第4話


  二人の来た道には幾つもの骸が転がっている。カッラハ族と、鱗の民と。屍山血河を背にして、二人は睨み合っていた。追う側と追われる側、生き残ったのはただ二人のみだ。


 シアタカは雄叫びとも絶叫ともつかぬ叫びと共に走った。砂埃を巻き上げながら、迫る。重い鎖甲を着込んでいるとは思えない速さだ。


 一筋の白光にしか見えぬ白刃は、幅広の長剣にしっかりと受け止められた。まるで鉈のような重厚な剣だ。紅旗衣の騎士のために鍛えられ呪化された長刀は、怨嗟の音を発した。


 鱗の民は小さく鋭い呼吸音を発した。細い舌を一瞬のぞかせる。


 剣はシアタカの長刀をはねのけた。


 シアタカは飛び退く。同時に、返す刀で薙いだ剣が、空間を切り裂いた。


 鼻先をかすめる刃を気にもとめず、シアタカは身を転じた。身体の陰から飛び出すように、剣尖は鱗の民へと向かう。


 刺突は、鱗の民の肩をとらえた。だが、鎧の肩甲の表面を削り取ったのみだ。


 鱗の民はそのまま肩からぶつかってくると、シアタカを弾き飛ばした。後ろに倒れこんだシアタカは、後転するとすぐさま跳ね起きて追撃を牽制する。鋭い視線で敵を睨み付けた。


 蜥蜴のような顔はあくまで無表情だ。身の丈はシアタカを頭一つ分上回っている。首が長く、前屈みな姿勢である。つまり、背を伸ばせばさらに上背があることになる。全身は鮮やかな緑色のごつごつとした皮におおわれており、腕や足には小さな鱗があった。しなやかだが筋肉質な身体は、調律したシアタカの動きに付いて来ている。頭から背へと流れるような線を描き、さらに長い尾へと続いていた。尾はまるで鞭のようにしなやかな動きを見せている。巨躯ながらも俊敏な理由の一つに、この尾があるのだろう。これまでの戦いから、シアタカはそう分析していた。


 シアタカは軽く鼻を押さえた。掌を見ると、血が付いている。鼻血がでていた。限界が近付いていることを感じる。


 調律によって引き出された力も、発揮し続けるには限界がある。調律は、自らの身体を壊さないように無意識に抑えられている潜在能力を引き出し、それに魔力による力を上乗せする魔術だ。身体を休ませなければ脳や神経が焼き切れ、筋や骨も崩壊してしまう。この二日、一睡もしておらず、水や食料もろくにとらずに追っ手と戦い続けていた。日に何度も調律によって力を引き出している。肉体の限界が訪れる時間も早くなっていた。


 突如、凄まじい烈風が吹いた。沙海では、立っていることも困難な風が度々吹き荒れる。ましてや、ここは地上よりも高所にある台地の上だ。遮るものもない吹きさらしでは、烈風はまさしく脅威だった。


 白色の風は、シアタカの皮膚を削り、地に打ち倒そうとする。シアタカは歯を食いしばると、左手で顔をかばい、中腰の姿勢となって鱗の民を見失うまいと身構えた。この烈風の中で動きがとれないのは鱗の民も同様だった。


 シアタカは、この烈風がしばらくすれば止まることを知っていた。そこが砂嵐とは異なる点だ。命が脈動するような烈風の力を感じながら、その力が去る機会をうかがう。


 やがて、僅かな風の残滓が渦巻くだけとなり、烈風は去った。その瞬間、シアタカと鱗の民は体内の力を爆発させた。


 咆哮とともに、烈風よりも凄まじい斬撃が応酬された。金属のぶつかりあい、軋む音が二人の死の舞踏を導く。


 シアタカが横払いの一撃を繰り出しながら脇に回りこんだ瞬間、鱗の民の尾が唸りを上げた。咄嗟に頭を傾けるが、避け切れない。一撃を受けて、シアタカの身体は吹き飛んだ。


 岩上を転がる。すぐ背後は沙海を眼下にのぞむ断崖だ。シアタカは身を起こした。その両目からは血の涙が流れ出している。限界だった。頭の中のあちこちが焼き切れてしまったような感覚がある。


 鱗の民は速かった。膝をついているシアタカ目掛けて、長剣を真向から振り下ろしてきた。

 

 シアタカは叫び声とともに刀を振り上げた。金属が金属を貪る凄まじい音が響く。


 一瞬の圧力の後、その力が消えた。甲高い音と共に、長剣の刀身が宙を舞っていた。


 調律によって強化された感覚は、一瞬をまるで永遠のようにとらえる。剣を斬り折られた鱗の民は、大きく体勢を崩している。シアタカは跳ねるように立ち上がりながら、振り上げた刃を返す。がら空きに長い首が目の前にあった。


