第9話

 少女が泣いている。

 泣き声をあげる少女は、いまだその手に剣を握っていた。

 剣を捨てない以上、それは聖女王の敵だ。紅旗衣の騎士は、聖女王の敵は討たなければならない。

 少女が泣き止んだ。憎しみに満ちた瞳で睨みつけ、剣の切先を向ける。

 おもむろに刀を振り上げた。真っ向から振り下ろす。それで全てが終る。

 少女の悲鳴が響いた。




 シアタカは少女の悲鳴で跳ね起きた。僅かな残り火の明かりが暗闇の中で己の場所を自覚させる。


 傍らの長刀を掴んだ。


「襲撃か?」


 喉の奥を鳴らすような声が問う。カナムーンだった。

 戦士たちの怒号が聞こえる。複数の人間と、巨大な何かが動き回る音が感じられた。


「そのようだ」


 シアタカは頷くと走った。まだ左腕は動かないが、戦える。


 目の前に男が転がった。苦痛に呻き声をあげている。眼前の巨大な影に吹き飛ばされたのだ。シアタカは刀を手に、走る。


 月光の下にそれは映し出された。人の身の丈を越える、二本足で駆ける獰猛な蜥蜴だ。あの戦場を思い出す。駆竜だった。


 眼前で暴れる駆竜の背には鞍が置かれている。野生のものではなく、鱗の民に飼われている証だ。だが、鱗の民の襲撃ではないようだ。その背に鱗の民の姿はない。


 荒ぶる駆竜の先にはアシャンがいた。竦んでいるのか、座り込んだまま動かない。


 シアタカは長刀を担ぎながら一気に飛び込んだ。振り下ろされた鉤爪を長刀が阻む。刀の峰が肩に食い込み、凄まじい力に倒れこむ。


「速く逃げろ!」


 恐怖に目を見開いたアシャンに、咄嗟にウル・ヤークス語で叫ぶ。意志は伝わったのだろう。我に返ったアシャンは、弾かれたように駆け出した。


 獣は獲物の横取りを許さない。駆竜はシアタカに噛み付く。シアタカは転がりながら逃れる。


 左腕が動かないために、自由な動きは難しい。シアタカは刀を握ったままの右腕を軸にして体勢を変えた。素早く中腰の姿勢になると、迫り来る駆竜の鼻面を切りつける。


 駆竜は苦痛の叫びを上げると、上体を引いた。


この隙を逃さずにシアタカは後ろに跳ぶ。同時に駆竜は身体を反転させた。長い尾が唸りをあげて振るわれる。


 しなやかな尾はシアタカの左肩を打った。シアタカは再び地に叩き伏せられる。


 駆竜は追いすがると右足に噛み付いた。鋭い牙が肉を裂き、脛の骨に食い込むのを感じた。駆竜は狂ったようにシアタカを振り回す。何と斬りつけようと隙を窺うが、この状態ではどうにもならない。


 カナムーンが甲高い鳴き声と共に飛び出してきた。両手を大きく広げて、駆竜を威嚇する。駆竜は、一瞬動きを止めると、口を開いてシアタカを放り出した。宙を舞ったシアタカは、砂塵を巻き上げながら地面を転がった。


 カナムーンとキシュガナンの戦士たちは、駆竜を包囲するように広がる。駆竜は、小さく首を動かすが、各々が構えた武器の鋭い切っ先を警戒して唸り声を上げるだけだ。


 戦士たちが踏み込もうとした瞬間、駆竜が跳躍した。


 巨体が宙に跳ねることなど想像もしていなかった戦士たちは、その動きに瞬間的に反応できなかった。僅かに遅れて動き出したときには、すでに駆竜は上空にいた。


 駆竜の巨体ががカナムーンを押しつぶす。その衝撃で激しく砂煙が舞った。駆竜は後ろ足の鉤爪でカナムーンを鷲掴みにすると、短い前足と鋭い牙の並んだ口で立て続けに攻撃を繰り出す。カナムーンは鋭い擦過音を発しながら抵抗するが、下半身を抑え込まれているためにまともな反撃になっていない。


