ポラック氏の肖像

さいとし

第1話 ポラック氏の肖像

 いつのころからか、街角のカフェ「グリューンダーグ」に男が一人通ってくるようになった。年は四十前後で背が低く、どこででも見かける平凡な公務員風の格好をしている男。彼はいつも窓際の同じ席に座り、コーヒーをすすりながら新聞を眺めていた。新聞を読み終わると鞄から分厚い本を取り出すか、カフェ備え付けの本棚から適当な本を引っぱってくる。男はあまりに平凡で、誰も彼に注意を払わなかった。常連が一人増えただけ。

 男は無口だったが、感じが悪いわけではなかった。やがて手にしていた本がきっかけで、彼は文士たちの輪の中に迎え入れられた。男は仲間たちに、ポラックと名乗った。エルンスト、ポラック。取り立てて気にするような名前ではない。

 ポラック氏は素晴らしい記憶力の持ち主であり、鋭い批評眼の持ち主だった。技巧を凝らした文を読み解き、それが指し示すところを的確に言い当ててみせた。やや理屈に偏りすぎるきらいがあったが、煙たがる人間はいなかった。彼は友人たちの議論や新しい小説への提言に耳を傾け、持ち寄られた新作について批評を述べた。ポラック氏の控えめな発言からいくつもの作品が生まれ、彼が評価した作家たちがいつしか後世に残る作品を書き上げた。けれど、本人は一本の短編も書くことはなかった。

 こんなこともあった。

「君を小説の登場人物に使いたいんだが」

「ん、かまわんよ。どんな作品だい」

「城の話、かな? 君をある役人のモデルにしたい」

「そうかい。期待してるよ。フランツ」

 戦争は過ぎ去っていたが、誰もが不安を胸に抱いていた。そんな時代の中でも、ポラック氏は変わらなかった。毎日カフェを訪れ、同じ席で同じように新聞と本を読む。十年経っても、二十年経っても、その姿はまるで変わることがなかった。ほとんどの人は気にもとめなかったが、次第に不審に思うようになった友人もいた。しかし、二度目の戦争が、全てをわやにした。

 世界中で弾丸と悲鳴が飛び交う、長い六年。それに続く、混乱と喪失の日々。友人の多くが去っても、ポラック氏は同じ姿のままでカフェに姿を現した。年は四十前後、背の低い公務員風の男。ポラック氏はいつもの席から、道を横切る戦車や瓦礫に変わっていく街並みを眺めていた。ライフルの音、様々な国の言葉でかわされる怒号を聞いていた。街の路地が闇市で埋め尽くされた時も、ポラック氏だけはいつもと同じ服装で現れ、いつもと同じコーヒーを注文し、いつもと同じ値段を払っていた。

 十数年が過ぎ、街がふさわしい姿をようやく取り戻した頃。「グリューンダーグ」で火事が起きた。強盗か、事故か、理由はわからない。火勢は強く、逃げ遅れた店主の家族が中に取り残されていた。消防隊がなかなか到着せず、人々が手をこまねいていた時、一度帰ったはずのポラック氏がふらっと現れた。相変わらず平凡ないでたちの彼は燃えさかる「グリューンダーグ」を眺め、そして落ち着いた足取りで炎に包まれた店の中へと歩いていった。いつもそうしているように。

 火はしばらくして消し止められ、店主家族はいつの間にか店内から救出されていた。けれど、その日以来ポラック氏がカフェに現れることはなくなった。

 さらに数十年が過ぎたある日、再建された「グリューンダーグ」に二人の男が現れた。片方が店主に言った。

「ポラック氏はいるかね?」

 店主は黙って二人を店の奥の一室に通した。窓際にはベッドが置いてあり、そこに横たわったポラック氏は、店主の孫娘がチャペックの戯曲を朗読するのを聞いていた。顔の半分が溶けて金属の頭蓋が覗き、右腕は切断されていた。二人の男はその枕元に立ち、彼らが「二百年後に」送り出したプローブに声をかけた。

「航時装置が故障した君を見つけるのには、ずいぶんと苦労した。過去の文化を観察するため、ひどく平凡に設計したことが裏目に出た。しかし今、目的は達せられるだろう」

 ポラック氏はにっこりと笑った。

「私は多くの文士たちと語り合いましたが、私自身が物語を語ることはできなかった。でも、今ならできます。私の書いた小説を聞いてもらえますか」

 男たちは驚いた。ポラック氏に創作の機能を与えた覚えはなかったからだ。

 店主の孫娘はポラック氏の枕元から一冊の本を取り上げ、朗読を始めた。どんな記録にも残っていなかった物語で、男たちはそれを黙って聞いていた。そして数時間が経ち、物語がちょうど終わったとき、ポラック氏はゆっくりと機能を停止した。

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ポラック氏の肖像 さいとし @Cythocy

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