人間はんぶん

 夜が明ける。

 雲児の、水のようにまっすぐの黒髪が、風に靡いている。


「ヒトは、生まれて最初に何をもらうと思う」

「さあ。ヒトでいたことは無いから、分からない」

「名前を貰うんだってサ。逝きつくまで自分の形をつくるものを、まっさらな形の上に押し付けられる」

「あら、ヒトもおんなじなのねェ」

「そうだよ。人魚もおんなじだ。ぼくらは意外と似とるようやで」


 隣の男の黒いシャツの袖を引いて、雲児はキャップの下から男の顔を覗き込んだ。

 丸い耳殻の裏が、朝日でできた藍色の陰に沈んでいる。


「だからぼくらは、きみに新しい名前をあげる」

 春の風が吹く。空船のシャツの腰元が捲れ上がる。


 雲児は袖を手放して、かわりにその、長い手指を強く握り込んだ。

「……帰ろ、橋姫。ぼく、料理うまいんだぁ。きみに食わせたい美味いもんが山ほどある」

「それは楽しみだ」

「浮世にや、楽しみは毎日生まれとるんよ」



 天には、黄泉の星が浮かぶ。

 泣いて暮らしても陽は昇るし、いずれ雨が降らねば乾いてしまう。

 地に足がつかなくても雲児は歩けているし、空船に同乗しているのは死人ばかり。

 有限でない命など無く、無限でない夢も無い。ぼくらは、毎日太陽と死んで生き返っている。生者のぼくは、死んだカッちゃんとしか話せないし、生きたカッちゃんは、死んでいるぼくとしか話せない。

 何も変わりはしなかった?

 いいや――――ものごとは変わるのだ。


 生きている限り、なにかの実は結ぶだろうと考えよう。どうせ先は長いのだ。

 なんせ、ぼくらを構成しているのは、八百と生きる人魚と、百年生きるヒトやもの。

 この命は千年続くに違いない。

 浮世とは、黄泉の上にあるから浮世というに違いない。


 嫌いだったものを好きになるということは、革新的な変化を日常にもたらした。

 我々は有限な命の上で自由だ。何を好いても、何を嫌っても良い。心の内で何を想うかを縛るすべは、未だ、この世に存在しない。



 不確かな空のした。


 そんな雲と舟ぼくらは、浮世の水のうえを、ぷかぷかしながら生きている。

















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