第5話 いつでもあなたは。 ♯1
高校入学からひと月。僕はようやく入部する部活を決めた。決心した、と言う方がしっくりくるかもしれない。
文芸部。中学の頃には、この三文字に目もくれなかったのに。
動機を訊かれれば、たぶん、僕から出る言葉は全てうそになるだろう。
思春期をひた走る僕は、本能ともいうべき感情に凧のように流されて、不純と評されるであろう理由を胸に、その扉を開いた。
どうして、本なんてまともに読んだこともない、夏休みの宿題の読書感想文もあらすじだけ読んで書いたような僕が、中学まで続けた野球を捨ててまで文芸部を選んだのか。
思春期をひた走る僕が恥を忍んで言うならば、単純明快、恋をしたのだ。
眼鏡を掛けた先輩、いかにも文学少女といった雰囲気だった。地味だ、なんていう人もいたけれど、この良さが分からないなら男を辞めてしまえと言いたくなる。
しとやかで、慎ましく、それでいて可愛らしい。「大和撫子」を辞書で引いてそこに松岡先輩の名前がなかったら、僕はその辞書を二度と開かないだろう。
僕が先輩を初めて見たのは、入学早々、校内探検などと称した暇つぶしの時だった。
一人でふらついて、何気なく図書室に入り。なんで学校には漫画は置いてないんだ、という長年の疑問を抱きつつ、図書委員今月のオススメコーナーを何気なく見てみると、『松岡のおすすめ』と書かれたポップのようなものが目に留まった。
その本は、『きみへ綴る』というタイトルだった。
紹介文には、『普段あまり本を読まないあなたにこそお勧め。恋の儚さ、このせつなさこそ青春。名作です!』とあった。
美しく、それでいてやや丸みのある、女性的な字だった。
『普段あまり本を読まないあなた』なんて、まさしく僕じゃないか。『あまり』の部分にはこの際目を瞑るとして、妙にざわざわした僕は、初めて図書館で本を借りることにした。汗まみれの青春もいいけれど、かっこをつけて文学の世界に手を伸ばしてみて、いっそ雰囲気もがらりと変えて高校デビュー、なんてものを企望するのもいいかもしれない。
貸出カウンターに持って行くと、眼鏡を掛けた女子生徒がいた。
黒髪のショートカットが、祖父母の家で見た日本人形のよう。でもその肌の美しさは、たぶん完璧な人形ですら敵わない。そう思ったのは、それだけ僕が、彼女のことを見つめていたからだと思う。
「図書室のご利用は初めてですか?」
「はい、初めてです。一年生なので」
名札を見ると、その人が上級生であることはすぐに分かった。松岡……この本を薦めるポップを書いた人だ。
「嬉しいです。初めて借りてくださる本がこの本で」
「ポップを読んで、普段全く本読まないからちょうどいいかなと思って。図書室も、初めてなんですけど」
「そうですか。あのポップ、相当悩んだんですよ。どうやったら、普段本を読まない方に本に触れてもらえるかな、って。つまりは、
「え、なんで僕の名前……」
先輩は、ふふ、と笑った。
「胸元の名札に書いてありますよ」
「あ、ああそうでした」
僕は照れを隠そうと笑う。先輩は、柔らかな笑みで返してくれた。
今日ほど、この高校の制服を愛おしく思った日もないだろう。しみじみとそう感じた。
他校の派手なものを知っていると、リボンもなく、ブレザーとスカートが紺の同色という、良く言えばおとなしい、正直に言うならばつまらないとさえ思う単調ぶりがなんとも物足りなかったのだが、松岡先輩が着るのならば話は別だ。
つまりはシンプルイズベスト。先輩の清純さや、儚ささえ内包した、優しく柔らかな雰囲気を邪魔しないこの単調さこそ、この制服の良さなのだ、と、この瞬間の僕は熱弁をふるえただろう。
「では、素敵な一時を。ゆっくり、ご自分のペースで楽しんでくださいね」
先輩の微笑み。春の桜を想起する、淡く温かな微笑み。
たった数十秒だった。だけど。
そよ風のような声、小さな躰、笑顔。眼鏡。本。制服。彼女の持つもの全て。
その瞬間、僕は恋に落ちた。初恋だった。
図書室を後にしても呆けたままの僕は、すっかり彼女のことばかり考えるようになっていた。
翌々日あたりには、松岡先輩が文芸部に所属していることを知った。
五日間は、真剣に悩んだ。
でも、とうとう、僕は決意した。
『きみへ綴る』という本が、背中を押してくれたのだ。
そんなに分厚くもないのに、読むのに返却期限ギリギリまでかかったけれど、一つ一つの言葉を噛みしめるように、ゆっくりとページをめくっていったことは無駄じゃなかった。
ストーリーは、主人公の少年が、中学、高校、大学と成長する中で、恋をして、時に結ばれ、時に散り、出会いと別れを繰り返し大人になっていくことの喜びと儚さを知っていく、まさしく青春ラブストーリーだった。
こういういかにもな本を読んでいることを親にばれたくなかった僕は、自室で一人、先輩の姿や声を思い出しながら本を開き、主人公に自分を重ねていた。
読み終えた時、僕は入部を決めていた。
物語を締めくくる一文。
――あなたを好きになって、ほんとうに良かった。
悩みながらも、その時々の等身大で恋をし続けた主人公は、幾つもの素敵な出会いをこう表現した。
そしてこの一文が、僕の心にずどんと入ってきたことが、何よりの理由と言っていい。
この恋に後悔したくない。
だって好きになったんだ。想いを抱えたまま、近くにもいられないなんて、そんなのは嫌だった。
この主人公のように、想いに正直に生きていこう。
そして僕は、文芸部の部員として高校生活を歩むことを決意した。
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