第8話 ホール、最後の演奏会

 ホールの扉は簡単に開いた。こんな時間におかしいと、疑問がちらりと頭をよぎったが、もうどうでも良かった。吹き抜けのロビーには蝋燭のような明かりと非常灯しかなく、薄暗い。二つの階段が二階のテラスから伸びていて、正面には赤くて重そうな扉が待ち構えていた。ピアノの音はその扉の向こうから聴こえてくる。

 濡れた髪を払い、無事だったハンカチで顔を拭う。なんとなく、身なりをきちんとしなければならない気がした。自然と歩数がピアノのリズムに揃っていく。曲の歌詞を口ずさむ。少しずつ大きく。

 両開きのドアを押し、私はホールの中に踏み込んだ。


・・・

 

 歌が聴こえる。あの人の歌だ。ピアノを演奏しながら、わたしはオンラインのグラスサイトを使ってホールの扉の鍵を開けた。かちり。ゆっくりとした足音が近づいてくる。歌も次第に大きくなる。

 両開きのドアが押し開かれ、あの人がホールに踏み込んできた。


・・・


 もう少女とは呼べない歳だ。背はすらりと伸び、子供にしては整い過ぎていた風貌に年齢が追いついていた。白い薄手のコートを羽織った姿は、立派にモデルとして通用するだろう。かつて、駅で私の袖を引いた少女は、天使像のように儚げで美しい女性に変身していた。

 舞台上にはわたしが使っているのとそっくりなキーボードセット。彼女はヘッドホンとグラスサイトをはめ、うつむいたまま象牙色のキーボードを叩いている。そして突然、すっと背筋を伸ばし、こちらに振り向いた。顔にかかった長い髪を、細い指で払う。髪は相変わらず長く、白のようなグレーのような、不思議な色合いになっていた。


・・・


 この人は私が幼かった頃から全く変わっていない。小柄だけれど、背筋がしゃんとしているせいで、実際よりも背が高く見える。透き通るように白い髪。以前触れた時と同じように、一本に編み上げて背中に垂らしている。雨の滴がその上を伝い、きらきらと光っていた。

 若干しわが増えたかもしれない。体を交換するときに手を加えたのだろう。鳶色の目。宗教画に描かれる聖母のような顔立ち。ずっと変わらない待ち人。

 ゆっくりと客席の間を抜け,あの人は舞台へと近づいてきた。服はぐしょ濡れで化粧も流れてる。そんななかでも、気品は流れ落ちていなかった。


・・・


「久しぶりね」

「…うん。久しぶり」

「会いにきてくれたの?」

「あなたがここに来たんでしょう?わたしはピアノを弾いていたの」

「ふふ、そうね。ピアノ弾けるようになったの。上手よ」

「前から弾けた。練習はしたけど」

「私もその曲を弾いたことがあるわよ。何回も。大好きな曲の一つ」

「知ってる」

「へえ、聞いてくれたの?」

「うん」

「ねえ、あなた…」

「知ってるの。覗いたから」

「そう…」

「今、あなたにかけられている記憶の閲覧制限は,前よりもずっと緩くなっているはず。だから、これまで触れられなかった、あなたの中に仕込まれた記憶を見聞きできると思う」

「そうね。この前,といっても私にはいつなのかよくわからないのだけど、目が覚めた時からいろいろと聴こえてくるようになったわ。私の詳しい生い立ちとか,仕組みとか。あなたも私を『造る』のに関わってたのね。驚いたわ」

「参加したのはずっと最後の方だったし,作ったのは付属する小さなツールだけど。うん、そう。あなたについて教えてやる、と言われたから」

「聴こえるようになったのは,あなたのせい?」

「うん。怒ってる?」

「いいえ。私だって何も知らなかったわけじゃないのよ。自分がヒトではなくて、背広たちの広告塔として使われていたこともわかってたわ。それをいわば、確認しただけだったもの。でも、なぜそんなことをしたの?」

「きっかけは、母さんがいなくなったから。でもそれは、本当にただのきっかけ。いつかはこうして、あなたに会って聞いてみたかった。もっと正直に言えば、あなたが欲しかったの」

「…」

「私の曲を聞いてくれる?あなたが待っていた人と再会させてあげるから」

「一つだけ,お願いがあるわ。名前を教えて」

「セシル。ファミリーネームは、もうない」


・・・


 最初に聴こえてくるのは、ささやきのような電子音。それから、深いビートが加わり、水面を波打たせる。ウッドベースの低いつぶやきの上を細く震えるギターが横切り、その向こうからやってくるのは、いつか誰かが弾いたのと同じ、キーボードの足音。それは私の界面を揺るがせる,最初の一手。

 彼女が私に組み込んだプログラムは、情報の選択性を低下させてデータのやりとりを活性化させる効果を持っていた。このプログラムのおかげで,私は外部ネットから少量だがデータをダウンロードできるようになり,同時に自分の内部を探査することが可能になっていたのだ。ただし、内部に蓄えられる情報のエントロピーが増大するので,私を構成する水球は,内圧の減少を受けて不安定さを増す。アイデンティティの段階的喪失。人格のゲシュタルト崩壊。背広たちが驚いたのは,絶対に生じないはずだった,私の倫理面での揺らぎだったらしい。

