4話 対決! 殺人鬼Ⅱ

「ちょっと! 何で逃げてるわけ!」

「襲われたからに決まってる!」

「何で襲われなきゃ何ないの!」

「知るか!」

 雄一は愛子の手を引き走っていた。

 幸い殺人鬼Ⅱの少年はゆっくりと歩いているだけだ。距離は十分に離したといっていい。

 廊下の端にまでやってきてそこで立ち止まった。

 雄一たちの教室は四階だ。一年生の教室は四階にあり、二年生は三階、三年生は二階となっている。一階には音楽室や美術室、職員室などがあった。

 授業が終わってしばらく経っている。少なくとも四階の教室に残っている生徒の気配はない。

 だが一階まで行けば部活動の生徒も先生もいるだろう。

 雄一は迷った。

 助けを呼ぶべきか否か? 殺人鬼に自分たちだけで相対するか? 倒せるのか? 倒せるとしてどの程度やっていいのか?

「どうしたらいい?」

 対処に困って愛子に話しかけた。

 だが愛子もそんなことを聞かれても困る。

「えー! えーと……まず、あの人の目的は何? 坂木くんを狙ってるの?」

「わからん。教室に入ってきたやつに無差別に攻撃してきたのか俺だから攻撃してきたのか……」

「不審者が校内にいるんだから先生に言うしかないんじゃないの?」

「普通ならそうなんだろうが、相手が殺人鬼だしな、とにかく逃げよう。上に行っても屋上だから下に……!」

 とにかく学校から逃げだす。

 そう決め視線を階段へと向けるとそこに野球帽の少年が立っていた。

「よぉ、あんたがサカキクン? 初手で外すとは思わなかったなぁ。一般人だって聞いてたんだけど」

 目を離した隙(すき)に三階を経由して回りこんできたらしい。その事実から類推するにかなりの速度だ。

「わりぃ野呂!」

 そう言うと雄一は愛子を抱きかかえ一目散に駈(か)け出した。

 いきなりお姫様抱っこをされて愛子は目を白黒させる。

 ここまで逃げてきて愛子の足が遅いことはわかっていた。

 これなら自分が抱いて走った方が早い、そう判断してのことだ。

「何だよ、ちょっとは話に付き合えよ」

 少年も走りだし雄一達を追い始めた。

「とにかく俺が狙われてるのはわかった! ところで野呂、金持ってる? 貸してくれ。いやくれ!」

「何でこの状況でお金たかられてるの私!?」

「いいから! 幾ら持ってる?」

「えーと十万ぐらい?」

「何だそりゃ! 高校生が学校に持ってくる金額じゃねーだろ!」

「ほっといてよ! で、何でお金がいるの!」

「五百円玉ある?」

「あるけど……」

「ありったけくれ!」

 何だか必死そうだったので愛子もそれ以上は聞かなかった。

 こんな状況でも手放していない通学鞄(かばん)から小銭入れを出すと五百円玉を十枚取り出す。

 だが、雄一の両手はふさがっていた。

「どうしたらいいの?」

「屋上に行く。そこで渡してくれ、攻撃をしかける。で、駄目なら姉ちゃんに助けてもらう」

「屋上って追い詰められちゃうんじゃないの?」

「大丈夫!」

 反対側の廊下の端にやってきた。そこの階段を駆け上る。すぐに屋上への扉が見えた。

 そこで愛子を下ろすと五百円玉を受け取る。

「よし! それと使えそうなもんがあったからまずはこれを試す」

 そう言う雄一が見ているのは傷んだ机だった。

 屋上への扉の横に古びた机が積み上げてある。廃棄予定の机が置いてあるといった様子だ。

 雄一はその机を引っ張りだした。階段の上へと運び出す。

「え?」

「見ての通りだ。あいつが下に来たらこれを落としてぶつける! どの程度やっていいのか分かんねーけど、これぐらいなら死にはしねーだろ!」

「えーと、坂木君って大ざっぱだね……」

 少なくともここならどこから現れるかは読める。だが念のため背後への警戒は怠らない。先ほどのようにどうにかして屋上から回りこんでこないとも限らないからだ。

 だが殺人鬼の少年はなかなかやってこなかった。

 遠くからゆっくりとやってくる足音が聞こえる。屋上へと追い詰めたと思ったのか焦っている様子がない。

「野呂、武内奈月の携帯って知ってるか?」

「何で? 一応交換はしたけど……」

