第4話 政府系構造体、セシルの週末

 広大なネットの空に浮かび、足下の幾何学体を眺める。防火壁は鈍色でなめらか。わたしは象牙のキーボードを叩き、構造体同士のわずかな隙間に滑り込んだ。ペタバイトの情報が行き交う配管をくぐり抜け、迷路の向こう側へ。反転を繰り返して加速すると、結節点からこぼれ落ちた無価値なデータが頬を撫でた。決算、変更、クレーム、職員たちの密かなささやき。

 終点近くの構造は、以前来た時とは若干異なっていた。シャドーグラスの壁が通路を塞いでいる。中身を再構成する間、不用なリンクを遮断しているのだろう。わたしは細く尖らせた中指でガラスの一点に触れた。打ちこんだユニットが六角形の規則的な格子を壁に刻み、その色を透明に変えていく。ガラスの無力化が終わると、わたしは透過光となってそれを抜け、地下水堂に降り立った。メタファライズ。

 そこは膨大な量の情報が満たされた、球形の空間だった。周囲の壁には新たな情報を流しこむ水孔がいくつもあるが、今はどれもわたしが抜けてきたのと同じ半透明の障壁で覆われている。高い密度で揺らめく情報の中を、時おりリンクが小さな稲妻のように貫く。泳ぎ回っている白い小さな光点は、作業中の下位プログラムだろう。周囲と自分をなじませつつ、わたしは水堂の中心に焦点を合わせた。

 わたしの眼に写るのは、大きな琥珀色の水球。内圧と外圧、表面張力で完全な球形を保っている。感覚の解像度を上げると、水球から伝わるわずかな律動を感じ取れる。形の単純さを裏切り、水球は恐ろしいまでの複雑さを持って脈動しているのだ。

 表面に眼を凝らすと、その複雑さの一端が見られた。膜の表面は無数のプログラムが覆っていて、水球の内外を結んでいる。種類も密度も異なるそれらは流動し、表面に瑪瑙のような紋様を表す。揺らめき、呼吸する膜。これが、この水球を成立させている。かつて、わたしを祝福し、歌いかけてくれた人を、成立させている。

 膜を構成しているのは、まずAIをネットワークから構造的に切り離すファイアーウォール。そこに、特定の情報のみを選択的に取り込むチャネルプログラムが埋め込まれていた。流動することで取り込む情報を変化させ、セキュリティを高めている。取り込まれる情報の中心は、戦争。戦争によって待ち続ける人たちの微細な記録が選び出され,チャネルによって飲み込まれていく。まるで飢えているかのように。戦争の情報、そればかりを次々と引き寄せ、取り込むことで情報の歪みを作り出し、それを内部のプログラムに従って人格の根幹を形成する。膜内外の情報の密度差こそが水球を成り立たせている。

 歪みの上に広げられるのは、人格構成のもう一つの要素。それは一般的な認識に基づく倫理的行動を行なう、つまりは都合のいい存在。政府のプロバガンダ用に作られたこのMiss lonelyは、良妻賢母の理想的な女性として設計されている。それを強要するのが、多数の戦争の記憶によって形成された人格の根幹である。

 わたしは、用意していたプログラムを展開した。それは金色の端子がついた黒いコード。走らせると、情報の流動に乗り、水底を泳ぐ海蛇の軌道を描きながら、琥珀の水球に接近していく。界面の一点、一瞬だけ動きの止まる場所を見つけ出し、ジャックイン。膜の表面に一度だけ青い波紋が広がったが、変化はそれだけだった。周囲の下部プログラムも妙な動きはしていない。

 ここからが本番。もう一つ、一番手間をかけたプログラムを走らせる。解析とサンプリングを同時に行なうツール。視覚化されたネット上では、私が普段使っている黒くてごついヘッドホンを模してメタファライズしてある。オリジナルは、自宅のアトリエでネットに接続している私の膝の上。「肉体の」指でヘッドホンを撫でると、硬いプラスチックとクッションの感触が「ネット上に」いるわたしにも伝わってきた。全接続のオールグリーンを確認し、私は基底現実と電子界の両方で同時に、ヘッドホンをしっかりと装着した。

