第2話 ホール、演奏会

 …固く、背もたれのない椅子に座り、キーボードに向かい合っていた。機材は全て背広たちが用意したものだ。光沢のある樫の筐体は私のお気に入り。キーボードにも重い代用象牙を使っているから,一見すると昔の足踏みオルガンにも見える。でも、中身は最新型のシンセサイザー。

 スピーカーから最後の音が飛び立ち、小さなホールの中に散っていった。私がいる明るいステージから、入り口近くの暗がりまで。多分、あの暗がりにはいつものように背広たちが待機しているのだろう。そう思うと薄気味悪くもあったが、それよりも今は弾き終えた満足感の方が大きかった。達成感ではなく、手間をかけた植木がチャンと茂ったような,満足感。ちりちりとしたスポットライトの光が、うっすらと汗をかいた肌に心地いいよかった。ヘッドセットを外し、椅子から立ち上がって、客席に向かって一礼すると、しばらくして柔らかな拍手が押し寄せてきた。ありがとう、It’s my pleasure。

 最前列、右はじに控えていた女性が花束を抱えて舞台に上がってきた。ふくよかな顔にあふれるばかりの笑みを浮かべて。受け取った花束は冷たく、清冽な中に僅かな甘みの混じった、素敵な香りがした。握手を交わしたその女性の顔に浮かぶのは、誇りと、自信と、あとは羨望だろうか? 彼女は私の肩に手を回し、客席に向かって深みのあるアルトで語りかけた。

「みなさん。彼女を見てください。なんと魅力的なのでしょう!彼女を美しくしているのはなんでしょうか。待ち人を思う心に他なりません。彼女こそ、私たちのあるべき姿と、私は思います!」

 台本に書かれたような台詞だな、と私は思う。もしかしたら、彼女は背広たちと関係があるのかもしれない。けれど、何もこの雰囲気に水を差すこともないし、自分がほめられているのだから悪い気はしない。私はもう一度頭を下げ、客席の人々は拍手で応えてくれた。

 アルトの女性が舞台のはじに向かって何やら手招きをしている。そちらに顔を向けると、舞台のはじから、赤ちゃんを抱えた女性が上がってこようとしているところだった。スタイルがよく、髪はダークブロンドで長い。かなりの美人だ。けれど、表情に張りがなく、髪もしなやかさを失っている。すり切れたフィルム上で往年の名女優を見たような、そんなさびしさと痛々しさを感じさせるヒト。

 こちらはミセス・ハートマンよ、とアルトの女性に紹介され、私は彼女と握手を交わす。アルトの女性の、パン生地のような温かな手とは違う,軽く乾いた冷たい手だった。ハートマン夫人は疲れた笑みを浮かべている。休んでいい、と言われたら、すぐに倒れ込んでそのまま起き上がってこないのではないだろうか。

「初めまして。ハートマンです。お目にかかれて光栄ですわ」

「光栄だなんて、そんな」

「あなたの演奏が配信されるのを、毎回楽しみにしています。この子は、」

 と、彼女は胸に抱く赤ちゃんの髪を撫でた。

「生まれる前からあなたの曲を聴いていたんですよ」

 彼女は戦争が始まってから子供を産み、今まで育ててきたのだ。だれにもその苦労を預けることなく。それを理解した時、夫人がこれまで耐えてきた苦労が、私に押し寄せてきた。

 身重のために、決められた仕事ができず周囲に疎まれた記憶。その苦痛は、周りの人々が自分と同様に苦しんでいることを知っているために、全て自分が引き取らなければならない。娘の誕生の喜びもつかの間、食料が足りずに栄養失調に陥る。母乳が僅かしか出なかったときに感じた恐怖。何も理解していない娘に対する苛立ち。それを抱いてしまった自分に対する自己嫌悪。

 私は、それら全ての記録が私の中に見いだされたことに驚いた。無数に張り巡らされたリンクが閃光のように展開し、次々と新たな記録を引きずり出す。記録一つ一つにしみ込んだ感情をぶつけられるように感じながら、わたしは別の視点でこの事実を冷静に受け止めていた。これほどの情報が私の中に圧縮されて存在していたとは。

 そして、全ての核になるのは、どうしようもない、揺るがしようのない事実。不在。どこを探しても、あの人はここにいない。不在。遠い場所で、あの戦争がまだ続くから。まだ、あの人は帰らない。不在。たった一つの単語から結晶のように組み上げられたリンクのフラクタルが次第に私を侵食していく。不在。

 もう無理。そう思った一瞬全てが一度ブラックアウトした。そして暗闇の中、フィードバックの力強い波がフラクタルに覆いかぶさっていくのを感じた。白いフラクタルは波を受けてバラバラに解体されていく。レースがほどかれて糸巻きに巻き取られていくように、全ての情報が再び収斂し、秩序を取り戻した。そして、それと入れ違いに、ゆっくりと視覚が蘇ってきた。

 まず、視界に入ったのは眼を見開き、混乱しているハートマン夫人だった。次に、私を支えるアシュレイ夫人(アルトの女性の名前だ。私は彼女の名前をたった今記憶から拾い上げたようだ)の力強い腕を感じる。足の感覚が戻り、私はなんとか姿勢を立て直した。

 ハートマン夫人の視線が私の頬に注がれている。いぶかしげにも見える。そっと頬を手の甲でこすると、冷たい涙が流れていた。思わず笑ってしまう。よくできた体だ。

 私はアシュレイ夫人に礼を言って立ち上がると、ハートマン夫人に歩み寄った。彼女の眼を見ながら、胸に抱く赤ちゃんにそっと手を伸ばす。夫人は少し戸惑ったが、赤ちゃんを手渡してくれた。胸に抱いたその子は母親にそっくりで、けれど驚くほどに軽かった。

「この子に祝福を」

 まるで司祭のような言葉がついて出た。

「この子はあなたの誇りです。あなたの大切な人も、きっとそう思ってくれますよ」

 私の言葉が正しかったどうかはわからない。けれど、ハートマン夫人は言葉を聞くと同時に涙をあふれさせ、声を出さずに泣き始めた。あの涙は暖かそうだな、とぼんやり思った。脳裏にはっきりと映ったフラクタルの記憶にももやがかかりはじめている。

 観客席から拍手が打ち寄せてきた。アシュレイ夫人がそれをあおるように、腕を振り回している。強くなったり、弱くなったり、拍手が続く。それに驚いたのだろうか、腕に抱いていた赤ちゃんが閉じていた眼を開いた。揺らめく碧色。いつか見た。拍手の音は次第に重なり合い、溶けあって柔らかに打ち寄せる。それは次第に波の音へと変わっていく。寄せてはひき…


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