 刀が振り下ろされる。同時に、鱗の民は突進した。斬撃は振り下ろされる前にその巨体に阻まれる。鉤爪の生えた手はシアタカの肩を掴み、巨大な牙だらけの口はシアタカの顔に噛みついた。鱗の民は全体重をかけてシアタカを押し倒そうとする。シアタカは唸り声をあげて踏み止まった。


 足下がぐらつく感触が伝わってくる。シアタカが気付いた時には遅かった。脆い地盤は二人の体重と怪力に耐えられなかった。次の瞬間、岩盤は断崖から滑落した。支えを失った両者の身体は宙に放り出される。


 断崖から迫り出した巨岩がゆっくりと迫ってくる。三度ほど岩肌に叩きつけられたことは覚えていたが、そこでシアタカの意識は途切れた。





 少女が泣いていた。


 街には焦げた臭いがたちこめ、嗅覚を麻痺させている。世界も、どこか暗く煤けていた。静寂が周りを取り囲んでいる。静寂の中、少女の泣き声だけがまるで異物のように空気を震わせていた。


 少女は涙を流しながら、憎しみに満ちた目で睨みつけた。その手には剣が握られている。子供には大きすぎる剣だ。


 血塗られた刀を持った自分。すでにこの街で数多くの人間を斬った。紅旗衣の騎士は反逆者に容赦はしない。紅旗衣は即ち、敵の返り血で染まった紅だ。


 あの時、自分はどうしただろうか。あの少女に刃を振り下ろしたのか?


 どうしても思い出せなかった。





 太陽がシアタカの覚醒をうながした。暴力的な日差しはシアタカの肌を痛めつけ、否応なしに肉体の存在を自覚させる。次いで、全身を鈍い痛みが襲った。まるで筋肉が固まってしまったように、僅かに動かすだけで痛みが身体を縛り付ける。


 シアタカは、黒い人影が自らを覗き込んでいることに気付いた。日差しを背にしているため、顔は見えない。シアタカは眩しさに目を細めた。


 人影は後ろに身体を引いた。シアタカはその動きを目で追う。全身を白い布で覆っており、それは顔も同様だ。布の間から褐色の瞳がのぞいていた。


 砂漠の遊牧の民だろうか。シアタカはこの辺りに暮らす部族について、何の知識もなかった。ウル・ヤークス王国から遠く離れたこの地では、聖女王の威光はまだ及んでいないだろう。王国に友好的な人々である可能性は低い。


 聞き慣れない言葉がシアタカの思考を中断させた。発せられた声は女のものだ。それも、若い。


 女はシアタカの知らない言葉で話しかけてくる。シアタカは眉根を寄せると、小さく頭を振った。それだけで、激痛が全身を苛む。


「何を言っているのか分からない」


 女は再び何かを言った。


「何を言っているのか分からないんだ。ルェキア語は喋れないか?」


 シアタカは、沙海の周辺で活発に交易を行っているルェキア族の言葉で言った。あるいはこの辺りでも通じるかもしれないと考えたのだ。


「その言葉なら分かる」


 女は頷く。


「お前は、何者だ?」

      

 シアタカは返答を躊躇った。ここで自分の身分を明かして有利になるか、不利になるのか判断できなかった。僅かな逡巡の後、シアタカは口を開いた。


「俺は、ウル・ヤークス王国の騎士。紅旗衣の騎士だ。名を、シアタカという」


 女は無言でシアタカを見つめた。何か思案している様子だった。


「俺は名乗った。お前も名乗るのが礼儀じゃないか?」


 シアタカは強い口調で言った。


「私はアシャン。キセの塚の一族のラハシ」

「ラハシ?」


 聞かない言葉だ。何の身分をあらわすのかシアタカには分からなかった。


「あの崖の上で、なぜ鱗の民と戦っていた?」


 シアタカの問いを無視して、アシャンは聞いた。


「鱗の民……、鱗の民はどこだ!」


 急激に記憶が甦る。まだ戦いの決着はついていない。シアタカは跳ね起きようとするが、激痛がそれを阻んだ。


「左腕の骨が折れてる。無理をするな」


 アシャンは手で制した。シアタカはそれを無視して上体を起こす。全身を打っており、確かに左腕の骨が折れていた。だがそれ以上に、この数日に酷使された肉体が悲鳴をあげているのだ。


 鱗の民の姿を探したシアタカの目に、異様なものが飛び込んできた。思わず、息を呑む。 

アシャンと同様の装いをした者達が八人、こちらを見ている。大量の荷も地面に置かれていた。隊商の一行なのか。だが、連れている家畜は馬や駱駝ではなかった。


 人々の間を歩くそれは、まるで巨大な蟻だった。人の腰の高さまで体高があり、全長も人の背丈ほどあった。全身を黒光りする甲殻に覆われている。だが、細部を見ていくと、蟻とは異なっていることがわかる。甲殻のあちこちは鋭角的な線を描いている。その大顎は大きく美しい曲線を描いたものだ。胸部の側面は蛇腹状になっており、収縮を繰り返している。大柄でさらに凶悪な顎を備えた大蟻の姿も見えた。


