第3話 花を手向ける前に

(私は好きでこの家に来たわけではなかった。)


使い古された赤いソファで朝刊を読む太陽に淹れたてのコーヒーを手渡し、ゆっくり隣に腰かける。コーヒーを啜る音と雨音が不思議なハーモニーのように混ざり合って聴こえてくる。太陽が帰ってきてから雨音が弾けるように大きくて、太陽の呼吸さえも聞きづらい。


そうだ、太陽と初めて話したあの日も大きな雨粒が空から落ちてきて私の涙も不安も怒りも悲しみも全部流してくれていた。

カーテンから覗く窓の外を眺めながらあの太陽の一言が耳に聞こえた。


「おまえ、帰る場所あるの?」


漆黒のワンピースの裾をただただ見つめていた私に遥か頭上から静かに一言降ってきた。もう涙も枯れて線香と菊の花の香りが全身にこびりついていた。硬いパイプ椅子にずっと座っていたのに痛さも違和感も何も感じない。感情が全て外でざあざあ降る雨にどこか流されてしまったようだった。


「ない。」


もう頭を上げる気力も残っていなかった。祖父が死んだという実感も、一人になってしまった不安も、祖父を殺された怒りを忘れる方法も、帰る場所を考える時間も私にはなかったのだ。


「花手向けてくるからここにいろよ。おまえ皐月だろ?」


私の名前を知っている人は1人として今日の葬式にはこなかった。あんなに人にいつも囲まれて自分の小さな店を精一杯切り盛りしていた祖父の葬式にみんな来ないのだ。(それも全部、みんなあいつらのことが怖いせいだ。)炎のような怒りが全身から吹き出そうになったが、怒りより悲しさが勝ってしまった。


「なんで私のこと知ってるの?」


涙がまた浮かびそうになったが、不思議に思って顔を上げてみた。上げた瞬間、男の鋭い瞳に射抜かれた。


「おまえのじいちゃんの淹れるコーヒーが好きだった。」


目の前に立っていたのは長身で全身真っ黒のすらりとした男だった。鋭い男の視線から逃れて目線を下げると右手には大輪の真っ白い菊の花束が握られている。もう一度顔を見上げたが、どこかで見覚えがあった。(この鋭い瞳、どこかで)


思い出した瞬間、私はすごい勢いでこの男に掴み掛った。


「なんで、なんで来たっ!じいちゃん追い込んで殺したくせに!」


あの男だった。いつも何人かで祖父の店にきて立ち退きを迫ってきていた男たちの1人だった。じいちゃんの店は昔からの喫茶店で、祖母が亡くなってからもずっと1人で切り盛りいていた。私たちの大事な店が開発のために立ち退きを迫られ始めたのは去年からだった。最初は役所の人みたいな人が交渉に来ていたが、じいちゃんが断るうちに暴力団みたいな人たちが来るようになっていったのだ。


祖父がみるみる弱っていったのは明らかだった。営業中でも構わず来るものだから常連さんも来てくれなくて店の経営はあっという間にうまくいかなくなった。そしておとといの朝、ついにストレス性の病気で逝ってしまった。


(私を置いて。)


男を殴ってもたたいても怒りは収まらなかった。枯れたと思っていた涙があふれてもあふれても流れていく。男はふらつきもしないでただ菊の花束を背中に隠して私の怒りを全身で受け止めていた。


怒りが段々悲しさと寂しさに包まれていった。

じいちゃんの淹れるコーヒーの香りや音、バターが滑る黄金色のパンケーキ、常連さんと楽しそうに話すじいちゃんの低い声、カランカランと鳴る店の古びた扉のベル、そんな他愛もない一瞬がフラッシュバックのように蘇ってくる。


(もう私は全て失ってしまったのだ)


私の掌が真っ赤になったころ、男は無言で私を抱きしめた。もう抵抗する元気もなくてされるがままになってしまって悔しかったけれど、なぜだか男の服からじいちゃんの淹れるいつものコーヒーの香りがした。


祖父との最後の別れの場に大事に花を持ってきた人も、私の名前を知っている人も、祖父のコーヒーの味を思い出してくれる人もこの男以外にはいなかった。


男の腕も胸板も温かくて、またぽつりと涙がでた。


「俺を一生憎めばいい、だから1人で生きていけるまで俺と一緒にいろ。」


男が私を抱いたまま耳元で小さく囁いた。


この男が太陽だった。




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