 シアタカは右足の激痛に耐えながら、半身を起こした。大きく息を吸い込み、精神を集中する。肌に紋様が浮かび上がった。左足を立て、前のめりになる。肩に刀を担いだ。


 気合を込めた一声を発しながら、シアタカの身体が弾かれるように跳び出した。跳躍の勢いと体重をのせ、刀を振り下ろす。片手打ちながら、その一撃は駆竜の首を深く切り裂いた。


 駆竜は苦痛の悲鳴をあげて飛び退いた。


 ウァンデが雄叫びとともに突進した。大槍の切先が駆竜の胸元に突き刺さる。さらに戦士が飛び掛って頭に槍を繰り出した。次々と駆竜の身体に槍が突き立てられる。駆竜は断末魔の叫びとともに暴れるが、戦士たちは巧みにかわした。


 容赦ない攻撃の中、ついに駆竜は大きな音とともに地面に倒れ伏した。


「シアタカ、無事か」


 ウァンデが駆け寄る。駆竜に一撃を加えた後、そのまま地面に寝転んでいたシアタカは、首を二、三度振ると、上体を起こした。近くにいるカナムーンにも戦士たちが駆けつけた。


「命は拾ったみたいだ」


 そうは答えたが、右足の感覚がない。どうやら立てそうになかった。


 ウァンデは傷の様子を診ると、首を振った。


「骨が砕けている。傷もひどい。早く血止めしないとまずいな」

「筋は切れてるかな?」

「大丈夫だと思うが、断言はできないな。日が昇ってからよく診ないと」


 ウァンデは荷物から薬草や包帯を取り出すと、手当てを始めた。


「シアタカ」

「何だ?」

「妹を救ってくれたな。感謝する」


 シアタカは肩を竦めた。


「この通り、無様な姿になってるけどね。それより、カナムーンは大丈夫か?」


 シアタカはカナムーンに声をかける。


「命に別状はない。だが、左足を踏み潰されて折れてしまった」


 答えたカナムーンは、どことなく悲哀を感じさせる甲高い鳴き声を発した。


「俺とは逆の足だな」


 シアタカは笑う。


「命を助けられたな、シアタカ」

「武器をもたずに駆竜に立ち向かってくれたじゃないか。助けられたのは俺のほうだ」


 シアタカは頭を振る。もしあの時カナムーンが駆竜を威嚇してくれなければ、右足を喰いちぎられていたかもしれない。


「あの駆竜は、俺たちの戦いで生き残った奴だったんだろうな」

「そうだろう。あの戦いで騎手を失い、迷い出たものと思われる」

「折角生き残ったのに、結局ここで殺されたのか。カラデアに帰ろうとしていたのかもしれないな……」


 シアタカは小さく息を吐いた。


 こちらにやって来た何人かの戦士が、笑顔と共にシアタカの肩を軽く叩いた。シアタカが困惑の表情を浮かべると、ウァンデが笑った。


「勇敢な戦士を讃えているんだ」

「噛み付かれて振り回されていただけだよ」


 シアタカは苦笑した。無闇に飛び出して怪我を負っただけだ。騎士として讃えられるものではない。


「アシャン」


 ウァンデは、呆然とした表情のアシャンの肩に手を置いた。未だ衝撃から衝撃から立ち直っていない様子のアシャンは、ウァンデの声でようやく我に返った。


「え?」

「怪我はないか?」

「う、うん。大丈夫」


 アシャンは頷いた。ウァンデはアシャンの身体をしばらく眺めると、再び肩に手を置いた。


「危うく駆竜の餌になる所だったな。シアタカに感謝しろ」


 ウァンデの笑顔に、アシャンは眉根を寄せて応えた。


「気に食わないか?まあいい。とにかく、キシュにシアタカとカナムーンを運ばせるぞ」

「う、うん分かった」


 アシャンは慌てて頷いた。


「すまんなシアタカ。出発まで座っていてくれるか」


 ウァンデはシアタカに顔を向ける。


 シアタカは頷いた。右足から発せられた凄まじい苦痛が全身を支配している。砂の上に腰を下ろしたシアタカは、大きく息を吐くと目を閉じた。何とか苦痛をやり過ごそうと、呼吸を深くする。


