SectionⅠ【Ⅰ+Ⅴ】

【食堂】


 壁に刻んだ正の字が、憂鬱な面持ちで横に並んでいる。


 僕はこの数か月、ヘイドに与えられたトレーニングメニューをこなすのが常だった。食事の量も日に日に増してきている。その成果だろうか、以前のような貧弱な体躯は影を失い、確かにたくましいものに置き換わろうとしていた。

 ―しかしそれも僕の主観的な見解に過ぎず、他人の目から見ればさほど大差は無いのかもしれない。


 リノリウムに材質の滑らかな床に汗が滴り落ちる。三時間ほど前から酷使し続けている筋肉がブチブチと悲鳴をあげた。


 ゴォー…ン…


 酸素不足で朦朧もうろうとする脳を醒ましたのは、正午を示す時計の鐘だった。深みのある落ち着き払った音が部屋中に飽和ほうわする。その鐘の音にスイッチを切られたように、身体から力が抜けていく。そのまま床に倒れ込むと、いわく言い難い達成感がこの身を包む。僕は辛く厳しい訓練の中でこの瞬間だけは気に入っていた。酸素を胸いっぱいに吸い込み血液に溶かすと、鉛のようだった手足から徐々に重みが取り払われていくのだ。心地良い、うっとりするような感覚を全身で味わい尽くした。


 暫時ざんじの休憩の後、快活な足音に気付き、僕は音の出所に留意する。彼は相も変わらず能面のような笑顔を顔に貼り付けていた。ヘイドだ。


「どうしました異くん、昼食の時間ですよ、さぁ起きて。」


 言いながら僕の腹を蹴りあげる。いつものように鳩尾みぞおちに照準を定めた秀逸な蹴りは、本気では無いにしろ疲労しきった身体に苛烈かれつな衝撃を与えた。呆れるほど足癖の悪いエルフだ。僕はむせながらヘイドをめる。


「おお怖い、冗談ですよ。」


 ヘイドは悪戯いたずらっぽく舌を出して見せた。


「…面白い冗談です。」


 皮肉を吐き捨てながら覚束ない足で立ち上がると、ヘイドはくるりと僕に背を向けた。先に歩を進めたヘイドの後を追うように食堂へと向かい、入口の門をくぐる。天上も高く、だだっ広い部屋であるにもかかわらず、芳醇ほうじゅんな香りは部屋中にあまねく満ちていた。肉をじっくりとローストする匂いや、よく煮込んだミネストローネの、酸味の利いた濃厚な香り、チーズを贅沢に絡めたリゾットから沸き立つ艶やかな湯気…どれも長時間ものを入れていない、からっぽの胃袋を大いに刺激する。限りなく湧き出てくる生唾を飲み下し、ヘイドに勧められた席についた。続いてヘイドも僕の目の前の席に座り、二人は向かい合う形となった。


 ヘイドがクリーム色のテーブルナプキンを優雅な動きで膝にかけ、口を開く。


「さて、食事が来るまで何かお話でもしましょうか。」


「僕と貴方で何を語ることがあるんです。」


 ヘイドは上品にフフと笑った後、言葉を続けた。


「そうつんけんしないで下さいよ。先程蹴りを入れたのはただの御茶目心なんですから。」


「……」


 無言で反論する僕をヘイドは表情一つ変えずに眺めていた。僕はヘイドに見られるのがあまり好きではない。その四つ揃ったエメラルドグリーンの瞳を向けられると嫌に不安定になるのだ。ヘイドの瞳に限っては癒しの色であるはずの緑色がどこまでも冷めたものに見えた。


「…未だ僕を殺そうとお考えで?」


「フフフ、だとしたらどうするのです。」


 僕は一層顔をしかめて見せた。確信した。ヘイドはまだ僕を殺すつもりでいる。しかしヘイドはそんな僕の心情を読み取ったのか、「安心して下さい」と続けた。


「殺すにしても、当分先の話です。を達成するまで貴方は殺せませんよ。」


 ヘイドはそう言いながらアペリティフ食前酒のキール・ロワイヤルが注がれたグラスをくるくると回し、短く口をつけた。


『我々の目的』…前回の訓練でシムに教わった『暗号』を解くことを言っているのかもしれない。各大陸に散りばめられた謎の『暗号』。それを解いた大陸のUCだけが、全てを知ることができると言われている。


 隕石やUSの正体、UC達の今後の行く末、そしてもしかすると、父さんのことも…。父さんが今、生きているのか、何処にいるのか、全く見当はつかないが、USと父さんは何かつながりがあると僕は確信していた。UCPの開発者であり、未だ死亡が確認されていない事実。根拠は薄いが、父さんに関わる情報が少なくとも得られる気がした。


「小難しい顔をしていますね。」


 僕の思考をヘイドの一言が遮った。


「ほら、食事の用意が出来たようですよ。いただきましょう。」


 いつのまにか目の前には食材が綺麗に盛り付けられた、丸い皿が並べられていた。

 僕は一時潜考するのを止め、腹を満たすことに集中する。

 前菜のカルパッチョにパッションフルーツのドレッシングを絡め口へ運ぶと、瑞々みずみずしい葉野菜はシャキッという爽快な音を立て、前歯に噛みつぶされた。



例のごとく、これまでより一段と量の多くなった食事をむりやり胃の中に納め、デザートのソルベを舌の上でゆっくりと溶かした。食事の回数を重ねるごとに調理したシェフの腕が確かなことを思い知らされる。向かいの席では、ヘイドが気品のある動作で口を拭っていた。


「本日も見事なお料理でしたね。さすが、が手掛けただけはあります。」


不意に右手様という言葉が耳に入り、僕は顔をあげた。


「右手様?」


その通り名は前にも耳にしたことがあった。ここに来てまもない頃、J.に忠告を受けた時だ。


「ああ、異君はまだお会いになっていないんですね。」


…そう聞いたことはあります。」


「ええ、同一人物ですよ。この『箱』の中で二番めの戦闘力を有すると言われています。そのためSecondセカンドとも。無口ですが好戦的な方です。」


「はあ…何故そんな実力者がシェフを?」


その問いに、ヘイドは少し眉を持ち上げて肩をすくめた。


「さあ。多才な方でして。妙々たる手つきで大抵のことはこなしてしまわれますよ。」


「…へえ。」


ヘイドはフフと鼻を鳴らした後、何かを思い出したように「そうでした」と続けた。片耳に付けたガーネットの耳飾りがキラリとひかめく。


「右手様といえば、そろそろ貴方に戦闘術を教授するよう急き立てられたんですよ。」


「戦闘術…ですか。」


とうとう本腰を入れて戦闘訓練に打ち込めるというわけだ。何故『右手様』が急かすのかが多少引っかかるが、また後ほど尋ねる機会があるだろう。今はそれよりも戦闘訓練の内容を把握したい。


「どんな訓練になるんでしょうか」


「焦らずともこの後、訓練場で教えますよ。さあ行きましょう。」


そう言って席を立ったヘイドにならい、僕も静かに食堂を後にした。

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