第一夜 しとどの晴天 中編
◐
……いやあ、たいした話じゃあないんすよ。ほんとに。
今思ったら、不思議だなあってもんで。
これ、実はつい先週のことなんです。オチもつかない進行形のハナシ。
おれ、ほら、見てのとおりな感じなんです。昔から、わりとヤンチャしてさあ。今も、まあ、いちおう働いてはいますけど。……はあ、いや、何の自慢にもなりません。給料安いですし。
おれ休みが不定期なんで、週に一日、休日の前日だけ、日を跨いで朝までハメを外して遊ぶ日って決めてるんです。だいたいが平日ですね。その日は木曜でした。
駅前の……エーッと。丸いポストがあるところ、知ってます? ……いや、本当にあるんですって。ポストのくせに丸いやつがあるんです。近くに行ったら、
……ほら、ここらってけっこう開発が進みましたけど、まだ駅前少し外れると、
おれの言ってる丸ポストのらへんも、踏切を境にしてそんな感じなんすよ。住宅街があって、家との間に畑やビニールハウスがある。その踏切渡って、すぐのところに、用水路みたいなコンクリートでがちがちに固められた川と、石の橋が架かってるんです。おれの家、その橋がベランダから見下ろせるアパートなんですよ。
その日は昼前に仕事が終わったんで、飯食って、布団でも干すか~って、ベランダに出たんです。
そしたら橋が見えるじゃないですか。そこに女が立ってたんですよ。
夏ですよ。炎天下の昼。道歩くと、アスファルトの上にユラユラ
真っ白の天使の輪ができてる、艶々の黒い髪を見下ろしてさぁ、おれ、帽子も被んないで、よく立ってられんなあって。
しばらく見てたら、その女、フッと顔を上げたんです。
……可愛かったなあ。ふわっと白いワンピースの裾がなびいてさ。照り返しで、肌が真っ白。そこに真っ黒いおっきな瞳があって。
そんでおれ、冷蔵庫に入ってたスポーツドリンク持って、下に降りてったんですよ。
……ま、ちょっとした下心っすわ。
これで近くで見たらブスだったらヤだなって、頭の隅っこでは考えてたんすけど、「いや、きっと可愛いぞ! 」って期待しちゃう方が大きくて。
待ち合わせっぽかったんで、いなくなっていたらヤダなって、駆け足っすわ。
……行くとね、確かにそこに人影があるんです。
欄干に肘ついて、真っ黒い後ろ姿が一人だけ。
近づくとそれ、男なんすよね。
……拍子抜けですよ。
おれ、男ってわかったとたんテンションめっちゃ下がっちゃって、「暑いなかで何してんだろ」って。
帰ろうって戻ろうとしたとき、ちょっと気づいたんです。
その男、このクソ暑い中で真っ黒い服着てるんですよ。手首通り過ぎて、親指の付け根までスッポリの長い袖の、黒のセーター。
いや、恰好はおかしかったけど、
なんか変な奴がいるなあって、おれ、ちょっとだけジッと見ちゃったんですね。
そしたらそいつ、振り向きやがった。……振り向いた顔、どんなだったと思います?
……真っ白でさぁ、墨で引いた黒い目と、赤い唇でした。
能面、っていうんですかね。オカメみたいな面。
材料は木か何かなんでしょうけど、濡れた石みたいな感じで、今にも水が滴りそうな……なんか、ぬるっと
その能面がさぁ、ニヤッて、笑ったんですよ。
びっくりして固まっていたら、「ふふふ……」って今度は女の声がして。
……そんまんま、橋渡ってどっかに行きました。
おれ、しばらく呆然としてたんですけど、だんだんマジで暑くなってきて……いや、暑いのを思い出したんですね。
そんで、気づいたんです。
おれ、身長が壱六五センチあるんですけど、男にしちゃあ低いでしょ? あの橋の欄干に、女みたいに肘つこうとすると、できないんすよ。首のあたりに、欄干が来るから。
……あの女、どんだけ大きかったんでしょう?