 ようやく落ち着いて目を開いた時には、出発の準備はほぼ終っていた。キシュの背に載せていた荷台を分解して、即席の橇を二台作っていたのだ。それを縄でキシュに引かせようというのである。


 男達は、体重の重いカナムーンを、苦労しながら橇に乗せた。


 シアタカも橇に乗せられた。脛の半ばから先がはみだしているが、地面に触れることもない。シアタカはキシュガナンの器用さに感心した。


 一行は日も昇らないうちから出発することになった。柔らかな砂の上を、橇はゆっくりとだが滑りだす。砂の上を滑っているからだろう、乗り心地は悪くない。ただ、地表の起伏によって生じる振動が傷に響く。動く寝台というわけにはいかないようだ。


 橇の上に寝転んだシアタカは、夜空を見上げた。暗黒の天空には、無数の星々がきらめいている。こうして夜空を眺めるのは久しぶりだった。


 シアタカの横にアシャンが並んだ。アシャンはしばらく無言のまま速度をあわせて歩いていた。


 シアタカは時々アシャンに目をやった。何か話しかけた方がいいのだろうが、言葉が浮かばない。月光を浴びた顔は、不機嫌そうに見えた。


「恩を売ったつもり?」


 アシャンはおもむろに口を開いた。顔は前を向いたまま、視線はよこさない。


「いや、そんなつもりはないけど」


 シアタカは戸惑いながら答える。


「嘲笑ってるんでしょう。怖くて動けなかった臆病者だと」

「そんなことは、思ってない」


 戦場で身が竦むのは当然のことだ。それを決して臆病だとは思わない。


 アシャンは、厳しい表情を浮かべてシアタカを見た。


「嘘だ。絶対に思ってる」

「いい加減にしてくれ」


 シアタカが苛立ちから声を荒げた。


「別に恩に着せるつもりはないし、アシャンを臆病者だとも思ってない」

「絶対に思ってる!」

 

 シアタカの言葉を打ち消すように、アシャンが叫んだ。シアタカは驚き口を噤む。まさか、叫ぶとは思ってもいなかった。


「お前達、何を言い争ってるんだ。子供じゃないんだぞ」


 ウァンデはあきれ返った表情だった。


 アシャンは顔を背けると、足を速めてシアタカの傍らから離れていった。


「すまんなシアタカ」


 ウァンデが苦笑しながら横に並んだ。側を歩くもう一人の戦士は、笑い声さえあげている。


「どうしてあんなに機嫌が悪いんだ?」

「さあな」


 ウァンデは首を竦めて見せた。シアタカは小さく溜息をつく。ようするに、嫌われているのだろう。嫌われているから、あらゆる行動が悪意に受け取られてしまう。これまでの経緯を考えれば仕方のないことだ。


「あの駆竜はお前とカナムーンが戦っていた時にはぐれたそうだな」


 ウァンデの問いにシアタカは頷く。


「ああ、そうだ。俺の率いていた部隊は、カナムーンのいた部隊と激突した。そのまま包囲されて全滅するより、突破してやろうと考えたんだ。それで、包囲を突破したんだが、しつこく追いかけてくる奴らがいた。それが、カナムーンたちだよ。あの時、俺たちの部隊もカナムーンの仲間を大勢殺した。その時、騎手を失った駆竜は多かったはずだ」


