第2話 空が泣いた朝に

「皐月、ベットで待ってろっていつも言ってるだろ。」


太陽の諭すような低い声が耳にくすぐったい。お湯が沸いた汽笛が太陽の声を遮ろうとするが、私の耳はその一言を掬い取る。生まれつき冷え性だから別に冷たい自分の身体は慣れっこだが、私の冷えた身体を抱いた太陽はそんな言い訳は聞かないだろう。それに、太陽の高い体温を感じるには最適な体質である。


私は温い太陽の腕から離れ、コンロで熱い熱いと悲鳴を上げるやかんを救いに行った。棚からくすんだ青色のマグを取り出し、机に置く。このマグは太陽と同居することになった日の次の日に二人で寄った雑貨屋で見つけたマグだった。マグにドリッパーを座らせ、新しく折り込んだフィルターをドリッパーに広げる。


『シャーーー』


太陽が熱いシャワーを浴びる音が聞こえてくる。

ポットにやかんから熱湯をうつし、フィルターにお湯を注ぎ入れ染み渡らせる。このフィルターの紙の匂いをとる過程を教えてくれたのは太陽だった。同居する前からコーヒーは自分で淹れていたのだが、フィルターにすぐコーヒー豆をいれてお湯を注いでしまっていた。


「まずさ、フィルターにお湯を染み渡らせるんだよ。そうすると紙の独特の匂いもとれるし、滴り落ちた温かい雫がマグを温めてくれるだろ?」


同居したての一年くらい前の太陽の言葉が脳裏に浮かぶ。さすがに私より七年も長く生きていると、コーヒーの知識も増えるらしい。あの頃の太陽はまだ私に触れもしなかったし、不思議な二人の距離感がそこにはあった。


「そっか、もう一年も経つのね。」


一年前このアパートに迎え入れられた日の朝を思い浮かべる。雲一つない空に美しく日が昇り始めていた。少し前を歩く黒い背中が、すごく大きく見えた。あの晴れ渡る空の下をゆっくり歩いていた私たちに美しい雫が空から降ってきた。立ち止まって空を見上げてもどこにも雨雲は見当たらないのに、確かに雨が降っていた。


「天泣だな。」


太陽が私に振り返りながら呟いた。


「天泣?」


不思議そうにゆっくり一言発音してみた私に太陽は優しく微笑んでくれた。


「空に雲がないのに細かい雨が降ることを”天泣”って言うんだよ。”天泣”の別名は”狐の嫁入り”、聞いたことないか?」


私は聞いたことがあるようなないような曖昧な記憶しかなかったが、たくさんの狐たちに見守られて純白の綿帽子を被った美しい女狐が嫁入りに行く姿を想像した。


「じゃあ、この雨は空のうれし涙なのね。」


「そうだな。」


ただ一言、太陽は私に小さく囁いた。


(もし私がお嫁にいったら、空は泣いてくれるだろうか。)

そのとき私は私に背を向けてゆっくり歩き始めた太陽の黒い背中を目で追いかけながら、そんなことを考えていた。


「皐月、どうした?」


私の冷たい腕をつかんで太陽は自分に引き寄せた。

どうやら私は淹れかけのコーヒーを前にぼーっと突っ立っていたらしい。

太陽の顔を見上げると熱いシャワーを浴びたせいか少し赤くなっていた。心配そうに見つめる瞳が私を射抜く。


そういえば、太陽と初めて出会った時もこの瞳に射抜かれた。あの時はこんなに優しい瞳ではなかったけれど、


「なんでもない、ちょっと考え事。」


視線を下げると、太陽の上気した裸の上半身が私の前にあった。

太陽の左の胸板には一匹の黒い龍がいる。怒りに燃えているような表情のこの龍の瞳は、私にはなぜだかとても寂しそうにみえた。


「コーヒー淹れて。」


私は淹れかけのコーヒーに向き直った。ぬるくなってしまったお湯をやかんに戻し、再びコンロに火をつけた。


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