第3話


 アシャンは、父がキシュの糧として捧げられた日を思い出していた。厳しくも優しかった父は名誉と功績を讃えられ、キシュの糧となることを許された。


 骸布に包まれた父の亡骸は、坑の底にゆっくりと下ろされた。亡骸に、キシュが集まる。


父の亡骸は、あっという間に消え去った。キシュは骨すら残さなかった。これで父は、キシュと一つになることができた。生前から父が望んできたことだ。


 キシュと一体になることは、名誉ある者だけに許される。ラハシとしてキセの塚の一族に貢献してきた父は、その名誉を得ることを許された。娘であるアシャンにも、ラハシとしてその跡を継ぐことを要求された。


 そして今、アシャンはラハシとして隊商を率いている。


 風が頬をなでる。故郷ならば心地よい風も、この地では痛みすら感じる熱を帯びている。砂漠の民から学んだ、全身を覆う装束を身に着けているが、酷暑は防ぎきれていない。アシャンは顔をしかめて布で顔を覆いなおした。溜息とともに空を見上げる。


 列柱の立ち並ぶ宮殿のように、人の背丈をはるかに越える、無数の奇岩が乱立していた。奇岩は、白い砂漠とは対照的に黒い。歪な岩の間を通り抜ける風は、亡霊の嘆きのような音を発している。


 故郷の山々と比べて、沙海の辺の暑さは酷だった。アシャンは腰の水袋に手を伸ばしてから、思い直した。経験の深い男達に、きつく戒められていたからだ。山で暮らしていると分からなかったが、この沙海では水は宝石ほどの価値を持つ。


 アシャンは、ラハシとして隊商頭の地位にあるが、まだまだ未熟だ。経験のある戦士や男達に助けられている。男達は、アシャンの父の業績や、アシャン自身のラハシとしての才能を認め、隊商頭としてのアシャンを支えてくれていた。


 父ならどうするのだろう。父なら判断するのだろう。事あるごとに父親に思いが及ぶ。そんなことでは駄目だと分かってはいたが、どうしても止めることができなかった。


 キシュが、アシャンの手の甲に軽く触れた。キシュ同士では仲間の様子を診断する行為だ。自分の心配をしてくれている。アシャンは微笑むとキシュの頭をそっと撫でた。


 カラデアの街はまだ遠い。

  

 キセの塚の一族が交易の旅に出るようになって、まだ日が浅い。他の一族達が交易路を独占していたからだ。


 交易をめぐって、一族同士の争いは度々おこっている。故郷の地は、そう広くない。豊かな森や水に恵まれているものの、逆に言えばそれしかない。諸族が相争い、互いの資源や巣を奪い合っているのが現状だ。だが、外つ国へと降れば様々な産物を手に入れることができる。不足しがちな塩、食料、珍奇な品々などだ。


 逆に、彼らの土地では珍しくない物や、キシュの造り出す産物が、外つ国で重宝されている。このことに気付いた諸族は、争って外つ国へ交易に向かった。当初は力をもった一族が交易を独占していたが、やがて諸族がそれぞれに交易をおこなうようになっていった。


 諸族の争いは一層激しくなることになる。キセの塚の一族も、遅れを取り戻そうと必死だった。


 カラデアへの道は、半ば砂に埋もれている。何十、何百人という人々が往来する道だが、決して踏み固められることはない。沙海から流れ来る大量の白砂が、道の上を覆うからだ。


 隊商の先頭を歩くのは、キシュである。この個体は群れの鼻だ。鼻は、群れの先頭に立ち脅威を感じ取る。


 そのすぐ後ろを二人の戦士が歩く。戦士は幅広の刃をもった大槍を担いでいる。これを扱える剛の者は少ない。キシュガナン、即ちキシュと伴にある者達と名乗る諸族の中で、キセの塚の一族は腕の立つ戦士が多い。そのため、諸族からも一目置かれていた。


 戦士の後ろに、他のキシュと人々は点在して歩いている。キシュも人々も皆、背に荷を負っていた。キシュが作り出した群れの形を、男達が補っている。原群から離れたキシュは、小群として新たな我を形成する。互いの匂いと音を交換しあうことで、原群ほどのものでないにしろ、高度な我を形成することができる。


 一族の者達は、原群や小群の意志を断片的にしか理解できない。だが、生まれた時からキシュと暮らしているため、大きな意志の流れを読むことは出来る。キシュの発する匂いや音からも、大まかな意図を察することはできた。だが、細かい意志まで知ることは不可能だ。


