンデは眉をひそめるとシアタカを見やった。


 これで、全て終わりだ。シアタカは大きく息を吐き出す。敵が己よりも上手だったということだ。


「シアタカ、こちらはお前を戦士の礼で迎えている。少しはそれに応じてほしいな」

「すまない。迷惑をかけた」


 シアタカは覚悟を決めた。もう成り行きに任せるしかない。






 遠くで大きな音がした。風の音に近いが、それよりも重く、硬い音だ。次いで、大量の砂が地に降り注ぐ音が続く。


 アシャンは一瞬驚くが、キシュが過去に経験している現象と分かり、すぐに落ち着いた。袋から取り出した食料をキシュに渡し終えると、仲間のもとへ戻った。


 焚火を囲む仲間達も、音に動じた様子はない。暗闇の中に浮かび上がる男達の顔は、目的地を前にして寛いでいる。楽器を奏で、歌う者もいる。大切にとっておいた最後の酒を飲む者もいた。


「兄さん、今のは何?」

「今の?」


 ウァンデはアシャンの問いが理解できなかったらしい。


「今の大きな音よ」

「ああ、今の音か」


 ウァンデは微笑んだ。


「噴砂だ」


 ウァンデは砂を掴むと、宙に放り投げた。


「こんな風に、地面から砂が噴き出すんだ。そういえば、今回の旅だとこれまで出くわさなかったな。沙海では時々ある。怖かったか?」


 そう言ってにやりと笑う。


「馬鹿にしないでよ」


 アシャンは膨れっ面でウァンデの肩を小突いた。ウァンデは笑ってそれを受ける。


「三度ほど見たことがあるが、面白いぞ。腰の高さまでしか噴き出さないこともあるし、昼間に越えてきた砂丘よりも高く噴き出すこともある。今の音からすると、なかなかの高さだな」

「どうしてそんな事が起こるのかな」

「さあ。俺には分からん」


 ウァンデは興味を持っていないようだった。彼は現実的な人間だ。ただあるがままに受け入れ、それをどう利用するかだけを考える。噴砂など、見世物として以外には興味がないのだろう。戦士らしい性格だ。


「噴砂はいきなり噴き出すからな。俺なんか、足下からいきなり砂が噴き出してひどい目にあったよ。他の一族で、噴砂で死んだ奴もいるらしいからな。砂塗れですんで助かった」


 戦士の一人がおどけてみせる。男達が笑い、アシャンもつられて笑った。そんな中、視界の隅に二人の余所者がうつった。


 無言のまま焚き火を見ているカナムーンの表情は全く読めない。アシャンは何度か南からやってきた鱗の民の商人を見たことがあるが、ここにいるカナムーンと同じ顔に見えて見分けがつかなかった。おそらく鱗の色やとさかの形などで違いがあるのだろうが、個人差を知るほどには鱗の民との交流はない。


 もっとも、キシュが感じている匂いなどによって、違いを知ることができるだろう。カラデアに行けば必然的に鱗の民を見分ける必要が生じる。今のうちにカナムーンから鱗の民の特徴を学んでおこうと、アシャンはキシュから伝えられる情報を刻み込んでいった。


 シアタカも無表情に焚火を見つめていた。昼からは不穏な動きを見せていない。だが、油断はできなかった。この男は禍々しい呪力によって力を得た、恐ろしい戦士だ。何をしでかすか分からない。アシャンは、キシュに監視を続けさせていた。


 アシャンの視線に気付いたのか、シアタカが顔を上げた。無表情なまま、視線を返す。おもむろに口を開いた。


「何だ?」

「別に……」


 アシャンは一度顔を背けたが、再び向き直った。


「ねえ、聖女王って、誰?」


 その問いに、シアタカは戸惑った様子を見せた。


「なぜ知りたい」

「別に。興味があったから」


 シアタカは一瞬逡巡の表情を見せた後、言う。


「聖女王は、ウル・ヤークスの統治者であり、全ての民を導く、偉大なる存在だ」


 アシャンは首を傾げた。シアタカの言葉は大袈裟に聞こえて、現実的に感じない。


「長老みたいなものかな」

「全く違う。聖女王は混乱したこの世界に秩序を与え、民に平穏と幸福をもたらす偉大なるお方なんだ。我ら紅旗衣の騎士は、聖女王の命があれば、いつでも命を捨てることができる」


