第一夜 しとどの晴天 後編

 ◐


 あれ! この前の! 偶然じゃないっすか。

 ああ……あの話……。実はあれから、あの橋の前のアパートは引っ越しまして。

 ……はあ。いや、スッキリ片付いたんですよ、あの件は。

 あっ、あの胡散臭うさんくさいオヤジの電話ですか?

 ……ウーン。じつはねえ。けっきょく掛けたんですよ。掛けてからは、スッポーンと解決しちゃいましたね。まったく、拍子抜けしたくらいです。

 いや、実はホントウに、その日のうちに、あの女が夢に出てきちゃって。それで枕元のケータイでピピッと。

 夢でさあ、「あたしの名前呼んでェ~」って、繰り返し繰り返し、耳の後ろあたりで声がしてさ。あんまり怖いもんだから、いい年して半泣きですよ。


 あ、いや、でも、住所とか名前とか、そういうのは怖かったんで、「オモカゲはうちにいます! 」ってだけ。だから解決したのは、あの後すぐだったんです。

 ……そしたらさあ、ドンドンって玄関を叩く音で目が覚めて。

 まだ真っ暗なんすよ。時計を見たら、二時十七分。近所迷惑じゃないっすか。隣の家は怖いおばちゃんだし、慌てて扉を開けたら、子供がいるんすよ。

 おれが「あんた誰」って言ったら、そのがきんちょが、えらくなまった言葉で、

「ヲツゴんところの、ナナシマいいますけえど。オモカゲはおりますか」って。……いやほんと、こんな感じです。

 あの……どうかしました? ま、いいや。

 夢の中でかけた電話でも、繋がるもんですねえ。そうそう。電話かけたまでが夢だったんです。

 うち、ワンルームしかないんで、玄関から全部見えるんすけど。

 そのナナシマってガキ、ぐるっと部屋ン中を見渡して、まっすぐ押入れ開けて何か叫んで……いや、おれには、訛りがきつくってよく分からなかったんですけれど、親が子供を呼ぶみたいに「帰るよ」とか、そういうことを言ったんじゃないかな。

 おれは、声にびっくりして黙ってんです。だからその子が、部屋の中に勝手に上がり込んでも、なんも言えなくって、まっすぐ押入れを開けましてね。そこ、クローゼットにしてるんですよ。ついさっき、寝入る前にも開けた場所です。


 そこからさ、あのマツゴローとかいう面を取り出されちゃあ、ぽかんとしますよね。

 そいつはそのまんま、面を片手にぶら下げて「お邪魔しましたあ~」って笑顔で帰っていきました。

 気づいたら朝! あれから女もあの夢も見ていません。

 でもほら、なんか見ず知らずの輩に家を知られてるかもっていうのが怖くって、引っ越すことにしたんすよ。

 それで、押入れもとうぜん空けるじゃあないっすか。

 そしたらこれが……。

 ああっ! 引かないでくださいよ! おれも処分に困ってるんです! だって、あの電話番号のメモ、失くしちゃったし……。お兄さんも、覚えてないですよね。

 ねえお兄さん。これ、燃えるゴミに出しちゃっていいもんすかね……?


 ◐


 オンヤア……お兄さんがた。いつぞやの……あれから景気けいきはどうだい?

 ウン……ウン?

 おいらを探していただって? ほうほう……なるほどねえ。

 話は分かった。

 フム、そりゃあ難儀なんぎだぁ。しかしだね……わたしも毎度、慈善じぜんで助けるわけにゃいかないんだよねえ。

 お、怒りなさんな!どうどう……エッ、わたしがグルなんじゃあないかって。

 ……そりゃあ、この世間は狭いけれどもサ、そんなわきゃあ無いじゃない。

 なんだって、あんたらを騙すのさ。電話代だって、こっちは得していないんだから。

 わたしがお願いしたのはだね、君たちにわたしのはなしを聞いてほしいってことなのさ。

 題名は……そうだな。はらみ人魚と惡のはな

 どうだい。ロマンチックなタイトルだろう。ふぁんたじっくな物語さ。エ? 禍々まがまがしいって?

 ジャア、ヨミノソトとでも、副題をつけようか。夜に水で『夜水よみのそと』。いいだろう? 文学っぽい。綺麗な題だ。このグランギニョール的な残酷劇にふさわしい。

 ウン、そう、噺を聞いてもらえるだけでいい……聞いたあとで、ナンヤラホイと言掛いいがかりをつけたりはしないよ。さかなのつもりで、一晩付き合ってくれたら良いのさ。

 ……し。じゃあ、オイちゃんからの肴だよ。


 ◐


 そこの空は、いつでも赤い色をしていた。

 もうずっとここにいるけれども、それが果たして夕日なのか、それとも暁なのか、知らなかった。

 川の方を向いたなら右の手に、あの石ばかりが丘になっている方を向けば、左手になるのが必然であり、今日きょうびまで疑問に思ったことはない。

 わたしは自分以外の人間には興味がなかったし、他のやつらもそうだと思うけれど、さて、今日の客はちょっとおかしいやつだった。

 向こうに見える一本きりの大きな木に向かい、白い長い影が、ずうっと向こうまで続いている。あの列は、わたしが知る限り途切れたことがない。近くで見ると分かるのだけれど、あれらはすべて白い着物を着た人間たちである。彼らは川を渡りに来ているのだ。わたしはいつも通り、白い影どもを見送りつつ、船尾を押して水面に滑らせていた。


