第6話
白い砂を蹴立てる乾いた音が連なり、砂煙が舞い上がった。地平の彼方に沈みゆく夕日の色に染まって、それは落日色の霧のように兵たちの背後を漂った。白い大地も、紅と影に覆われていた。
ここまで休みなく全速で駆け続けていた恐鳥や駱駝の息は荒い。生き残った二人の狗人は、騎兵たちよりもかなり遅れてついて来ている。
「全体、だく足!」
ラッダが叫んだ。命令に応じて、部隊の速度が徐々に落ちていく。
「よし、休息だ!」
しばらくだく足で進軍した後、ラッダは部隊に休息を命じた。
「鳥と駱駝に水を飲ませろ。こいつらの気が済むまでだ。ここから先は休みなく進み、一気に本軍へ合流するぞ」
ラッダの命に、兵達は一息ついた様子で鞍上から滑り落ちるようにして大地にへたり込む。肉体的疲労もあるが、何より部隊の受けた被害が精神的な疲労をもたらしているのだろう。
ウィトは、のろのろと恐鳥からおりると、兵から、駱駝に括り付けられていた革の水筒を受け取った。待ちわびた様子の恐鳥がしわがれた鳴き声をあげてウィトを呼んでいる。
水筒を手に恐鳥の元に戻ると、まるで斧のような分厚く鋭い嘴を叩く。それに応じて大きく開いた嘴の中へ水を流し込んだ。恐鳥は喉を鳴らしながら水を飲む。
「
ウィトは呟くよう恐鳥の名を呼ぶと、首を撫でた。自分が、あの戦場を生き残ることができたのは、この愛鳥のお陰だった。いや、もう一人、恩人がいる。ウィトは頭をめぐらせると、その姿を探す。
「ラゴ!」
ウィトは、疲れ果てた様子で地に寝転がっている狗人に駆け寄った。ラゴは顔だけをウィトに向けると、ゆっくりと尾を振る。ウィトは傍らに腰を下ろすと大きくため息をついた。地平を切り裂くように覆う夕日が眩しくて、目を細める。
「ラゴ、お前のおかげで助かったよ。ありがとう」
鱗の民の歩兵の間を突破するとき、ラゴがいなければ命を落としていただろう。彼の牙と武器は何度となくウィトを守ってくれた。ラゴは、大きな目でウィトを見詰めると、小さな鳴き声を発した。意味は理解できなかったが、悲哀を帯びた声だった。
自分だけが逃げてきてしまった。ラゴの声がウィトに悔悟の思いを呼び起こさせる。このまま一人、逃げ帰っていいのか。己を責める。俯いたウィトは、決意と逡巡の間を何度も行き来した後、結論を出した。
「ラッダ殿」
ウィトは、腰を下ろして水を口に含んでいるラッダに歩み寄った。
「どうした」
ラッダは、ウィトを見上げた。その表情は、暗い色を帯びている。自信に満ちたカッラハ戦士としてのラッダしか知らないウィトにとって、初めて見る顔だった。
「ラッダ殿、私は戻ります」
ウィトのその言葉に、ラッダは鋭い視線を向けた。
「戻る?来た道を戻るのか?」
「はい。従者として、騎士シアタカにお仕えするために」
ラッダは、大きく息を吐き出すと、立ち上がった。
「言いたくはないが、すでに騎士シアタカの魂は、使徒ウィズラフに導かれている頃だろう……」
ウィトは小さく頭を振った。
「騎士シアタカは生きています。あの方は無敵なんです。もし亡くなっていたとしても……、私は従者として、騎士シアタカの亡骸に祈りを捧げなければなりません」
最悪の結果が待ち構えている可能性は高い。そんなことはウィトもよく分かっている。しかし、それでもシアタカの存命を信じたい。その思いが強かった。
ラッダは厳しい表情でウィトを見据える。
「お前は騎士シアタカの命を破る気か?」
「騎士シアタカの命は、離脱するように伝令することでした。もう、その命は果たしています。騎士シアタカの従者として、主の側に仕え、もしその死を見取ったならば、主の魂を旗の館まで案内しなければなりません。それまで、私は騎士シアタカの従者です」