「この状況にあいつが関わっていないとは思えない。なぜ俺が狙われてるのかわかっといた方がいいだろ?」

 愛子は携帯をブレザーのポケットから取り出した。雄一はそれを奪い取るとアドレス帳を呼び出しそのままかけようとする。

「ちょっと! 直接かける気!」

「え? あぁ、それはまずいか」

 喋れば皆殺しと脅されているのだ。まだ愛子のことは奈月に知られる分けにはいかなかった。

 雄一は自分の携帯を取り出すと、愛子の携帯を見ながら電話をかける。奈月はすぐに電話に出た。

「坂木だけど、これはどういうことだ?」

『ん? 坂木君? 番号を交換した覚えがないんだけど? 何のことだかさっぱりわからないわ』

「とぼけんなよ。殺人鬼が俺の前に現れたぞ! 殺人鬼なんてお前が関わってるとしか思えねぇんだよ!」

『坂木くん今どこにいるの?』

「学校だけど」

『ちっ……あの馬鹿……』

 忌々しげな声が携帯から聞こえてきた。

「やっぱり関係あるんだな!」

『まあね。あいつが私の狩り場を使いたいっていうから交換条件を出したの。私の正体を知ってる人がいるから始末してほしいなぁ、って』

「な!」

『私も軽率だったわ。私のアリバイが完全にある状態なら問題ないかと思ってたんだけどまさか学校で手を出すなんて』

「ふざけんなよ! 何だよそれ! やめさせろよ!」

『うーん、多分無理ね。だって茨木君の正体は坂木君に知られちゃったわけでしょ? 彼は私ほど話がわかるわけじゃないわ。正体を知った相手は確実に消そうとするタイプね』

「何だそりゃ!」

 気の利いた言葉の一つも出てこない。不満をただぶつけるしか雄一にはできなかった。

『ちなみに坂木くんの居場所がなぜ知られちゃってるかというと、GPSを坂木くんの鞄(かばん)に忍ばせておいたからなの。ごめんね』

「ごめんね、とか可愛く言ってんじゃねーよ!」

 それでわかった。少年が教室で待っていたのは鞄(かばん)が教室に置いてあったからなのだと。

『今から向かうわ。私も学校で殺人事件なんて起こるのは困るのよ。せいぜい逃げまわって何とか生き延びて』

 そう言うと電話は切れた。

 足音はすぐそこまで近づいている。悠長に電話をかけ直す暇はなかった。

「ど、どうするの!」

「武内が来るって言ってるが……敵が増えただけかも知れん……」

 足音が階段を上ってくる。

 踊り場に影が見えた瞬間に雄一は机を蹴り飛ばした。

 ガラガラと音を立てて勢い良く机が階段を転げ落ちていく。

 それは追ってきた少年に確実に命中するはずだった。

 少年が手を横へと振るう。蝿でも追い払うかのような無造作な動きだが結果は劇的だ。

 机の塊はまとめて払いのけられ壁に激突した。雄一の罠は少年に何の痛痒も与えていない。

 多少効果があったと言えるのは野球帽が落ちたということぐらいだ。短い金色の髪が見える。

 だがそれ以上に目を引くものがあった。

 角だ。

 額から半透明の青白い角が生えている。長さは拳ひとつ分ほど。こんなものが野球帽に収まるわけがないので、見た目から判断するにホログラムのような物なのかもしれない。

「まずい、何か思ったよりつえぇ」

 少年はゆっくりと階段を上がってくる。

「どうするの!」

「姉ちゃんとこまで逃げる。姉ちゃんは部室だ。あ、もしかしてメーカー見学に出かけちまってるかも……」

 確かそんなことを言っていた。メーカーに協力してもらってエスカレータの下に潜る演習をするとかいう話だ。

 雄一は愛子の手を引き屋上へと入った。

 一見逃げ場はない。金網のフェンスに囲まれた屋上、しかも四階だ。

 ここは南校舎と呼ばれる建物だ。コの字型になっていて中心部は中庭になっている。

 ここから少し離れた所にある北校舎が部室棟として使われており、姉が部長をやっているサバイバル部もそこで主に活動を行っていた。

「野呂! 俺に前からしがみつけ、コアラみたいに! 今から逃げるが両手を使えないとまずい」

「はぁ、何それ!? 無理!」

「大丈夫! 野呂ちっこいから!」

「そういう問題じゃない!」

「いいから!」

 雄一は愛子を無理やり抱きすくめた。

