台所

 僕が真剣に質問しているってのに、お母さんは鍋を覗き込んだままで、顔を一切上げなかった。

「それがどうしたの」

 何でもないことのように言われて、僕は逆上した。

「お母さん知ってたの」

 ここで力任せに怒ったら、何か恥ずかしい気がして、声を抑えて訊ね返した。

「当たり前でしょ。ていうか、あんた、今まで気付かなかったの?」

 ここにきてお母さんはこちらを振り返った。僕はとっさに顔をそらした。どうしてお母さんってやつはこう、こっちが真剣にやりあいたい時は鍋の中なんて見ていて、こっちが見てほしくないタイミングになってから、顔を向けてくるんだろう。やりにくくてしかたない。

「だって、おかしいでしょ。僕の方が年下なのに、おじさんなんてさ」

 言っていてなんて僕はばかなんだろうと思えてもくる。だけど、胸に残るしこりが大きくて、吐き出さずにはいられなかった。だって、産まれて赤ちゃんの時点からおじさんだなんて、そんなの何か不公平っていうか、不幸っていうか。

「なんで、僕が生まれるのが、陽翔兄ちゃんを産まれた後なのさ」

 帰り道で家計図の授業内容を思い返しながら、考えついたことがそれだった。お母さんは、夫の兄の子どもよりも、出産が遅かったということだ。

 僕の質問を聞いたお母さんが一瞬、表情をなくしたと思ったら、顔をこっちに向けたまま火を止めた。もう魚は煮えたのだろうか。

 すると、今度は明らかに怒った表情になった。

「あんた、喧嘩売ってる? 悪かったわね。コンキが遅くて」

「コンキ?」

「正康おじさんと、鞠絵ちゃんは素敵な人たちだから若いうちに結婚できたけど、お母さんはそうじゃなかったから、三十過ぎてからやっとお父さんに貰ってもらえたのよ。悪かったわね。売れ残るような女で。お父さんだって、兄の正康おじさんは孫までいるのに、自分はこれからやっと自分の子どもかっていじけてたけど、それでも私たちはあんたを産んで育てたのよ。感謝してほしいくらいだわ」

 急にまくし立て始めたお母さんに、僕はぽかーんとしてしまった。話を聞いているうちにコンキが婚期のことだとやっと理解する。だけどその他は喉詰まりしたみたいになって情報がうまく入ってこず、とっさに言い返せなかった。

「仕方ないじゃない。縁がなくて授かるのが遅くなったんだから。でもそんなことであんたを諦めることはできなかったのよ、私もお父さんも。悪阻もひどかったし、死ぬほど出産も辛くて、出てきたらこいつ見てろよとか思ったけど、顔見たらもう」

 圧倒されまくっていたら、何故かお母さんはわなわなして、涙ぐみ始めた。

「もうっ! せっかくおめかししたのに」

 呟くような声で、ごめんととっさに言ったけど、その声は呼び鈴にかき消された。

 お母さんは涙を抑えるように上を手短に見上げるだけして、そんな状態でも、はあい、と言いながら玄関まで出て行った。たぶん久田さんが来たんだ。

 僕はぼんやりしてしまった。出迎えるべきか一瞬、迷ったけど、結局行かなかった。

 玄関から、どうしたの、と聞こえてきた。たぶん、お母さんが涙ぐんでいたのに、気付いたんだと思う。気付かないような男だったらだめだと後から思う。しかしそれ以上に、声に驚いた。すごく、若い声に聞こえた。

 久田さんは、お母さんの新しい恋人だ。たぶん、再婚する。お父さんが死んでからもう七年経つ。小学校の卒業式が終わった後、お母さんから、結婚を考えている人がいると告げられた。お母さんももう四十半ばだし、再婚するなんて思わなかったから、大いに驚かされた。

 久田さんはなかなか忙しい人らしく、やっと今、僕と初対面となる。僕が反対したらどうなるだろう。やっぱり、諦めるだろうか。家族が増えることや、苗字が変わってしまうこと自体に抵抗はあまりないし、好きにすればいいと思う。だけどやっぱり、どんな人でもいいってわけじゃない。変な奴だったり、今までの平穏な生活を壊すような奴だったりしたら、やっぱり困る。

 どんな奴だろうと思いながら待ち構える。陽翔兄ちゃんのことで混乱している最中だから、まだ心の準備ができているか分からなかったけど、久田さんはお母さんに招かれて、あっさりに目の前に現れてしまった。

 ――子ども?