ウィトは、己の思いを言葉にしていくうちに、まだゆらいでいた決意が確固としたものになっていくのを感じていた。
ラッダが眉根を寄せる。ウィトに向ける目が、いっそう鋭くなった。
「ウィト、騎士シアタカがお前に伝令を命じた真意が分からんのか……」
ラッダの言葉はウィトの心に突き刺さった。
「それは……、分かっています。騎士シアタカの恩情によって、私は生き残りました」
「分かっているならば、尚更のことだ。お前のやろうとしていることは、騎士シアタカの想いを無にすることだ。戻れば、生きては帰れないのだぞ」
ラッダの声に怒りが滲んでいた。
「生きて帰ります。私は運が良いのです」
ウィトは決然とした口調で言った。ラッダは険しい表情のまま小さく息を吐く。
「実に頼もしいことだ」
「はい、私は騎士シアタカの従者ですから」
ウィトは強張った頬に鞭打って、笑顔を浮かべた。
「ラッダ殿」
おずおずと、カッラハ兵が声をかける。
「どうした?」
「ウィト殿に我らの水と食料を分けてやりたいのですが……」
「何を言い出すのかと思えば、ウィトを焚きつける気か」
ラッダはカッラハ兵を睨めつける。カッラハ兵は一瞬怯んだ様子だったが、言葉を続けた。
「騎士シアタカは自ら先頭に立って我らの盾になったのです。その恩を忘れ、従者の忠誠を見過ごすのは、カッラハ族の名折れではないでしょうか」
ラッダの前に、次々と兵達が集まってくる。彼らは、大きく頷いてウィトとラッダを見ている。
「お前たち……」
ラッダは顔を歪めると、俯いた。
ウィトは、兵たちを見て、ラッダを見た。身体が震えている。恐怖や怒りからではない。決して不快ではない感情が、身体を震わせている。
「ウィト殿、同胞たちにも祈りを捧げてきてくれるか」
カッラハ兵の一人が、そう言うと自らの箙を差し出した。そこには、残りわずかになった矢が残されている。ウィトは、恭しくそれを受け取ると、兵たちを見回す。
「勿論です。私は勇敢なる戦士たちに祈りを捧げてきます。そして、その魂と使徒を見送ります」
ウィトがそう答えると、兵達は笑顔で頷いた。そしてウィトが受け取った箙に次々と己の矢を差し入れていった。
「やれやれ、もう止める事はできんな」
ラッダは嘆息すると、ウィトの肩に手を置く。ウィトはラッダを見上げると言った。
「お心遣いを蔑ろにして申し訳ありません」
「いや、わしはお前を侮っていた。紅旗衣の従者として、立派に務めを果たしてほしい。そして、生きて帰れよ」
「はい!」
ウィトは大きく頷いた。決して、死にに行く訳ではない。生きて、任を果たす。それを己に言い聞かせた。
ウィトの元には、砂漠に生きるカッラハ族にとっては十分な食料と水が集まった。それを恐鳥の背に積むと、再び重くなった荷に不満の鳴き声をあげた。出発の準備を終えて振り返ると、そこにはラゴが立っていた。その気配に全く気付かなかったウィトは、思わず仰け反る。
「びっくりした、ラゴか、どうしたんだ」
ウィトの問いに答えて、ラゴは大袈裟なほどに手を動かした。
「付いて来る、のか?」
ウィトは驚いて聞き返す。ラゴは大きく何度も頷いた。
「そんな、危ないよ」
ラゴは小さな唸りをもらすと、頭を振る。
「そうか、本当に、良いのかい?」
ラゴは再び大きく頷いた。
「そうか、ありがとう……」
目尻に、滲むものがある。ウィトの言葉は小さく消えていった。
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