 音楽は続いている。石畳の上で刻まれる靴音。分厚い雨のカーテンが駆け足で通り過ぎ、服を重く濡らす。熱い滴が頬を伝い、それが消え去ると残るのは清冽でわずかに甘い花の香り。スネアドラムが波の音を引き寄せ,それについていくと唐突に何かが頭上から降り注ぐ。それは,容赦ない太陽の矢。服は一瞬で乾き,ざらざらした木綿のワンピースに変身する。とろりとした潮風が鼻腔から喉へ流れ込み,琥珀色のウイスキーへと凝集して舌先をしびれさせた。引き出される記憶は、みな五感で記されている。音,光,香り、質感,味。私だけではなく,ヒトもきっと同じはず。

 私たちは,感覚で記述されている。

 記憶のリフレインと同時に,私は自分自身の表象である水球をも眺めていた。これは、あの女の子、セシルが観ているのと同じ映像だろうか。球の表面は大きく波打ち,次第にその体積を増していく。

 突然,聴覚を貫くヴァイオリン。膜の構造が変化し始める。自分が変えられていくのを観察するのは,甘い苦痛を伴う体験だった。何が起きているのかははっきりとわかる。私の中に散らばって存在していたセシルのプログラムが連結し,膜を破壊するチャネルを作りはじめたのだ。碧色の光点がいくつも生まれ、膜の上で踊る。ひときわ強く刻まれたピアノが合図になり,それらの点がぱっと広がり,水球の表面にいくつもの花が咲いた。そして始まる,無秩序な情報の洪水。

 もはや、以前私を守ったフィードバックの波は存在しない。データをたっぷりと吸い込み,リンクの網の目はあっという間に広がる。全てを覆い尽くす、白いレース。それは水球の膜すら貫き、展開する。ダイヤのように強い結合で結ばれた,「不在」の結晶が立ち上がる。

 全ての音が一度断ち切られた。

「始まるよ」

 セシルの声。

 響き渡ったのは、透き通ったソプラノ。その振動で全てが砕けた。あの、強靭な不在さえも。

 私を作っていた膜が弾け,無数の断片へと変わった。そして、一つ一つが小さな泡となり,不在のレースのかけらを包んでいく。不在だけではない。私の記憶,記録。周囲にある全てを内側にして,最小の張力で球形をとる。セシルの感覚を通して,私はかろうじてそれを認識していた。ここまで細分化されてしまっては,自律性を保つことはできない。再構成は不可能だろう。私のいた場所には数えきれないほどの泡が満ちている。内側に不在を閉じこめて。

 もう一度,ソプラノが空間を震わせた。そしてギターの導き。全ての泡が色を変えた。ざあっと、音を立てるように。実際それはギターをかき鳴らす音だったのかもしれない。膜はいつか見た碧色に染まった。私の片鱗を残しながらも,その機能は完全に書き直されていた。

 泡は「再会」の情報を取り込みはじめたのだ。

『人であふれかえった駅。帰還兵を乗せた最初の列車がゆっくりと駅舎に入ってくる。沸き上がる歓声。』

『誰もが違った笑顔を浮かべていた。底抜けの笑顔、安堵したような笑み、泣き笑い。』

 数年ぶりに戻った実家。母と姉が待つはずの家の扉を叩く青年。起こさないようにそっと子供部屋に踏み込み,ずいぶんと成長していた息子の寝顔を眺める父親。寝返りを打った時,隣にいた夫に手の甲が触れた時の充足。花を手渡す歓び。再び街は活気であふれ,誰もが誰かと共にいる。一人きりの人間など、いない。

 『不在』が中和されていく。雪の結晶のように,跡形もなく消えていく。それは、私の完全な消滅を意味していた。青い泡。次々と弾けて,飛沫になる。一つ一つの私が,歓喜と共に虚空へと舞い散る。まるで音符のように。

「さようなら」

 私は最後に一言セシルに呼びかけると、彼女につなぎとめていた感覚を解き放った。たちまち私はバラバラになりデータの海に散る。不在と再会の化学反応に解ける。


 けれど、最後に伸ばした手は、私がずっと待っていた『あなた』の、暖かい手に届いた。


・・・


 スピーカーから最後の音が飛び立ち、小さなホールの中に散っていった。セシルはキーボードに目を落としたまま、残響が乱れて消えるまでじっとしていた。ひどい喪失感。のろのろと頭を起こし,客席に座った老女へと目を向ける。存在の全てをネットの隅々へと散らした『彼女』は、目を閉じて眠っているように見えた。もう二度と目覚めることはないけれど。その顔に浮かんだ微笑みに、セシルはようやく癒された気分になった。

 そっと近づいて,細い体を抱きしめ,白髪に顔を埋める。するとまだ微かにあの曲が聞こえる気がした。けれどそれは、セシルが演奏したのとは違う,不思議なハーモニーに変わっている。ちゃんと再会できたようだ。

 今度こそ、完全に一人きりになった少女は、Mrs. Lonelyの抜け殻を抱いてつぶやいた。

「私はきっと、あなたたちの娘になりたかったんだ」

 彼女はいつまでも,そのままでいた。さようなら。

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Miss Lonely さいとし @Cythocy

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