「何だ、あれは」

「あれ?」


 アシャンは振り返った。


「キシュ」


 アシャンは短く言う。それが大蟻の呼び名だろうか。背に荷物を積んでいる大蟻もいることから、隊商の足として利用しているようだった。


「あんな化け物をよく飼い慣らしているな」

「飼い慣らしている?キシュを?」


 布の間から覗く目が、嘲笑するように細められた。


「キシュは山羊や駱駝とは違う」

「だったら何だというんだ?」

「お前に説明しても理解できない」


 その答えに一瞬苛立つが、シアタカは質問を変えた。


「お前達は、これからどこへ行くんだ?」

「カラデアに向かう」

「カラデアに?ここから遠いのか?」


 アシャンは頭を振る。


「あと二、三日といったところだ」


 アシャンの言葉に、シアタカは耳を疑った。カラデア軍と遭遇した場所からかなり移動したことは分かっていたが、まさかこんな南まで来ているとは思っていなかった。


 シアタカは全身の悲鳴を無視して立ち上がる。こんなところで寝転んでいる暇はない。一刻も早く軍に合流しなければならなかった。


「おい、勝手に動くな」


 アシャンが慌てたように短刀を抜いた。シアタカは咄嗟にその手を取る。


 アシャンは叫び声をあげると、振り払おうと強く手を引いた。シアタカはその動きにあわせて前に踏み込む。アシャンの手を捻りあげると共に背後に回った。同時に足を払う。胸からまともに地面に倒れこんだアシャンは、悲鳴をあげた。シアタカは、倒れたアシャンの背中を膝で押さえつけると共に、取り落とした短刀を拾う。


 アシャンが苦しげに喘いだ。シアタカの分からない言葉で何かを叫ぶ。シアタカはそれを無視した。


「仲間に伝えろ。近寄ると、お前の命はないと」


 シアタカは、他の者達から目を離さずに言った。アシャンが唸り声で応じる。シアタカの拘束から逃れようとしているが、しっかりと固められており身じろぎすらも難しい。


「ウル・ヤークスの男、無益なことだ。刀を捨てろ」


 一人が進み出ると、ルェキア語で言った。太く低い男の声だ。落ち着き払い、威圧感さえある。気圧されるものを感じながらも、シアタカは平静を装った。


「俺の刀を返せ」


 シアタカは男を睨みつける。聖女王より授かった刀を、こんな蛮族どもに渡すわけにはいかなかった。紅旗衣の騎士は、己の身の証を常に身につけていなければならない。


「この沙海の辺で、身一つでどうするつもりだ?刀など、何の役に立つ」


 男は困惑したように聞いた。


「その刀は、偉大なる聖女王陛下より賜ったものだ。それこそが、紅旗衣の騎士の証だ」

「分からないことを言う男だ」

「俺の刀を、返すんだ」


 シアタカは繰り返した。


「仕方ない」


 男は槍の石突きで砂を叩くと、左手を懐に入れた。左手で地面に何かを撒く。強大な蟻が動き始めた。四匹がシアタカを取り囲むように広がる。


 アシャンが何度も舌打ちした。背後で微かな砂を踏む音がする。シアタカが振り返ると同時に、黒い影が突進した。


 シアタカは息を詰まらせ、顔面から倒れこんだ。右腕が強烈な力によって挟み込まれ、反射的に短刀を離してしまう。手甲をつけていなければ右腕を切断されるか折られていたかもしれない。


 キチキチキチキチ。


 硬質な音がシアタカを包囲していた。口の中に入った砂を吐き出しながら顔を上げた。暗い天井の隙間から、日が差し込んでいる。五つの蟻の頭が、シアタカを取り囲んでいた。

   

 一匹の蟻が大きく顎を開く。まるで威嚇しているように見えた。蟻の天井が開いた。陽光が押し寄せる。男が覗き込んでいた。


「離せ!」


 アシャンは叫ぶと、シアタカの身体を押し退けた。

 

 シアタカの顔に紋様が浮かび上がる。


「ぐぅあああ!」


 シアタカは絶叫した。右腕にかみついた大蟻ごと立ち上がる。包囲していた他の大蟻も押し退けた。


 男とアシャンは驚きの声をあげて後退る。


 シアタカは右腕の大蟻を引き摺りながら男に迫った。


 横合いから、鱗の民が飛び出した。大きく口を開き、長い両腕を広げてシアタカに飛びかかる。


 シアタカは鱗の民に組み伏せられた。シアタカと鱗の民、そして右腕に喰らいつく大蟻は、ともに地面に転がる。鱗の民は長い尾でシアタカの頭を一撃すると、動きの鈍ったところへ噛み付いた。


 同時に、大蟻たちは素早くシアタカに群がった。足に、腕に、大顎で喰らいつく。首筋に噛み付かれたところで、シアタカは身体の自由を失った。調律を発動するには、あまりにも身体が弱っていたのだ。シアタカはしばらくもがいていたが、やがて抵抗をやめた。

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