 『そいつ』は、ちょうどわたしが船を水に乗せ、フゥと背筋を伸ばした時に声をかけてきた。黒髪の下に、白い顔が見える。ずいぶんと若いこと以外は、他のやつらと何ら変わりは無い。

 独特の海の潮のような香りがぷうんとにおう。血のめぐりを血潮というように、彼らの身体にこの香りがまとわりつくのは、その血を辿れば、わだつみを母とするからなのだろうか。

 どうやら、この船に乗りたいらしいが、さてどうしたものか……。こいつは分かっているのだろうか、と怪訝に思った。

 川原にぽつねんと一本の大樹が見える。あれは関所せきしょのようなものである。ばんをするオババがおり、わたしは彼女に指示されて、白いやつを対岸まで運ぶのだ。あの木はあんまりにも大きいので、この川原じゅうどこにいたって見える。あれを目印に、必ずオババのところに辿り着けるという寸法すんぽうである。

 わたしは彼女の許可が無いと乗せられない。わたしがそう言うと、そいつはにやりと笑って「いいんだよ」と言って、わたしを急かした。

 あんまりにも急かすので、わたしは困ってしまって、駆け足でオババにうかがいいにまいることにする。


『そいつ』を船の前に置いておくわけにもいかず、(泥棒をして、向こうにただで渡ろうとする不届きものは珍しくないのだ)仲良く川原をざりざり、歩くはめになった。

 気が重かった。

 わたしは要領が悪いので、時々こうしてオババに分からないことは尋ねに行くのだけれど、そのたびにオババは邪魔なわたしに向かって怒鳴り散らすのである。

 しかし勝手なことをすると、それはそれで「なんで聞かなかった」と、拳骨げんこつまで食らうので、やはりわたしの立場としては、窺いを立てずにはいられないのだった。


 オババは羊飼いのように白いやつらに囲まれ、迷える羊たちに向かって怒鳴り散らしては、川を渡れと水に突き落としていた。

 今日も忙しいオババは、鬼のような顔を鬼より怖くしてわたしを睨み、『そいつ』を睨んだ。


「なんだい! 」

 ああ、ええっと、その……。わたしはどう説明しようかと僅かの間だけ言いよどみ、睨みを強くしたオババの迫力に押され、あるがままを、なるべく分かりやすく語った。

 すると驚いたことに、オババは僅かに目を細め、品定めするように『そいつ』を見てから、私に向かってにっこりと笑ったのだ。

「ようし、分かった。話は聴いているよ。ゼニもいらない。乗せておやり」

 わたしはびっくりしてしまって、亀のように首を短くして、「いいんですか」と繰り返し尋ねた。すると短気なオババは、くるりとまた鬼の顔に戻るや「早くいきな! ぐずぐずしてるんじゃあないよ! 」と、わたしの尻を強く叩く。

 わたしは尻を抑えつつ、首を傾げ傾げ、船の元まで駆け戻り、もたつく“そいつ”の腕を取って船に乗せてやった。

 澄んだ水に膝まで浸かり、船を押し出した。やがて濡れた足を振りながらかいを手に、船頭に立つ。川は岸のほんの間際まではうっすら透き通っているけれど、この身の身長ほどまで漕ぎ出せばすっかり黒く濁りきって、虫か蛇の群れのようにうごめいている。


 船頭のくせにと情けなくて誰にも言ったことが無かったけれど……いや、そんなことを明かせる人間がいなかったのだけれど……わたしはその水が、そしてその川底が、怖くてたまらなかった。

 当たり前のことだけれど、川底だけを取り出して見ることだなんて出来るわけがない。そこにはどんな生き物がおり、どんなものが沈んでいるのか。こんなに真っ黒いわけをわたしは知らない。

 これは試練の川だ。あの白い列の共々が足を踏み入れるこの水が、時に沈んでいくこの川が、けして浮かんでこない者どもを――――亡者を喰っているのだろう何某なにがしかの生物が、わたしはいつだって、たまらなく恐ろしい。

 その、ひしめく蟲の間に櫂を差し入れる瞬間は、いつもぞくりと肌が泡立つ。川底を強く殴りつけ、わたしはあっという間に川瀬かわせを抜け出した。


 ぽつり、そう零すと、奴はウンと頷いた。

「ぼくも思うとりましたんや。ほうか、ここは、そないに長ぅおっても怖いとこにや変わらんにやな」

 そう、わたしはこんなにも怖いのだ。もっというのなら、ここにいる人たちにも恐怖を感じる。オババが怖いのはもちろん、うなだれて列に並んでいる白い人間たちも、また恐ろしい。もちろん、こいつも。