「えー! ちょ、ちょっと!」

「とにかく体に手をまわせ! んで足を腰のあたりに絡ませろ」

 雄一があまりに必死なので愛子は言われた通りにしてしまった。雄一の胴体に前からしがみついた形になる。間抜けな姿だ。あまり人に見られたいとは思わない。

「ちょっと動きづらいが何とかなるだろ」

「何やってんだ? お前ら?」

 屋上の扉を出てすぐの位置に殺人鬼の少年はいた。二人の様子を呆れたように見ている。

「お前をどうにかする準備だよ!」

「へぇ」

 少年の態度は舐めきったものだ。幾ら獲物が逃げ惑おうともいずれ追いつくとわかった上で余裕を見せている。

 雄一は拳を握りしめた。その拳の指の間には五百円玉が挟んである。各指の間に二枚ずつ、計八枚。

「くらいやがれ!」

 少し窮屈な姿勢から腕を引き一気に前方へと振る。手首のスナップを利かせて五百円玉を投てきした。

 羅漢銭。暗器の技法だ。殺傷力を期待するなら研いだコイン状の武器を投てきする。

 先ほど見た少年の膂力(りょりょく)は雄一にある意味安心を与えた。このぐらいならやっても死なないだろうと臆測が立てられる。つまりレベルを一段あげることができた。

 散弾の如き勢いを見せた五百円玉が一気に少年に襲い掛かる。それらはあまり散らばらず顔面を中心に集束していた。

 舐めてかかっていた少年はそのあまりの勢いに血相を変えて、顔の前で両腕を交差させそれを防ぐ。

 学ランの袖を突き破り肉に食い込もうとするコインを筋肉を硬直させて弾(はじ)き返した。

 幾つか外れたコインは鈍い音をたててコンクリート壁へと食い込む。

 雄一は結果を確認もせずに振り返り一気に走りだした。どうせ大して効かないはずだ。一瞬相手の動きが止められればそれでいい。

 愛子を胸にぶらさげたまま金網へと走るとそのまま止まらずに一気に駆け上がりフェンスの上に立ち上がった。軽身功の一種だ。

「え?」

 何が起こったのかわからない愛子はそのまま必死にしがみついた。何だかわからないがここで手を緩めるのは命に関わりそうに思える。

 雄一は休む間もなくフェンスの上を北へ向かって駆け出した。

「ちょっと! どうすんのよ!」

「飛ぶ。しっかり捕まってろ!」

「はぁ?」

 四階建ての建物の屋上。高さは十五メートルほどだ。落ちれば即死とも言い切れないが大怪我をするのは間違いないと思える。愛子は何を言われたのかわからなかった。

「大丈夫! 北校舎まで飛べば……あ!」

 雄一が狼狽した声を上げた。

「すまん……南校舎から北校舎の距離を舐めてた……三十メートルはあるわ……無理!」

「無理って!」

 雄一は南校舎から北校舎の間を一気に跳躍するつもりだった。イメージとしては五、六メートルの距離、愛子を抱えたままでも飛べる。そう思っていたが三十メートルは幅跳び世界王者でも絶望的な距離だ。

 ちらりと後ろを見る。殺人鬼の少年が怒りに任せて追いかけてきていた。今更ここで下りても追いつかれる。

 前方を見る。幾ら頑張っても三十メートルは無理だ。何かないかとすぐそこまで迫った屋上の端を見る。校舎の間に木が見えた。

「野呂! 確か怪我は治りやすいとか言ってたよな? すまん!」

「え? え? え?」

 フェンスの端までやってくると雄一は覚悟決め一気に踏み切り跳躍した。

 校舎の間にある樹の枝葉に突っ込む。それで勢いを多少殺した。だがそれだけでは無事ではすまない。

 雄一は脱力し爪先から地面に着地した。膝を曲げ腰を捻(ひね)り着地の衝撃を逃がすようにしながら転がる。

 背中を着けるように回転するとそのまま一回転して立ち上がった。

「はぁ?」

 愛子は大して怪我もせずに地面に降り立っていることが信じられなかった。強いて言えば樹の枝を通り過ぎたときに擦り傷ができたのと目が回ったぐらいのダメージしかない。

「ははっ、五点接地着地なんてマジでやることになるとは思わなかった……」

 五点接地着地。パラシュートの降下などの際に用いる着地技術だ。雄一がこのような技術を身に着けているのはもちろん姉に強いられてのことで、姉は格闘漫画で見かけたこの技を嬉々として雄一に叩き込んだ。

