第4話 幸福は、いつでも誰かの隣にて。 ♯4

 つまり、私は救われた。


 拘束時間十分。一時間掛かるなんて言われた時を思い返せば、奇跡でも見ているようだった。


 関係者用出入り口から店内へと戻り、真っ先に視界に飛び込んで来たのは、やはり、彼女の姿だった。


 向こうも気づき、静粛にすべき書店内にもかかわらず、彼女は叫ぶように名前を呼んだ。


武廣たけひろ!」

「心配させてごめ……」


 私が言い終える前に、真奈加まなかは人目を憚らずに抱きついてきた。お互いの頬がぶつかって、冷たい肌の感触が私に伝わった。その冷たさは、彼女の不安を物語っているように思えた。


「心配した……心配した!」


 涙声が私の胸を抉るように響いた。

 周囲からの、奇異なものを見る目も、今ばかりは気にならない。


「大丈夫。ちゃんと無実だってこと、分かってもらえたから」

「良かった……良かった……」


 私は真奈加の背中をとんとんと叩きながら、「ごめん」を、何度も、何度も、言い続けた。


 たった十分と言えど、状況一つだって把握できず、ただ待つばかりの真奈加からすれば相当な時間に感じただろう。


 化粧が崩れるから泣いちゃ駄目だよ、と言うと、真奈加は「分がっでるぅ」と、ボロボロと泣いていそうな声が耳元で呟かれる。


「ごめん。心配させて」そう言うことしか私には出来なかったけれど、真奈加は頷いて、強がるように、私を強く抱きしめていた。


 一人の部屋は怖かったけれど、今この時、真奈加の体温を感じられる瞬間、これこそが幸せというものなのかも知れないと思った。


 しかし、この状況でありながら、私には一つ気になることが……。


「あ、あの、どうして泣いてるんですか、実結みゆいさん」


 振り返るまでもなく、背後の少女のすすり泣く声に向かって私は問いかける。


「だって、幸せで溢れてるんですもん」


 鼻をすする音が聞こえる。どれだけ泣いているんだろう。むしろ実結さんのお化粧が心配だ。


「武廣……彼女は?」


 私の肩越しに実結さんと対面した真奈加がそう尋ねてきたので、私たちはようやく離れて、短時間解決へと導いてくれた立役者であり恩人を、ドキドキしながら真奈加に紹介した。



   ○



「じゃあ、あなたがいなかったら武廣は……」


 室内で起きた解決までの過程を含めて簡単に説明すると、真奈加の想像は一気に飛躍したようで、受験戦争を乗り切った教育ママのような素振りで、口許を手で押さえた。また泣きそうだ。ここまで涙もろい真奈加は何年振りに見るだろう。


「あ、あの、大丈夫なんですよ。防犯カメラを見ればすぐに解決できる問題だったのですが、その確認までに時間が掛かりそうだったのを、少し早めようとしただけなんです。武廣さんはどう転んでも無実ですから」


「そ、そうなんだ……良かった」零れ落ちそうになる涙をハンカチで拭い、真奈加はやっと満面の笑みを見せた。


 簡単には泣かない真奈加がここまで涙を流しているところを見ると、恋人としては心がしめつけられる。心配させてごめん、という思いと、目の前の少女に心を奪われた自分への罪悪感で、胸元が嫌にズキズキする。後者はまさしく自業自得。背負うべき痛みだ。


「でも、どうしてそんなこと。カメラ見た方が確実だったのに」


 真奈加はそんな疑問を口にするが、正直、それは私も気になっていたところだった。私自身にとってはとてもありがたいことではあったけれど、あの場で口を出すことは、実結さんにとって、メリットがあるようには思えないのだ。


「解決は容易だと思ったので、そうしたまでですよ」

「か、かっこいい……なんか探偵さんみたい」真奈加が何気なく呟いた。


 その一言に、実結さんは髪を振り乱しながら、可愛らしく照れた様子を見せる。


「そんな、お恥ずかしい。わたしはただ、わたしが図々しく口を挟んで、お二人の幸せがお守りできるなら、そうするべきと思ったまでで」


 私たちがにやにやしながら見ていると、実結さんは顔を真っ赤にして、わざとらしく可愛らしい咳払いをする。


「おほんっ。わ、わたしは、謎解きがしたかった訳でも、事件を解決したかった訳でもないんです。誰かの幸せを見ることが好きなわたしが、ただ、お二人の時間をお守りしたいと思っただけなのですから」


 実結さんは、髪を手で押さえた後、胸に手を当て、徐に目を閉じ、女神の如き微笑みで、漂う空気に優しさの色を差していく。


「お二人がご来店された時の笑顔、とっても素敵だったんです。それはもう目が離せないくらいに。確かに、いたずらに待っているだけでも、精々一時間もあれば自然と解決する事件だったのかもしれません。ですが、たった一時間でさえ、その幸せが陰ってなど欲しくなかったのです。勝手な、わたしの我が儘なんです」