そう……それでね、まだあるんです。ゾオッとしたこと。
……おれ、あれから夢を見たんですよ。
おれは、あの橋を上から見てて、橋にあの女が立ってる。それだけの夢。
あの時と違うのは、時間が昼じゃあなくって、夜だってことです。グワッグワッグワッて……ほら、田んぼが近いから、蛙が鳴いてるのや、部屋が蒸し暑いのまで、リアルで。
……橋の脇に、街灯があるんです。それがスポットライトみたいに女を照らしてるから、よく見えた。
女は、欄干に肘をついて、おれに背中を向けています。艶々した黒髪に、街灯の青白い光で輪が出来てる。
いつのまにか、おれが見下ろしているのは、深夜の住宅街じゃあ無くなっています。そこは緑の草が茂っている川沿いの田舎道で、あの橋がかかっている川も、魚がいそうな小川です。橋の向こうに
風がね、えらく冷えてるんです。……いや、ただ寒いだけじゃあなくって、澄んでるっていうんですかね。
おれは恋人にするように、女に向かって手を振っています。オーイ、オーイって。
女は振り向かないで、ジッと川を眺めています。
おれはだんだん不安になって、怒鳴るみたいに叫ぶんです……「まだ行くな」とか、「おれもすぐに行く」とか、思ってもないことを。
まるでおれの体を、着ぐるみみたいに誰かが着ているような感覚でした。おれは、もう怖くって……だって、あんな女のところなんて、行きたくないんですから。
汗だくになって、のどがヒリヒリしてくるころ、女は、ゆっくりと振り向きました。
……それがまた、やたらと可愛いんですよ。
夢の中のおれは、あの女にゾッコンなんです。
おれは、ぴたっと黙って、ジイッと女を見ます。女の名前を呼ばなきゃあいけない……そう直感して、おれの体は口を開くんですが、なんにも出てこない。
そりゃそうですよね。だっておれは、女の名前なんて知らないんですから。
おれは困ってしまって、つい尋ねました。
「あんた、なんていうの」
すると女は、「さあ」って、首をかしげるんです。
「さあ……なんやったかなぁ? 忘れてしまいました。マツカゼとでも、マゴジロウとでも、お好きなように呼んでくださいまし……」
その声は、蛙や虫の音の後ろから割り込んで、ハッキリとおれの耳に届きました。一言一言を吐くたびにかかる息と、そのにおいまで感じました。
おれが覚えてるのは、ここまでです。そのあとはモヤモヤしていて、どうにも情景が曖昧で。
……でも、おれはけっきょく、夢の中で女の名前を呼んだンでしょう。
だってあの女、ときどきあの橋の脇で、おれの部屋のほうを見てるんですよ。
まるで、待っているみたいに。だからなるべく、ベランダから顔は出さないようにしてるんスよね。
……それにしても変な名前だなあ。夢の中のおれは、何の疑問も持たなかったんですかね。
マツカゼに、マゴジロウですよ? ジロウって、男につける名前ですよね?
◐
おうおう、兄ちゃんたち邪魔するよ。面白い話をしているねえ。
オイちゃんには分かるよぉ。ウンウン……え? 何がって?
その、マゴジローっていう女の正体さぁ。
孫次郎ってのは、能面の名前さぁ。孫次郎ってのは面を打った作者のことでね、そいつが嫁を偲んで打ったから、孫次郎っていうのさ。別名がオモカゲっていうんだから、ちょっと物語を感じるだろう?
女の面っていうと、いくつもあるんだがね。孫次郎は、その中でもとくに美女に使うやつでさ。花のオトメって感じじゃあなくってね、色っぽいオトナのオネイサン、って年頃の面さね。
それでよう、こいつを使う能面の演目の一つにだね、松風というものがあるんだよ。
……そ、松風。松風だねえ。
これがねぇ、姉妹の女幽霊の話なのさ。姉が松風、妹が村雨という。舞台になるのは夏の終わり、秋にかかった寂しい海辺……海女の姉妹の悲しい恋のお話なのよぉ。
やあ、粋なお化けじゃあないか。
いなくなった妻を
いなくなった男を恋しがる女幽霊……。
いやあ、オイちゃんもそのお化けに会ってみたかったなあ。素敵な出会いをしたねえ。
……え? ちっともステキなんかじゃあ無いって?