 愛子をあらかじめ胸側に抱きつかせていたのも校舎間の跳躍に失敗したときに背中側で接地することを想定したものだった。

「行くぞ! とにかく姉ちゃんとこまでいく!」

 愛子は抱きついていた手を放すと地面に降りた。

 人気はなかったが万が一ということもある。男の子にしがみついているところを見られるのは恥ずかしすぎた。

「ねえ! お姉さんがどうにかできるとは思えないんだけど!」

 一緒に走りながら愛子は聞いた。

「俺も分かんねーけど、こういう事態ならねーちゃんがきっとどうにかしてくれる!」

 大した根拠はなかったが、何だかんだ言いながらも姉のことを信頼している雄一はそう答えた。


   *****


「おいおい、あれ人間かよ……」

 少年は金網越しに地上を見下ろしていた。

 地に降り立ち駆けていく雄一達を呆れた様子で見つめている。

 木に突っ込んだとはいえほぼ無傷で走り去っていく姿を見れば呆れる他ない。

 少年も飛び降りること自体は可能だろうがそれは力ずくとでもいっていい方法だ。

 単に頑丈だから落ちても大丈夫というだけのことで、あそこまで華麗に着地を決めることはできない。

「ただの一般人って聞いてたんだけど……面白くなってきたじゃねーか」

 少年は金網を一気に飛び越えるとそのまま地面へと落下した。


   *****


 雄一達は北校舎へと入ると、入ってすぐの階段を上り二階へと向かった。

 二階の端がサバイバル部の部室だ。

 必死になって駆けていく。部室の前にたどり着くと同時にサバイバル部の扉が開いた。

「ゆうくん? どうしたの? 今日はいいって言ったのに。そんなにエスカレーターに潜りたかったの?」

「違う!」

 出てきたのは睦子だ。

 雄一の顔を見ると少し意外そうな顔でそう言う。

 睦子は部室の鍵をしめた。

 どうやら睦子が最後の退室者らしい。部員は既にメーカーとやらに向かったのだろう。

「野呂さんもどうしたの? そんなにサバイバルしたくなったのかしら? それだったら入部届は今渡すけど」

 睦子が鞄(かばん)をごそごそといじり入部届を取り出そうとする。

「それどころじゃねーんだ! 殺人鬼! 殺人鬼に追われてる!」

「え!?」

 睦子の顔が喜びに満ちあふれた。

「嘘! すごいじゃない!」

「あぁ、確かにすげぇな」

 すごいの意味はこの姉弟間でまるで違った。

「うーん、でも殺人鬼が放課後に現れるってのはちょっといただけないわ! どうせなら授業中に来てくれないと! チビ星人や、酸を浴びた島田みたいに来てくれた方がインパクトあるじゃない!」