 基本的に人見知りな真奈加が、とうとう実結さんにまで抱きついた。二重の嫉妬が芽生える。


「こんなに素敵な我が儘なら、いくらもらっても幸せだよ」


「いえ。わたしも、お二人から幸せを頂きましたから。その、口づけをかわす瞬間というものは、なかなか拝見出来るものではないので……出来ればお手持ちのバッグがもう少し小さければ嬉しかったなあと、本音ではそう思っていますが」


 ――あ。私の喉が変な音を発した。


「……ん? 口づ、け? き、き、キス? どうして、それ……」


「はい。見ておりましたので」ここまで来ると実結さんも遠慮なく仰る。


「見て、たんだ」

「はい」

「武廣?」真奈加は実結さんに抱きついたまま首をぐるりと回して私を見た。


「い、いや、それは真奈加がしたいって言うからしたんであって、こっちを見られても困るというか。そんな顔真っ赤にして恥ずかしそうにするならそもそもねだってこないで欲しいというか」

「そ、そんな言い方ないじゃん! 武廣は私と、ちゅ……ちゅーしたくないわけ!?」

「したいよ、でも本屋さんでじゃない!」

「じゃあ帰ったらイヤって言うほどするから! イヤって言っても止めないから!」

「の……望むところだ!」


 なんて、今日一番の恥ずかし問答。気付いた時にはもう手遅れで。


 ここは未だ書店内であり、行き交う人々は当然いるわけでして、こんなバカップルを絵に描いたようなやり取りをこのような所で行ってしまったという事実だけで赤面不可避の大恥も大恥。バッグで隠したキスなんかより大ダメージ。


 しかし一人、実結さんだけは、満面の笑みで私たちを見つめていた。


「ああ。幸せって、いいですね」ふと、そんなことを言っていたけれど。


 実結さん、あなたの幸せって、なんですか。


 いわゆる痴話喧嘩という奴も、守備範囲なのですか。


 私にはちょっと、分かりかねます。


 でも、実結さんのその笑顔は、わたしにとっての幸せです。それは、間違いありません。



   ○



 何度も何度もお礼を伝え、私たちは本来の目的であった食料の買い出しに向かった。


 実結さんは最後に、『幸せな時間をお過ごしくださいね』と、終始、私たちの時間を大切に想ってくれていた。


 私は、実結さんに一目惚れをした。心からの優しさに、しっとりと惚れた。


 それは、中学生のような可愛らしい恋心なのだけれど、あそこまで人の幸せを願うことが出来て、あそこまで素敵な笑顔を見せてくれる女性を、好きにならない人がいるのだろうか、と言いたい気分だ。


 私は、つい、考えてしまった。


 もし、今日、隣に真奈加がいなかったとして。

 恋人がいることを、実結さんが知らなかったとして。


 私は、あの金本とかいう万引き犯みたく、彼女なんていません、なんて、そんな風に振舞ってしまうのだろうか。恋人がいない振りをして、実結さんへの恋心に、正直に突き進んでしまうのだろうか。


 いいや。実結さんのことだ。気付いてしまうに違いない。そんな嘘、気付かない筈がない。


 そもそも、真奈加と二人、藹藹あいあいと話す姿に実結さんの目は引かれたのだから、この出会いも、一人きりでは存在しないものになっていたのだろう。


 誰かの隣にいて見せる笑顔こそが幸せなのだと、実結さんは言っていた。


 スーパーの買い物カートを押しながら、私は真奈加を見た。


「どうした?」

「いや。なんでもない」


 何気にない日常こそが幸福であり、何気ない出会いこそが幸福である。


 大切な人が隣にいる幸せ。大切な人が隣にいたからこそ訪れた一時の幸せ。


 私は、幾度も片想いをしてきた。


 結ばれたのは、一度だけだ。


 私は、すぐに人を好きになる。


 移り気で、どうしようもない人間だ。


 だから私は、実結さんに恋をして、そして、当たり前のように諦める。


 今日の出会いは、本当に幸せだったのか。考えずにはいられない。


「ねえ、武廣」

「なに?」

「実結ちゃん可愛かったね」

「……うん」


 こんなようなやり取りも、真奈加と付き合ってからは、もう何度したかわからない。


「分かりやすいよね。武廣は」

「……うん、知ってる」


 こうして、今日も私は、私の恋を諦める。


「私を受け入れてくれるのは、真奈加だけだから」


 そう言うと、決まって、真奈加は悲しそうな顔をする。


「そうだよ。普通の女の子は、女の子と付き合ったりしないんだから。感謝してよ……麗奈」


「うん。分かってる……」


 私は変わらない。変わることなんて出来ない。それを知っていて、真奈加は私の隣にいてくれる。


 贅沢を言ってはいけない。


 彼女が隣にいてくれることは、私にとって、武廣麗奈たけひろれいなにとって、この上ない、奇跡である筈なのだから。

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