 久田さんは僕を見るや否や、ぱあっと子どもみたいな笑顔になり、何か言って強い握手を求めた。求められるがまま手を差し出す。何を言われたかきちんと聞いてなかったけど、返事だけして応じた。視線は、がっつり下だ。

 久田さんは、コメントに困るくらい、チビだった。つむじの高さが、僕の肩にも及ばない。百六十、ないかもしれない。お母さんより、ほんのちょっと小さい。

「えっと、いくつですか?」

 折を見て、つい訊いてしまった。

「三十二だよ」

 計算する。十三歳差だ。お母さん。それって、どうなのさ。

 だけど、久田さんはとっても小さくて童顔なだけで、小さいなりにぱりっとスーツを着こなしていた(学生服にも見えたけど)し、それ以外はしっかりしているようにも見えた。

 大人っぽさを意識した格好なんて、しなきゃ良かった。逆に気を揉んでしまう。さすがに顔を見れば分かるだろうけど、例えば僕と久田さんがこの格好で並んでいる後ろ姿を見たら、人はどちらが年上に見るだろう。後ろにいるお母さんを見るけど、強張った笑顔だ。それを見て初めて、僕は後悔をする。

 そんなつもりは無かったとはいえ、こんな日に死んだ父のことを思い出させるようなことを言ってしまった。ただでさえ、僕と久田さんがうまくいくか心配な、たぶんお母さんが、いちばん気が気でない日だ。僕も、そしてきっと久田さんも緊張しているけど、きっとお母さんはその比じゃないと思う。

 挨拶が済んだところで、スマホがまたぶんぶん鳴った。切ろうか迷ったけど、出ていいと久田さんが促し、母も頷いたので、僕は勝手に急かされたような気持ちになり、相手も確認せずに電話に出た。

「もしもし」

「あっ、お前! 家に帰ったんだって? 何で何にも言わないで帰んだよ! 帰るなら、ひと言言ってけよ。電話も出ないし」

 陽翔兄ちゃんだった。その気安い声は、ジューシュクフ相手とは思えないものだった。陽翔兄ちゃんとは、学校が近いし、部活が終わる時間もほとんど変わらないので、一緒に帰ることにしている。家がある地域からは、陽翔兄ちゃんの学校の方がちょっと遠いから、たいてい僕は中学の校門の前で、陽翔兄ちゃんを待って合流してから、帰っている。

 僕は今日、陽翔兄ちゃんとの本当の関係性をようやく知り、それでいて兄と弟みたいな接し方をされてきていたこと、誰もそれを説明してくれていなかったことがショックで、それを待たずに家まで飛んで帰ってきてしまった。帰る途中、陽翔兄ちゃんは電話をかけてきていたようだ。さっきのお母さんの感じだと、中学で僕が待っていないし電話も出ないと、お母さんにも電話していたんだと思う。

 さっきのお母さんに圧倒されまくり、久田さんの容貌に驚かされ、その上、その二人がほとんど目の前にいる状況となると、僕はもう拗ねることは許されない。

「ごめん。本当にごめん。わけは明日、話させて。いま、お客さん来てるし」

 何故かとっさにお客さんと告げてしまったが、そのお客さんの正体は、朝、陽翔兄ちゃんには伝えてある。

 だからなのか、いつもならしつこい性格の陽翔兄ちゃんもすぐに空気を読み、引いた。

「あっ……そうかよ。じゃあ明日、しっかり尋問させてもらうからな」

 わざわざ尋問と言ってくるあたり、陽翔兄ちゃんらしい。お母さんがさっき、後で連絡させると言っていて、なおかつ久田さんが来ることも知っているはずなのに、それでもなお、電話をかけてくるところが、本当にもう兄ちゃんらしかった。ただの親戚である僕にすらここまでのしつこさを見せるのだから、兄ちゃんの彼女はきっと大変だろうなと場違いに考える。明日の朝は面倒なことになりそうだ。陽翔兄ちゃんとは、朝の登校も一緒だ。

「お友だち?」

 電話を切ると、久田さんが問いかけた。

「甥っ子です」

 まだ煮え切らないところがある僕はそう答えた。久田さんの背後で、お母さんがちょっと怒っていた。陽翔兄ちゃんのでかい声は、電話から漏れていたし、今のところ僕の甥っ子は陽翔兄ちゃんしかいない。

「え、甥っ子? そうなの?」

 陽翔兄ちゃんの威圧的な口調、若しくは物言いが聞こえていたのだろう。久田さんが目を丸くしていた。そもそも、僕のこの年齢で甥っ子がいることだって、そんなに普通のことじゃないのだ。

しかし、そのあまりに幼く見える表情に、やはり混乱する。この人、本当に三十二?

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