第3話 ホテル、ナイトショーの翌朝

 …ひいては寄せる波の音。眼を上げて海を眺めれば、まるで絵葉書のような景色。白い砂を洗う透明の波。水平線は天と地をまっすぐに切り分け、風に流れる雲が刻々と形を変えながらその上を漂う。波の音以外、何も聞こえない。静かだ。

 私はホテルの二階にあるテラスから、非現実的に美しいリゾートの光景を眺めている。背の高いヤシの木が揺れる。熱い風。とろりとした潮風の匂い。太陽が真上から容赦ない光の矢を放ち、頭上を守るパラソルは今にも焦げ付きそうだ。

 広いテラスにはパラソル付きのテーブルがいくつも並び、私のほかにも何組かの人々がくつろいでいた。本や新聞を広げている人もいれば、サングラスをかけたまま眠り込んでいる人もいる。私のテーブルには、冷気を漂わせるグラス。ガラス玉のように丸い氷が、琥珀色の海で浮き沈みしている。疲れを癒す、ちょっとした贅沢。

 夏に入ってから立て続けの演奏会。その最後の一つが昨晩、このホテルのコンサートホールで行われた。私はいつものレパートリーにいくつかの即興を加えて演奏し、それが終わると何人かの女性と舞台上で言葉を交わした。その後、立食パーティでの歓談。ここでも多くの女性と話す。彼女たちの話を聞き、励まし、感謝の言葉を受け取る。その言葉は一つ一つが私の中を揺り動かす。どうやら、私の言葉も彼女たちに対して同様の効果を与えているらしい。

 微かな衣擦れの音がした。振り向くと、見覚えのある背の高い女性が立っていた。誰だったか、しばらく迷う。そうだ、赤ちゃんを連れていた女性。以前の演奏会で出会った、すり切れたフィルムの上の女優。私の言葉で泣き崩れてしまったヒト。

 久しぶりに見た彼女は、しかしひどい様子だった。白のサマードレスを着ているが、ところどころにシミがあり、折れ目がついてくしゃくしゃになっている。髪は乱れ、以前にもまして痛んでいるようだ。肌は青白く、かなり荒れているせいで画用紙の表面のような印象を受けた。

「お久しぶりですね」

 彼女はそう言ってにっこりと笑った。表情は笑っているが、ひどく不安定な印象を受けた。回転数が落ち、倒れかけているコマを見ているような気分だ。軸がぶれ、全体が揺らいでいる。なにがあったのだろう。そして、なぜここに?

「お久しぶりです。あの、いきなりですみませんが、どこか具合が悪いのでは?」

「ふふ、いえ、そんなことはありませんよ。ここ、いいですか」

 ハートマン夫人は隣のテーブルから椅子を引っぱってきて、私の前に座った。だが、視線がどうも落ち着かない。長い指を膝の上で組み、しきりにこすり合わせている。何かを言い出そうとして口を開けるが、すぐに視線がそれ、口も閉じてしまう。よほど緊張しているのだろうか。あのとき、舞台に上がってきたとき以上だ。

 私はとりあえず、思い出したことを言ってみた。

「ハートマンさん。お子さんの様子はいかがですか?もう、だいぶ大きくなられたでしょう」

 突然、夫人は顔をがくんと上げ、こちらをまっすぐ見た。軸のぶれ。彼女は急に早口で話し始めた。

「ええ、あの子はね、すごく優秀なんですよ。すごく。特にね、パソコンの扱いが。ほんと、驚いちゃって。一日中画面の前に座ってるのよ。うん。私も色々教えてもらっちゃったりしたり。そう、特にあなたのことを一生懸命調べていましたよ」

「私のことを?それはまた、どうして?」

「さあ、なぜでしょうね?でも、直接あなたに会ったこともあるって言ってましたよ。覚えてらっしゃらない?たしか、そう、駅で」

 思い出した。駅で出会った、不思議な女の子。

「ああ、あの子があなたのお子さんだったんですか!そう言えば、似ていらっしゃいますね!」

「そうかしら?ふふ。あの子の方がよっぽどしっかりしてますわ。それでですね、あの子が調べている途中だったパソコンを、勝手に覗いちゃったんですよ」

 夫人の手がひどく震えはじめた。

「あの子ったら、どこから持ってきたのかしら?ほんとに不思議。ふふふふ。あの子、父親のこと調べてたのよ。おかしいわよね。あの人の死亡通知なんて」

 ざわ、と周囲の雰囲気が変わった。夫人がポケットに手を入れ、拳銃を取り出したから。銃口がゆっくりとこちらを向く。

「あの人の部隊はね、本当は使っちゃいけない弾頭を装備した砲を運用していたそうなの。でも、作戦ミスで全滅。全員の死亡が確認されたけど、表沙汰にできないから通知を延ばしていたんだって!死んだのはずうっっっと前、あの子が生まれた頃だったんだって!」

 私は一歩も動けなかった。ハートマン夫人の拳銃の銃口と、照星の向こうに見える彼女の瞳。その2つはそっくりだった。螺旋状にすぼまる、底なしの闇。

「このつまらない、くだらない戦争!いつまでもだらだら続いて、いつ始まったのかもわからない!そのあげく、こんなものまで作って私を騙して」

 こんなもの?

「あら、なに驚いた顔しているのかしら?娘はあなたのことも調べていたって言ったでしょ?あなたのデータは全部読んだわ、Miss Lonely。あなたはあのとき、全部知っていたはずなの。私がいくら待ったところで待ちぼうけだって」

 息ができない。恐怖ではなく、混乱?記憶だ、検索がかかる。情報が流れ込んでくる。ハートマン夫人の名前、家族構成、夫の名前、経歴、軍歴、死亡通知?エトセトラエトセトラ。

 なぜこんなものが。

「偽物」

 闇の奥がちかりと光り、思っていたより軽く、乾いた音が一度。9mm弾。視界が暗くなり、もう何も聞こえない。波の音も、歌も。

 静かだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る