 だが、まれに一族の中に、完全にキシュと通じ合わせることができる者が生まれた。彼らは、ラハシ、と呼ばれる。言って聞かせる者、といった意味の言葉だ。ラハシは、キシュの匂いや音を、まるで一族の者達の声のように理解することができた。そして何より、キシュの意志を感じ取り、自らの意志をキシュに理解させることができた。ラハシはキシュガナンにおいて、キシュの子として祝福されていた。古代において、キシュの大いなる母との契約から生まれたとされている。


 ラハシは、キシュと意志を通じ合える貴重な存在だった。だからといって特別扱いされているわけではない。ラハシは、一族のために特に重要な役割を担うことになる。アシャンも、そうだ。父親と同じラハシとして生まれたアシャンは、隊商頭として父と同じく沙海を渡らなければならない。狩りならば単純に獲物を追うだけだ。そのため、戦士や狩人はキシュの動きを見ながら、自身はそれを補う形で動けばよい。しかし、交易は違う。外つ国の人々と交渉し、一族の利益となるような取引をしなければならない。だが、その前にキシュの利益が第一に優先される。キシュの要求を聞かなければ、交易は成立しない。


一族の利益を考えるのはそれからだ。


 今回の交易が成功すれば、一族の大きな利益となる。そうなれば、キセの塚の一族は武力だけでなく、富においても勝る一族であると、名が高まるだろう。


「アシャン、大丈夫か?」


 長身の戦士がアシャンの横に並んだ。アシャンの兄であるウァンデだ。ウァンデはラハシとしての力を受け継ぐことはなかったが、一族でも屈指の戦士として成長した。


「大丈夫」


 アシャンは小さく頷いた。兄に心配をかけたくない。次の瞬間、アシャンは砂に足をとられてふらついた。ウァンデは素早く支える。アシャンは唸り声をあげると、再び歩き始めた。


「お前は沙海は初めてなんだ。疲れて当たり前だ。無理はするなよ」

「分かってる。大丈夫」


 アシャンは苛立ちを覚えて視線を逸らす。ウァンデは困ったような表情を浮かべた。


「だったらいいが、ラハシが倒れてしまっては、皆に迷惑がかかる」


 アシャンは反論しようとしたが、言葉を紡ぐことができない。心では幾つもの反論が思い浮かぶが、素早く言葉にすることができないのだ。心が拡散しているとこうなる。心を集中させなければならない。


「心配しないで」

「心配もする。妹の最初の大仕事だ。何としてでも成功させたいからな」


 アシャンは大きく息を吸い込むと、心を落ち着ける。


「ありがとう。本当に大丈夫」

「そうか」


 ウァンデは小さく肩を竦めた。兄の心遣いは嬉しかったが、いつまでも子供扱いはしてほしくない。


「父さんが死んでから一月たつ」


 ウァンデはアシャンの顔を覗き込むように言葉を続けた。


「あれからお前としっかりと話ができなかった」

「仕方ないよ。私は儀式で忙しかったし、兄さんも戦が長引いていたもの」


 今度はアシャンが肩を竦める番だった。


「お前、父さんのことで責任を感じているんじゃないのか?」


 兄の言葉に、アシャンは表情を強張らせた。


「父さんは、お前を守って死んだ。それを、お前は自分のせいで死んだ、そう思ってるんじゃないのか?」


 アシャンはその問いに答えない。薄白色の風が、二人の間を通り過ぎた。ウァンデは顔をしかめた。


「私は……」


 アシャンはおもむろに口を開いた。心に強い圧力を与えて、あらかじめ整理しておいた言葉を口にする。


「あの時、あそこにいるべきじゃなかった。坑の中で、キシュといるべきだった。それなのに、父さんに無理についていったの」

「それは知ってる」


 ウァンデは頷くと、そっとアシャンの肩に触れた。


「だが、あの時カカルの一族が襲ってくるなんて、誰も予想できなかった。お前がいなければ父さんが死ななかったとは限らない」

「父さんは戦士だった。戦士だったのよ。私が、私がいなければ……」


 アシャンは思わず声を荒げた。すぐに呂律が回らなくなる。ウァンデは手でアシャンを制すると、頭を振った。


「あの時共にいた戦士も、何人か死んでいる。皆、勇士ばかりだった。父さんは素晴らしいラハシだったが、大槍を持つほどの戦士だったわけじゃあない。勇士さえも死を免れ得ない戦いで、生死を別つ証をどこに求めるというんだ?」

「でも、私はあの場所にいたの」


 搾り出すような、アシャンの声。ウァンデは眉根を寄せると、もう一度頭を振った。


「では、あの時、戦士たちに守られていた女子供達は、皆足手まといだったと?女子供のせいで戦士たちは死んだのか?」


 ウァンデの問いに、アシャンは困惑の表情を浮かべた。


「それは……」

「戦士は、一族の者たちを守るためにいる。そのために、その身を危険にさらす。それで死を迎えるとしても、それが戦士の運命だ。今、この隊商を襲撃する敵と戦って俺が死んで、それはお前の責任か?」