そんなこと言うと、もったいないよ。世の中にはねえ、怪談らしきものにチットも出会いのない人だっているんだから。
オイちゃんはねえ~、いわゆるレイ感ってやつでねえ。そのかわりか昔っから勘だけは良くって、変な夢を見るんだよ。
最初の夢は、よおく覚えているもんだなあ。
夏の昼間だよ。おいらは五歳だった。これでも近畿の、おおきな
そしたら、どんな夢を見たと思う?
そこは知らない家なのさ。狭苦しいアパートみたいな八畳一間で、台所がすぐそこって部屋。縁側なんて無いし、黒いランドセルがほっぽってあって、窓の外ではプピ~ッて豆腐屋のラッパ。
テレビでさ、お笑い芸人の出井ちゃんって知らないかい? そいつがバイクで跳ねられたっていう、ニュース番組を見てんのさ。そのテレビを背景に、髪が三十センチはボウボウ伸びたうちの母ちゃんがさ、ご飯よそいながら言うんだね。
「明日は長靴履いてってね。靴下はスキー用の置いとくよ」
夢の中のオイちゃんはね、茶碗をもらいながら、頭の半分で思うのさ。
「ああ、なるほどなあ。……これは夢だぞ。いいか、俺。これは夢だからな……」
そこで、パッと目が覚めた。
フホホ。意味が分からんって顔してる。
オイちゃんも、長いことワカランかった。でもねえ、八つのときに親父がいなくなってさあ、縁側のある家から八畳一間のアパートに引っ越しちゃった。
あの
その年の冬、二月なのにやけに雪が降ってさぁ、十年ぶりの降雪よ。夕飯どきに、お笑い芸人がバイクでスリップしたっていうニュースが流れて、母ちゃんが言うのさ。
「明日は長靴履いてってね。靴下はスキー用の置いとくよ」って。
その瞬間を、なんて言ったらいいのかしらねぇ。
脳みそが二つあるみたい、っていったらいいのかねぇ……。
過去のおいらが、今のおいらの目ん玉を覗き見てんのさ。それで、頭が二つ、同じ景色を見て、てんでばらばらに考えてる。
予知夢なんて知らない頭と、おいらはこれを見たことがあるぞ! っていう頭がある。
おいらは思う。
「ああ、なるほどなあ」それで覗き見ている自分に向かって、こう考える。「……これは夢だぞ。いいか、俺。これは夢だからな……」
……分かるかい?
おっ、信じてないね?
ソンじゃあヒトツ、予言したげるよぉ。
……あの茶髪のアルバイトのお姉ちゃん。あのお姉ちゃんが、入口の戸の前を通り過ぎる。そうすると、二人組のカップルがやってくる。男は金髪で、
男が言うよ。「ボックス開いてますかぁ」
店員さんがこう返す。「本日のラストオーダーは終わってしまいました」
さあ、いつかな? でも、今日だと思うんだよね。夢では、オイちゃんの正面に兄ちゃんたちが、今の、そう! オンナジその顔して座っていたからさあ。
……おや、言った先からだ。
どうだい? 本当だったろう。
……いやいや、警戒せんでくれよ。
いやあ~、オイちゃんの知り合いの知り合いがだねえ、どうやらその女幽霊を探してンのさぁ。実を言うと、それで話しかけたのさ。
ホントウだって。神に誓うよ。
……フウン。信じない。
じゃあさあ、騙されたと思って、この番号に電話だけかけとくれよ。電話一本で事が解決するんなら、安いもんじゃない。
電話の相手は、ヲツゴ、という親父だよ。でも、まず出ないだろうから、留守電に入れときゃあいい。
「モシモシ、うちに、オモカゲがいるんですが……」ってさ。
住所? いらないよ。あんたの電話番号も、言わなくっていい。ぶっそうなご時世だ。言いたくないだろう? 電話も公衆電話でいいからさ。
「オモカゲがうちに出ます」これだけでいい。
いやあ、そうは言っても、あんたは掛けるだろうねぇ。だって、夢で見たからね。今夜にでも掛けるさあ。
なんでって?
だって兄ちゃん、話しちゃったじゃない。
怪談はねえ、呼ぶと寄ってくるんだよぉ。おっと、これは予言じゃあないからね。そういうもんだって知っているだけ。
じゃあ、伝えたからね。
また会いまショ。ンフフ……これは予言だからね。
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