 ウァンデは、その答えを聞いて沈黙した。しばらく歩いた後、おもむろにシアタカに顔を向ける。


「ウル・ヤークスの戦士は、皆、お前のように強いのか?」

「強い、か。何を持って強いと言うかによるけど……」


 なかなか難しい質問だな。シアタカは少し考えてから口を開いた。


「俺のような個人としての武勇なら、紅旗衣の騎士は皆強い。常に武技を鍛錬しているし、調律を施されているからね」

「ちょうりつ……、あの、身体に模様が浮かんでくる呪力か」

「そうだ。他に、聖女王に忠誠を誓う諸族は皆、武勇を誇っている。それに、ウル・ヤークスは聖導教団の魔術師によって戦呪を使う。これは、騎兵や歩兵とは全く異なる、ウル・ヤークスの強力な武器だ」

「せんじゅ?何だそれは?」

「魔術師の使う、戦のための魔術のことだ。何人もの魔術師が協力することによって、強大な炎や雷を操って敵の軍勢を打ち砕き、殲滅する」


 ウァンデは衝撃を受けたようだった。大きく目を見開いてシアタカを見やった。


「ウル・ヤークスは、多くの呪い師を戦に連れて行くということか」

「全ての戦ではないけどね。大きな戦には必ず参加する。今回の戦にも魔術師は同行しているよ」

「恐ろしい話だな。シアタカのような戦士がいて、炎を操る呪い師がいる。ウル・ヤークスが迫っているならば、カラデアは危ないかもしれないな」

「ああ。俺がいたのは、ヴァウラ将軍に率いられし第三軍ギェナ・ヴァン・ワ。常に異教徒と戦ってきた常勝軍だ。きっと、この戦も勝つだろう」


 シアタカは自信を持って答えた。紅旗衣の騎士として戦ってきた誇りが、そう答えさせる。


「大した自信だな」


 半ば呆れたような表情のウァンデ。


「当たり前だ。俺も紅旗衣の騎士として数多くの敵を滅ぼしてきたんだ」

「そしてカラデアも滅ぼされるのか」

「カラデアは滅ぼされない」


 シアタカは慌てて否定した。


「鱗の民から解放するだけだ。そうすることでカラデアは秩序と自由を手に入れるんだ」


 ウァンデは静かに頭を振った。


「ウル・ヤークスに支配されたカラデアは、もうカラデアではなくなるだろうな」

「どういう意味だ?」

「カラデアに行けば分かる」


 ウァンデはそう言ってからシアタカを見やった。微かに口元に笑みを浮かべたように見えた。


「いや、分からないかもな」

「だから、どういう意味なんだ?」


 シアタカは苛立ちを覚えた。遠回しな言い方は好まない。


「ウル・ヤークスはまずはデソエを攻めているんだな」


 ウァンデはシアタカの問いに答えずに逆にシアタカに問う。シアタカは苛立ちを覚えたまま答えた。


「そうだ。デソエを押さえないと、ウル・ヤークス軍は干上がってしまうからな」

「カラデアはその後というわけか」

「俺を、カラデアに引き渡すのか?」


 シアタカは聞いた。もしカラデアに身柄を引き渡されれば、ただではすまないだろう。人質として利用されるかもしれない。ただしヴァウラ将軍は、シアタカに決して人質としての価値を認めないだろう。紅旗衣の騎士が虜囚となれば、それは即ち死を意味するからだ。