「不気味な川やァな。しかもえらく広い」

 そいつはぽつり、そう呟いた。

 わたしは自分に語りかけているとすぐに察したけれど、聞こえないふりをして櫂を漕いだ。


 きしきしとするのは、櫂かそれともわたしの腕か。かつんかつん船底を何かが叩くも、いつものことだと耳をふさぎ、わざと乱暴に流れをかき混ぜた。

「船頭さん、船に乗ってどれくらいになるのン? 」

 名指しされてしまっては、無視をする方が気に悪い。岸までは遠く、旅路はまだ長いのだ。

 わたしは、さあどれくらいかね。もう忘れたくらい長くかな。というようなことを言った。

「フウン。ねえ、船頭さん、ちょうっとお話しましょうや。暇なんです。ええでっしゃろ」

 わたしは駄目だとは言えません。首を垂れて、わたしは小さく言った。

「ふふふ。意地イ悪いこと言わんでくだしゃあ。これでもぼくはね、うつしよにいるときゃあ、それなりに長いこと色んな経験をさせてもろたんです。ね、いいでしょ? 聴いて下さいよォ」

 これじゃあ、意地が悪いのがどっちだかという話だ。

 仕方なしに、わたしは櫂を置き、船底に座した。船が穏やかに流れだし、客人はぎょっと身をすくませる。少しだけ胸がすく。ここまで来ればどうせ勝手に流れるだけなのだ。やがて岸に着くのだと、わたしは何でもないように取り繕って、言ったやった。客は問う。

「どんくらいかかる? 」

 さあ、だいぶかかるとは思うけれど。

「しやなあ……じゃあ、ちょっとそこらで人に聞いた話。むかしあった本当の話や。取るに足らない不思議な話―――――」

 奴は語りはじめる。

「ある日、天女の会合かいごうがあった。ああ、天女といったって、ぼくらが勝手にそう呼んどるゥだけやあで。空を駆け、天を飛びぬけ、水の底で息ができて、火の中で歌を歌うことができんねや。彼女らは何千年ぶりに顔を合わせて、それぞれの話をした。「そういえば」と、一人が言う。「そろそろあの子たちはどうなったカシラ」とまあ、こんな感じやな。実はそう多くない天女たちのうち、二人がいなくなっていた。彼女らは姉妹で、人間と一緒に暮らしたいがために、罰を受けて追放されたんやった。「アラ、すっかり忘れていたわ。そういえばそうだったわね」そのころ地上には、二人の人間がおった。一緒に育ったけれど、兄弟ではない。二人は一緒に暮らしていたけれど、恋人というわけでもなく、友達でもない。こいつらの名前は、『クモジ』と『カラフネ』という」

 奴は指で、船底に字を書いた。

「『くものこども』と書いて『雲児』、『からのふね』と書いて『空船』。

 子供でもなければ大人でもなく、男にも女にもならない。半分だけ人間で、半分は別の何か違うものだ。年を取らず、子供のまんま。いつかの昔に、泥の中から出でたもの。この二人は二人だけの秩序をもって、昼と夜とを生きている。

 そんな彼らを見下ろして、天女は言った。


「もうそろそろ、いいんじゃあないかしら」……ナンて、ね」


 ◐


 それは何の話?

 と、白けておっさんに聞きそうになってやめた。

 隣のお兄さんが、隣で前のめりになって聞き入っていることに気が付いたからだ。

 このお兄さんと知り合ったのは、つい先週のことだった。カラオケのあるスナックとバーの中間のような店で、隣で上手に一番好きなバンドの曲を歌ってくれたお兄さんに、酒の勢いもあって、おれの方から声をかけたのだった。

 ふだんなら絶対に会話しないであろうタイプの人間だ。相手もそうだっただろうと思う。

 それでも話が弾んだのは、やはり酒の力と、共通の好きなバンドの話題があったこと。それとあっちの方が、おれに何か感じるものがあったようだった。

 目の前のおっさんは、老けた四十か、もしかしたら五十六十いっているかもしれない。肩のゆったりとした黒い上着の下に、深緑色のセーターが見える。丸くて頬に点々と染みの浮かぶ浅黒い頭に、ブドウ色のハットを被っていた。

 おっさんは低い声色を作って、前歯が一本抜けている口で、子供のような邪気の無い笑顔を浮かべてツラヅラ話し続けている。

 そんな胡散臭いおっさんの話にすっかり心奪われた様子で、連れのお兄さんは、おっさんの歯抜けの間抜け面を凝視ぎょうししているのだ。

 なんとなく気味が悪かった。

 すぐ後ろのテーブルでは女子大生らしき集団が彼氏の愚痴を言っていたし、右隣の衝立ついたての向こうでは、二人組のサラリーマンが恥も無く風俗の感想を言っている。酒気の混じった生臭いにおいが、イマイチ冷房の薄い店内に充満していて。

 ……どうしよう。帰りたいな。

 そう思うのに、耳はおっさんの声に傾けられていた。

 それに今帰ったって、今ここにあるの処分が……。

 おれは仕方なく、もぞもぞと深く椅子に座りなおした。


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