「違う……」


 アシャンは弱弱しく答えた。


「あの時、俺はあそこにいたわけじゃない。父さんがお前を庇ったというのも聞いている。だからと言って、お前の刃が父さんを刺したわけではない。そうだろう?」


 アシャンは、頷いた。


「お前は父さんの名誉を継いで、一族のラハシとなった。それは父さんの望んでいたことだ。お前は、ラハシとしてこの交易を成功させる。それだけを考えればいい」


 ウァンデは優しく言うと、先頭へ戻っていった。


 兄の励ましは嬉しかったが、アシャンの心は晴れなかった。あの光景は一生忘れないだろう。自分に覆いかぶさったまま、息を引き取った父。最後に吐き出した吐息の音は、今も耳を離れない。


 アシャンは唇を噛むと振り返った。故郷の緑豊かな山々は、はるか彼方に稜線を黒く描くのみだ。沙海の灼熱によってゆらめく大気が、幻のように見せている。


 父は、この道を何度歩いたのだろう。キセの塚の一族は、父の代に交易を始めて利益をだすことに成功した。父は偉大な開拓者だった。はたして、自分はその偉業を継ぐことはできるのか。アシャンにはその自信がなかった。


 キシュガナンは、外つ国の民とほとんど交流が無い。険しい山々とその隙間に僅かに広がる平野。故郷を追われてこの地に辿りついたというキシュガナンの歴史が、彼らを閉鎖的な民族にしたのかもしれない。


 アシャンも、僅かな例外を除いて外つ国の民と交流したことがない。故郷の塚からもほとんど出たことはなかった。それが父の死によって、今は沙海の辺で隊商を率いている。


 キシュガナンと外つ国の人々とでは、風習が随分と異なるという。生活の中にキシュがいるといないのでは、何もかもが異なってくるのは当然だろう。外つ国の人々はキシュを怖がるのだと、父は笑いながら教えてくれた。子供心に、アシャンはそれを不思議に思ったものだ。


 鼻の役割をつとめるキシュから、強い酸味を含んだ匂いが発せられた。顎が連続して音を発する。警戒を呼びかけている動きだった。アシャンにも同時にその情報は伝わってくる。キシュは、近くで行われている戦いの匂いを嗅ぎつけていた。


 戦いの匂いはキシュにとって様々な匂いを総合したものだ。血の匂い、汗の匂い、恐怖や緊張の時に発せられる匂い、金属や皮革の匂い。そういった複雑な匂いの総合的な結果を、キシュは戦いと判断する。


 キシュの小群はその知覚を全方位に向けた後、戦いの場所を特定した。隊商の向かう方向、カラデアへ続く道を少し外れた場所に屹立する断崖の上だ。風上にあるために、ここまで匂いが正確に届いているようだった。


「アシャン、キシュの様子が変わった。何かいるのか?」


 ウァンデが駆け寄る。キシュの警戒態勢は、ラハシでなくとも、慣れた者ならすぐに気付く。ましてや、戦士ならば嫌でも覚えるものだ。


「いる。戦いの匂いを嗅ぎつけたの」


 アシャンは答えながら断崖の上に目を凝らした。ウァンデもつられてそちらを向いた。


「あそこで戦いがおこっているのか?」

「うん。数はそんなに多くない。強い匂いだけど、量はそんなに多くないの。たぶん、二人か、三人、かな……。他に、血の匂いがすごい。たくさんの人が死んでる」


 キシュからの情報がアシャンに流れ込んでくる。高速でぶつかりあい、火花をあげている武器の様子まで感じ取ることができる。おそらく、人と、鱗の民が戦っている。これまで観たことのない匂いがいくつか混ざっている。感覚を集中してみたが、はっきりとは掴めない。そして、その近くから漂う死の匂い。戦う二人の周りには死体の山が出来ているに違いない。


 ここからだと、断崖の上には何も見えない。キシュは目がよくない。アシャンも遠目がきくほうではない。


「兄さん、何か見える?」


 アシャンはウァンデを顧みた。目を細めていたウァンデは、頭を振る。


「見えない。ここからだと陰になってるんだろう。あるいは、向こう側は斜面になっているのかもしれないな」

「どうする?」

「お前が決めろ。お前が隊商頭だ」


 アシャンは兄のにべもない答えに、一瞬困惑した。だが、それも当然だと思い直す。


「行って、みよう」


 ともすればもつれそうになる舌を叱りつけながら、言う。


「分かった」


 ウァンデは頷いた。

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