「さて、どうするか。お前はカラデアに高く売れるだろうな」


 ウァンデは顎に手を当てると、にやりと笑った。


「冗談だ、冗談」


 ウァンデはシアタカの強張った表情を見て笑い声を上げる。


「冗談は嫌いだ」


 シアタカは眉をひそめた。からかわれるのは好きではない。


「シアタカはキセの一族の客だ。たとえカラデアの敵であろうと、引き渡すことはない。安心しろ」

「だが、カラデアがそれを許すかな」

「許そうと許すまいと、知ったことじゃないな。キセの一族は指図を受けない」


 ウァンデは肩をすくめる。側にいた戦士も笑い声をあげると、頷いて同意を示した。


 シアタカは男達の様子から、揺ぎ無い自信と誇りを感じ取った。こういう男達をよく知っている。赤き砂漠に暮らす遊牧の民カッラハ族だ。彼らは一族と聖女王のみを信じ、戦士としての誇りをもつ。彼らは、ウルス人など『壁の中に囚われた民』であり、軟弱な哀れな人々だと思っていた。


「今度の交易は無駄足になるかもしれんな」


 戦士がウァンデに言った。訛りのきついルェキア語には、非難めいた響きを帯びている。シアタカはきまりの悪さを覚えて何も言えなかった。


「まあ、そう言うな」


 ウァンデはシアタカを一瞥する。


「今度はウル・ヤークスと取引しようじゃないか。なあ?」

「え、ああ」


 シアタカは曖昧に頷いた。一介の騎士にすぎない自分が、外交や交易についての判断はくだせない。


「シアタカには、ウル・ヤークスのお偉いさんを紹介してもらわないとな」

 傍らを歩く戦士が笑って言った。




 シアタカは、ウァンデや他の戦士たちと言葉を交わしていた。アシャンは背中でそれを聞きながら、苦々しい思いを禁じえなかった。あの男は、その戦いぶりを見せることで戦士たちの敬意を勝ち取ったらしい。悔しいのは、それが自分の命を救ったということだ。


 傍らを歩くキシュが音を発した。落ち着くように呼びかけている。キシュは感情の激発を嫌うため、ラハシには常に冷静さが求められている。アシャンはそういう意味ではラハシとして不適格だった。自分に平常心が欠けていることは自覚している。


 キシュがアシャンの手の甲に触覚を当てると、独特の匂いを発した。群れの恐慌を抑える効果のある匂いだ。人間でいえばなだめる程度の抑制された量である。戦いの時ともなれば、叫び声や怒鳴り声ともいえる大量の匂いが分泌される。人間に劇的な効果はないが、涼やかな匂いは心をいくらか静めてくれる。


 アシャンは大きく呼吸をすると、キシュの背中を軽く叩いた。キシュ相手にはあまり意味のない行動だが、アシャンの気分の問題だ。キシュもそれはよく理解している。


 キシュはアシャンに精神の再構成と安定を要求していた。現在キシュにとって、アシャンと意識を結びにくい状態にあるということだ。それだけ、キシュと人間は異質な存在だった。


 当分、この精神状態を改善できそうにない。アシャンは苛立ちながら思った。独り言のような思考だったが、キシュはそれを返答して受け取り、批判的な思考を送ってくる。これも精神が安定していない証拠だ。本来ならば、こんな思考はアシャンの頭の中だけで処理され、キシュにまで伝わることはない。思考が漏れ出している状態といっていいだろう。


 アシャンは、橇に横たわるカナムーンに顔を向けた。足の骨折意外にもひどい傷を負っているにも関わらず、カナムーンは無表情なまま沈黙していた。やがて、カナムーンは鳥に似た丸い目をこちらに向けた。アシャンの視線に気付いたらしい。


「カナムーン、カラデアに着いたらどうするの?」


 アシャンはキシュガナンの言葉で聞く。カナムーンは目をくるくると動かすと、口を開いた。キシュガナンの言葉が発せられる。


「まず、守備隊長に会わなければならない。ウル・ヤークス軍の進軍を知らせなければならないからだ。それからは、分からない。援軍を呼ぶために故郷に戻るか、それともカラデアで守備隊に加わるか」