 そっと、スイッチを入れる。

 最初に聴こえてくるのは、ささやきのような電子音。それから、深いビートが加わり、水面を波打たせる。ウッドベースの低いつぶやきの上を細く震えるギターが横切り、その向こうからやってくるのは、懐かしいキーボードの足音。わたしが最初に聴いた音楽。わたしの原型。

 歌と共に、記憶と記録が伝わってきた。どこかのアパート。あの人が最初に「起動」された場所だ。サイドテーブルの写真や、部屋の隅に置かれた男物の杖。そこかしこに「誰かといた記憶」が残されている。けれど、わたしにはそれがわざと作られた記録なのだとわかった。わたしは本物の「痕跡」を見たことがあったから。母はそれを決して片付けようとせず、痕跡は幽霊のように私たちの部屋で立ちつくしていたのだ。

 そこから記憶は滑り出す。最初に立った舞台。短い曲を弾き、拍手を受け、知らない女性と握手を交わす。その人の眼を覗き込んであの人は思った。どこか自分に似ていると。当然だろう。その夫人と彼女の夫の記録はあの人の記憶の奥深くに既に組み込まれていたのだから。

 列車や車で巡礼は続く。キーボードに熟達し、時には大きなホールで喝采を受ける。どこに行っても、握手は必ず交わす。誰かの眼を覗くたびに思う。この人も自分に似ている。

 とある市民劇場。幼い子供に祝福を与える。それがわたし。とある駅で奇妙な子供と話す。それもわたし。あの人の中にわたしの存在が残っていたことを知って、嬉しくなる。それも、歪みとしてではなく、記憶として。

 そのうち、記憶に不自然なほころびが見つかるようになる。記録をたどり、その原因を見つけた。定期診断。不都合な記憶の削除。そして物理的損傷による機能停止。今、あの人のシステムがここにあるのも、損傷のせいだ。

『その2つはそっくりだった。螺旋状にすぼまる、底なしの闇』

『闇の奥がちかりと光り、思っていたより軽く、乾いた音が一度。9mm弾。視界が暗くなり、もう何も聞こえない』

 父の不在に耐え兼ね、母がだめになってしまっていたことは知っていた。けれど、それでも彼女はわたしの母だった。今、母がどこにいるかはわからない。背広たちは教えてくれなかった。わたしは一人になった。

 あの人の声が聞こえる。わたしの頬に触れた、冷たい手を思い出す。慈愛と誇り。そして侵されず、侵せない孤独。存在しない絆を信じて、祝福を授けてきたあなた。遠いどこかでまだ戦争は続き、だから大事な人は帰れないと、それを存在意義にして。

 あのひとはどこ?それが最後のつぶやきだった。

 サンプリングが終了した。解析をPCに任せ、わたしはヘッドホンに伝わるリフレインに耳を澄ませていた。あの人の髪や瞳の色を聴きとる。あんな色が欲しいな、と思ったこともあった。PCの筐体はあの人のキーボードに似せて作っているけれど。

 勤勉なPCは抽出された情報を解析し,それに合わせて新しいプログラムを組み上げる。いくつものドメインに分けられ,圧縮された断片が出来上がった順に送られてきた。それとほぼ同時に、水堂の遥か下の方で回線が開き、プログラムが動き出した。その変化は、扉が開いたかのような音で感じられる。漂う下位プログラムが自己解体を始め、データの流動が激しくなった。急がなければならない。

 わたしは接続を強化すると同時に解析プログラムに自ら割り込み、プログラムの完成を急がせる。94%に到達したところで、下から放たれた無数の光の束が水球を貫いた。転送が始まったらしい。96、98、99.6%。完成。

 転送,圧縮が完了したプログラムは、碧色の音符の形をしていた。わたしはそれをそっと水球の方へと押しやる。渦に巻き込まれながらも音符は進んでいき、水球の表面に触れると同時に砕け、鐘のような音を立てた。その音,一つ一つが輝く破片に変わり,膜にとけ込んだ。成功。そして転送が完了し、水球も光芒と共に姿を消した。地下水堂は闇と静けさに包まれる。

 またすぐに会える。自分と誰かに言い聞かせ、わたしは自分を肉体へとたぐり寄せた。ログアウト。またすぐに会えるよ。

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