 いよいよ途方もない話になってきた。こんな突拍子もないことを断言できることが理解できない。


「それは、誰が決めたことなんだ?」


 興味深そうにウァンデが口を挟んだ。


「誰が?誰が決めたことでもない。はるか昔、西の海よりやってきた高貴なる人々の末として、聖女王は世界に安寧をもたらすことを定められている」

「大した話だ」


 ウァンデが笑う。シアタカはウァンデを睨みつけた。


「あんた達こそ、なぜあんな化け物と暮らしている」

「化け物か。外つ国の人々は皆、そう言うな」


 ウァンデは表情も変えずに小さく頷く。外つ国の人間の反応に慣れているからだ。しかし、アシャンは反感を覚える。親兄弟を馬鹿にされたようなものだったからだ。


「キシュは化け物じゃない」


 アシャンは尖った感情を鋭く言葉にした。小さな怒りの感情が言葉を混乱させ、それ以上続けることができない。


 ウァンデが妹の様子を察したのか、引き継ぐように口を開いた。


「外つ国の民には化け物に見えるだろうが、我々にとっては偉大なる父母であり、親しき兄弟なんだ。我々が聖女王の偉大さを理解できないように、お前もキシュの偉大さを理解できない」

「聖女王と化け物を同列に並べるな!」


 シアタカは声を荒げると、立ち上がった。戦士たちの間に緊張がはしる、槍を取って立ち上がる者もいた。そんな中、ウァンデは穏やかな表情でシアタカを見上げている。


「落ち着けシアタカ。聖女王を侮辱するつもりはない。だが、お前はキシュガナンの尊き者を化け物と呼んで侮辱した。それはお前の無知からくることとして許そう。座って話を続けないか?」


 シアタカは厳しい表情でウァンデを見下ろしていた。他の男達やアシャンは息を呑んで見守る。


「すまなかった。俺も侮辱するつもりはなかった」


 シアタカは大きく息を吐くと、腰を下ろす。男達も緊張を解いた。


「分かってくれればいいんだ」


 ウァンデは微笑む。


「絶対に分かってない。こいつは絶対に私達を化け物だと思ってる」


 アシャンは、キシュガナンの言葉で兄に言った。兄が許しても、アシャンには許すことができない。外つ国の人間がキシュとキシュガナンをどういう目で見ているのか、理解した気がした。


「だからどうした。外つ国の民がどう思うとしても、キシュはキシュだ。それでいいだろう?」


 ウァンデもキシュガナンの言葉で答える。


「でも、悔しくないの?私は悔しいよ」


「先人は、カラデアの人々に受け入れられるように忍耐強くやってきた。俺達もそれに学ばなければならない。ラハシなら、特にそうだ。外つ国の人々はそういうものだ。そう思っておけ」


 ウァンデの厳しい物言いに、アシャンは反感を覚えた。キシュを侮辱されて、さらにそれを我慢しろというのだ。全てをラハシだから、と強いられるのは理不尽というものだ。


 ウァンデはアシャンの膨れっ面を見て苦笑した。


「父さんも言っていただろう。キシュをただの大蟻と思わせておけ。侮らせておいたほうがうまくいく」

「賢明な言葉だ」


 カナムーンがキシュガナンの言葉で言った。


「我々はキシュに敬意を表する。それは何百年という交流の歴史があるからだ。我々鱗の民でさえ時を経ればキシュを知ることが出来た。同じ人間ならば、さらに容易いのではないかな?」


 カナムーンはアシャンに顔を向けた。


「う、うん」


 アシャンは驚きながらも頷く。カナムーンがキシュガナンの言葉も喋ることができるとは思ってもいなかったからだ。


「アシャン、すまなかった。非礼を詫びたい」


 シアタカが、ゆっくりとした動きでアシャンの前で跪いた。その見慣れない作法に戸惑うが、謝罪の気持ちは伝わってくる。この男は悪い人間ではない。初めてそんな印象を感じた。


「戦士の謝罪だ。受け取れ」


 ウァンデがうながす。アシャンはどう対応していいのか分からず、顔を背けた。立ち上がると寝床に向かう。素直に謝罪を受け取ると、敗北を宣言してしまうような気がした。


 背後でウァンデの声が聞こえるが、それを無視して毛布を頭からかぶった。


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