「故郷に戻るって言っても、遠いでしょう」


 鱗の民の故郷は、はるか南の密林の中だと聞いたことがある。


「確かに遠い。おそらく二十日はかかる。援軍を呼ぶにしても、戦況は悪化しているかもしれない」


 カナムーンは語尾に奇妙な擦過音を付け加えた。


「何のためにカラデアに行くのか分からなくなってきた」


 アシャンは嘆息する。父の跡を継いだ初めてのラハシとしての仕事が、まさかカラデア最後の日になるかもしれないとは思ってもみなかった。


「まだ時間はあるだろう。デソエもそう簡単には陥落しないはずだ。君達が商談をまとめるだけの時間は十分あると考える」


 あまりに当事者とは思えない言葉に、アシャンは驚いた。


「まるでどうでもいいみたいね」

「どうでもよくはないが、様々な要素を検討すれば困難な戦いになるだろう。カラデアが陥落する可能性も高い。もしそうなった時、ウル・ヤークスが支配したカラデアを奪還するのかしないのか、それも含めて我々は結論を出すために話し合わなければならない」

「カラデアを見捨てるの?」

「我々はあくまでカラデアと契約を結んでいるだけだ。確かに商業活動の重要な拠点を失うのは痛手だが、別の交易路の開発も検討している。ウル・ヤークスと全面的に争ってカラデアを守る価値があるのかどうか。それが問題だ。長老達は、それを検討することになるだろう」


 アシャンには、それがひどく冷たい答えに聞こえた。


「でも、ウル・ヤークスは、鱗の民の所まで攻めてくるかもしれないよ?」

「そうなれば、戦うしかない。我々は、我々の領域を侵す者達を受け入れられない」


 カナムーンの答えに頷いたアシャンは、あることに気付いて愕然となった。ウル・ヤークスは、キシュガナンの地を侵略することも有り得ることを。


「カナムーン。ウル・ヤークスは、カラデアで、満足するかな」


 アシャンは、今感じた疑問を舌をもつれさせながら聞いた。


「満足しないだろう。生命というものは、本質的に己の領域を広げようとする欲求をもっている。人間は特にその欲求が顕著だ。その人間が、国家という仕組みを作り上げてしまえば、その仕組みは己で勝手に成長していき、領域を広げようとする。まるで、一匹の巨大な生き物のようなものだ。少なくとも、私は人間の歴史を研究してそう感じた」


 アシャンには、カナムーンの言っていることの半分以上は理解できなかった。カナムーンの独特の発音が聞き取れなかったというわけではない。一族の長老や賢者達が議論に使うような難しい単語が多く、その意味を知らなかったからだ。しかし、言っている本質はなんとなく理解できた。つまり、ウル・ヤークスは飢えた魔物のようなものだということだろう。


「だったら、キシュガナンも狙われる?」

「戦をおこしてでも手に入れる価値があるならば」


 カナムーンは答えた。アシャンは考え込む。確かに、キシュガナンの地には、他にはない産物がある。それをウル・ヤークスが欲しても不思議ではない。


「ウル・ヤークスが攻めてくる。その時、キシュガナンの民は、どうするかね?」


 アシャンは、カナムーンの問いに困惑して顔を逸らした。


「キセの一族は、戦う。戦うよ」

「キセの一族だけでは、ウル・ヤークスにはかなうまい」


 カナムーンの簡潔な指摘に、アシャンは言葉を失った。キシュガナンの地は、争いの嵐が吹き荒れてている。一族同士がつまらない理由で争い、財産やキシュを奪い合っていた。交易に関する権利だけでも、キセの一族は何度争いに巻き込まれたか知れない。やがて巡り来るキシュの繁殖期ともなれば、キシュガナンの地はあらゆる一族が争う血腥い土地となるだろう。以前の繁殖期にアシャンは生まれていなかったが、話は父や他のラハシから聞かされている。その時を思うと、暗澹たる気持ちになるのだ。