「大惨事すぎるわ! それ日常生活崩壊レベルだ!」

「で、どうしたの? 殺人鬼なんてゆうくんがやっつけちゃえばいいじゃない」

「できるか! あれ多分人間じゃねー! 勝てるかよ!」

「ちょっと人間じゃないってどういうこと!」

 睦子が雄一の肩をつかみがくがくと揺さぶった。

「興奮すんなよ! 頭に角生えてたし、机の山を片手で払いのけた。人間レベルじゃない!」

「角……何本生えてたの?」

「一本だな」

「だったら大丈夫よ」

「何が!」

「一本なら弱いに決まってるわ!」

 何を根拠にそう言っているのかまるで分からない。雄一は力が抜けていくような気がした。

「どうしたらいい?」

「倒すしかないんじゃないかしら?」

 雄一が以前に想像した通りだった。対決を強要されてしまっている。

「ねぇ、坂木くん……お姉さんに会いに来ても大して状況は変わってないような……」

 愛子がおずおずとそう言い出した。とても不安そうだ。

「言うな……俺も早まったかと思ってる……」

「ねぇ? 殺人鬼ってあの人?」

 睦子が廊下の反対側を指さしている。

 そこに学ラン姿の金髪の少年が立っていた。

 追い詰められたと思い雄一は焦った。サバイバル部の部室は廊下の反対側だが、こちらには階段がなく行き止まりだ。逃げようがない。

 少年は相変わらずゆっくりと近づいてくる。

 笑みを浮かべていた。雄一が更に何を見せるのかと考え楽しんでいるかのようだ。

「ふーん、あれが……ゆうくんが本気でやれば勝てると思うけど?」

「本当か!」

「うん。そう! 今こそゆうくんは童貞を捨てるときよ!」

「ど、どうてーって……」

 愛子が顔を真っ赤にして反応する。

「人殺しになんてなりたくねーよ!」

「大丈夫! あれは人じゃないわ! 童貞を捨てるにはお手頃な物件よ!」

「あー、もう! それはともかく勝てるんだな! 後は任せるぞ!」

「任せて! 動けなくなったら担いで帰ってあげるわ!」

「それは御免被りたい。情けなさすぎる」

 雄一は殺人鬼に向かって歩き始めた。

 後一歩踏み込めば間合いに入る。そんな距離で二人は止まった。

「何だ? ここからどう逃げるのかと楽しみにしてたんだけどな。てっきり窓でも突き破って逃げるのかと思ってたんだけど」

「わりぃな。期待に応えられなくて。逃げるのはやめだ。きっちり勝たせてもらう」

 雄一はこの殺人鬼を相手にどうすればいいのか決めかねて逃げ回っていた。

 高校生の喧嘩レベルの相手ではない。殺人鬼だというならこちらも相応の覚悟を決めて戦わなければならないだろう。

 手加減して勝てる相手ではなさそうだ。ならば殺し合いになる。その覚悟ができなかった。

 だが姉は勝てると言った。

 ならば勝てるし、後は任せたのだから、たとえどんなことになろうとどうにかしてくれるはずだ。

 雄一は覚悟を決めた。


   *****


「降神(ふるかみ)」

 雄一がそうつぶやく。

 左足で限界を超えた勢いで地を蹴る。左足はこれで使えなくなった。

 雄一は殺人鬼の右側の壁に着地し反動で飛びかかる。

 その短い距離の間に前方へと回転し踵(かかと)を降らせた。

 殺人鬼にはまるでその姿が消えたかのように見えただろう。

 いきなり上空から踵が落ちてくる。

 殺人鬼の少年はわけがわからないながらも必死によけたが、続けて落ちてきたもう一方の足が脳天に直撃した。

 そこでほぼ勝負はついた。

 着地した雄一は殺人鬼に密着すると拳を腰のあたりに添えた。

 ズン、という低い音が廊下を揺らす。

 勝負は一方的に一瞬でついていた。


   *****


「ほぇ?」

 愛子の口から妙な声が出た。

 気づけば殺人鬼が崩れ落ちている。

 何が起こったのか全くわからなかった。

「降神はね! 古流なんかによくある奥義の類よ! 一時的に人間の限界を超えるの! 脳内麻薬の分泌、痛覚の遮断、リミッターの解除、エトセトラ、エトセトラ。ゆうくんが左足の筋力を限界まで使って踏み込んだのは相手からしたらまるで見えなかったはずだわ! で、その後の二段かかと落とし! あれは当たって痛い方が鉞(まさかり)だから、後から落ちてきた右足が鉞よね!」

「は、はぁ」

 何を言われているのかまるでわからない。

 そんな様子の愛子のことなど全く気にせずに睦子はしゃべり続けた。

「次のはもっと簡単。全身の力を密着させた拳に集中させて解き放つ! 中国武術の発剄とかにも似てるけどそれともまたちょっと違うの! ゆうくんには干してある布団を密着状態から破れるようになるまでよくやらせたものよ! 思い出すわぁ、泣きながらやっていたけどそんなゆうくんもとても可愛かったわ!」

「え、えーと……坂木くんは一体何をされて……」

「修行よ! 男の子は強くなきゃいけないわ!」

 そういう睦子はとても誇らしげだった。

 愛子は何だか雄一がとても可哀想に思えてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る