 こんなキシュガナンの状態では、ウル・ヤークスに立ち向かうことはできないだろう。


「私が以前訪れたキシュガナンの地は、一族同士が常に争っていたように記憶している。もしウル・ヤークスが進軍してきたならば、おそらく各個に潰されていくだろう。キシュガナンは、我々以上に苦境に立たされることになる」


 カナムーンの言葉に頷くしかない。


「そうだね。私の考えすぎならいいけど」

「そう願うしかない」


 カナムーンは奇妙な擦過音で締め括った。


 気付けば岩山はすでに目の前に近付いていた。その巨大な影は高くのしかかり、大地を月光から覆い隠していた。


「そろそろ砦が見える頃だな」


 ウァンデが言った。アシャンは振り返る。


「砦?」

「そうだ。この岩山は、幾つかの谷を通って抜けないと、先にあるカラデアに辿り着けない。その谷の入り口に砦を設けているんだ。カラデアの西の守りだ」

「こんな夜中に、大丈夫?」

「何度も夜中に通ってるさ。誰かが必ず起きてる。もし眠りこんでるなら、叩き起こすだけだ。キセの一族のおこしだぞ!てな」


 戦士の一人がそう言うと笑った。他の男達も笑う。しかし、アシャンには笑えない冗談だ。戦士たちのこういった自己顕示には、時にうんざりさせられることがある。


 砦は、岩肌に刻みつけられた彫刻のようだった。硬い岩壁をくり貫いて砦として利用しているらしい。窓にあたる穴から、灯りがもれていた。確かに誰かが起きているらしい。アシャンはキセの坑を思い出した。


 砦は谷間を睥睨するようにそびえているが、谷の入り口を塞いでいるわけではなかった。アシャンは、父から聞いていた城門というものを想像していたのだが、さすがに大きな谷の入り口を扉で塞ぐわけにはいかなかったらしい。


 砦に見えた灯りが幾つも動き、慌しい様子を見せた。複数の人間の声がこちらに届いてくる。やがて、砦の上から大声で言葉が発せられた。何度か理解できない言葉が続いた後に、ようやくルェキア語が聞こえる。


「そこで止まれ、そこで止まれ、そこで止まれ」

「分かった」


 ウァンデがルェキア語で叫び返す。


「お前達は、誰だ?」

「キセの一族だ。覚えていないか?」


 ウァンデの答えに、砦では何事かを話し合っているようだった。やがて、四人の兵士が松明を手に地上に姿を現した。どうやら階段を下りてきたようだが、アシャンにはどこから下りて来たのか分からなかった。


 兵士達は、三人の人間と一人の鱗の民だった。すらりとした長身、艶やかな黒い肌に色鮮やかな独特の髪飾りを多くつけた縮れた髪は、カラデア人の特徴だ。


「覚えているぞ、蟻使いの一族だな。もうそんな時期か」


 カラデア人の兵士が白い歯を見せた。


「ああ。だが、今回は少し事情が違う。道中、客を拾ったんだ」

「客?」


 ウァンデの言葉に兵士は怪訝な表情を浮かべる。ウァンデは頷くと振り返った。


「カナムーン」


 ウァンデに呼ばれると、橇に引かれたカナムーンが明かりの中に姿を現した。兵士達は驚きの声をあげる。


 兵士の一人である鱗の民が進み出ると、鳴き声としか表現しようのない声を発した。同時に複雑に尾や手が動く。カナムーンも同じような声を発した。


 二人の遣り取りはしばらく続いた。兵士達は慣れているのか無言でそれを見守っている。一族の男達も同様だ。だが、アシャンにとっては、二人の鱗の民による人間とはあまりに違う会話に、目と耳を奪われていた。


 二人の会話が終わり、カナムーンは上体を起こした。


「カラデアへの報告は私が行うことになった。もうしばらく私をこの旅に加えて欲しい」


 カナムーンはアシャンに言う。


「構わないよ。せっかくここまで一緒に来たんだもの」


 アシャンは微笑んだ。

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